履歴書  (2003.4.7)

 履歴書というモノを最後に書いたのがいつだったのか定かではないけど、けっこう難しいモノなんですよねえ。ちゃんとどこかに書き留めてないと、学歴や職歴の年がよく分からなかったりする。

 以前バイトしていた店で、新しくバイトに入った中国人男子留学生の履歴書を見せてもらったことがある。

・平成○○年 上海○○高校卒業
・平成○○年 上海○○大学××学部卒業
・平成○○年 ○○関係の会社に入社
・平成○○年 中国からやってまいりました。

な、なんかかわいい・・(^^)

またまた今時の若者  (2003.4.10)

 新社会人が「新人類」だの「新新人類」だのと言われて、かなりになると思います。またまた、このほど、新社会人を対象にした思考調査が行われたらしい。

 それによると、
・時間になると、さっさと帰ってしまう。
・命令されても「出来ない(無理です)」という。
・尊敬する人物に臆面もなく親を出す。
などなど・・・。

 2番目はオイオイだけど、そのほか、ここに出していない項目についても、そんなに憂慮することか?と思ってしまう。確かに今までの価値観や風潮では、眉をしかめるようなことだったかも知れないが、それでいいんじゃないか?と思う。
 「時間になると帰ろうとする」に対しては「教育し直さなくちゃダメですね」という街頭インタビューもあった。お前の方が考え直せと言いたいところですな。親を尊敬すると、正々堂々と言えるというのは、とても良いことじゃないか?謙虚さが美徳の今までの価値観では、ちょっと恥ずかしい事なのだろうけど。

 自分は新卒で就職した20年ほど前でも、自分のその日やるべき事が終わったら、さっさと帰ってましたね。やはり「つきあい残業」の雰囲気は色濃くあったけど、それはきわめて悪い風潮だと思ったし、会社の仕事のために生きているわけではないと強く思ってたし。「お先に失礼しまーす」と言うと、上司は「ほんまに失礼なやっちゃな」と笑っていたが、あれは本心だろうと思っていた。

 会社を変わって、自分が新人を教育する側に廻ったとき、僕が仕事が終わらずに残業しているとき、その新人も帰りづらくて残業しようとしていたので、そういうときはかまわずに帰るように言った。
 確かにつきあい残業という風潮はあるし、それが会社人の「つきあい」のような錯覚があるが、つきあってしまうことで、今度は彼が逆の立場になったときに、他の人につきあいを強いる雰囲気を作ってしまうから、と諭した。本当に周りの人が困って残業をしていて、それに手を貸すという場合は良いのだけど、ただ雰囲気でのつきあいというのは、いい加減に断ち切るべき風潮であると強く思っていたのだ。どうしてもつきあいたい人は、お互いにひきずっていればいいのだ。そういうのを連帯感だと思っているのなら、大いなる勘違いである。

 最初の会社は、確かにそういう風潮を残していたけど、人間関係も良く、良い職場でした。ちょっと眉をしかめていた上司も、それが良い風潮でないことは分かっていたので、冗談めかして「失礼なやっちゃな」と言っていたのだと思う。(わ~、、でも、そのときの上司って、今の自分より5つくらい年下だぁ~・・・)
 そのことでとがめられたこともないし。(放置されたのか?^^;;)
 しかし、自分が退社(辞めた)した直後、もちろん余計な残業代を削る意味もあって、残業したい者は届け出が義務づけられた。

世紀末  (2003.4.12)

 何か恐ろしいことが起こりそうなとき、あるいは起こったときに「世紀末」という表現がされていましたね。最近はとんと聞かないが、それも当たり前で、世紀末を通り越して今は世紀の初頭だから。
 単なる慣用句として「世紀末」という表現が使われるのなら納得していたが、世紀の終わりだから、悪いことが起こるという雰囲気には猛反対していた。心の中で。だって、世紀末というのは単なるキリスト教歴の数字のマジックの問題に過ぎないもん。キリスト教徒ではないモノには全く関係ないはずだし。もしもキリスト教の中で、世紀末という事が意味をなすのだとしたら、なんで「十進法」でのキリの良い数字の部分で問題になるのかも疑問だ。

 最近思うのは、世紀末を通り過ぎてしまった今、同じ表現をするときに、どんな単語を使っているのだろうか?ということ。世紀末という表現はあと半世紀は、あまり意味をなさないだろうし。

人気の店  (2003.4.14)

 グルメブームなどという言葉も死語になってしまったけど、相変わらず、有名人が行くおすすめの店、テレビや雑誌で紹介された店、というのは後を絶たない。地元の下北沢には、そういう店がたくさんある。そこがちゃんと美味ければ許そう。でも・・・

 食の種類を書くと、店が分かってしまう人もいるので、あえて書かないけど、はっきり言って不味い!店も何軒かある。壁にはベタベタと芸能人のサインを貼っている。だいたい、そういうことをしているのも好きじゃない。
 あるエッセイに、店内にサインがやたらに貼ってある店は不味い、と書いてあったが、その法則は結構当たっているようにも思う。まあ、全部が不味いとは言わないけど、取り立てて美味いと言うわけではない店がほとんどなのだ。少なくともうちの地元では。
 ある店は一度入って美味くなかった。壁には所狭しとサインが貼ってあるし、お昼時の、み○も○た氏のテレビでも紹介されたという事も派手に書かれていた。自分の好みとか、体調、あるいはそのときに頼んだモノが好みでなかったのかも知れないと思って、今度は友人とともにその店に。
 友人曰く「不味い・・・」。やはりそうか!もしかすると、ちょっと味覚のおかしな有名人が美味いと言ってしまって、後の人が不味いとは言えなくなってしまったんじゃないのか?とさえ思える。

 弁護をすると、地元の食事関係の店は、美味しくて客商売としてしっかりしているところが多い。ところが、前述のような有名店の方がおいおい・・・と言うところが多いのだ。人気が出て、客が増えすぎて味が落ちたというのとは明らかに違う。どう見ても、言うほどではないと思うのだ。

 不味いだけなら許せる。(さっき「許せない」と言ったぢゃん;;)
地元ではないが、超有名店で、数々のトラブルや食中毒を出しているが、表沙汰にならないところもあるし、食中毒を出さないのが不思議という店もある(知人でもある従業員の証言)。

 話題のお店があふれる地元で暮らしていると、ごく普通の安心して食べられるお店があって欲しいと常々思う。あまりに地元民は蚊帳の外という店が多すぎる。観光地じゃないんだからさぁ。

お化け屋敷  (2003.4.16)

 お化け屋敷。
最近でも「お化け屋敷」と言うんでしょうか?今までにああいうのが怖いと思ったことは一度もない。いや、元から幽霊の類が怖くなかったのではありません。今でこそ、夜中に一人でも、平気で霊写真を眺めることが出来ますが、小学校の頃はとてもダメでした。テレビなんかで霊写真が紹介されると思わず目を閉じたし、夜中にトイレに行くのも怖かった。でも、お化け屋敷が怖いと思ったことはない。はっきり作り物だと分かっているからである。
 作り物だと分かっているから、どんなにおどろおどろしくリアルに作ってあっても、怖いとは思わなかった。考えたら、幽霊の類が怖かったのも、姿の問題ではないのだ。正体が分からないことに対する恐怖だったのだ。最近のお化け屋敷というのがどういうものかは知らないけど、おどろおどろしいのではなく、ごく普通の人間の姿にした方が怖かったりして。^^

 普段は特に恐がりでもないのに、お化け屋敷は全くダメという人って多いですよね。あれ、どうにも理解できないんです。なんでそんなに怖いのか。
 そりゃ、屋敷の中を廻っていて、「びっくり」することはある。いくら怖くないと言っても、急に目の前に出られたり、おかしな状況になると、健全な反応としてびっくりはする。でも、怖いわけではない。 恐がりでもない人が、びっくりするのが嫌なんじゃなくて、「怖い」というのがどうにも理解できない。

 お化け屋敷を管理している人は、仕事だから怖いことは無いのだろうけど、唯一怖い時があるという。閉園になって、全ての箇所を見回るという仕事がある。まれに、中で気絶して倒れている人がいるので、そういうのも見回らなければならない。あるいは、閉園になるのを待って潜んでいる者だっているかも知れない。そういうわけで、一回り屋敷の中を見回るそうだ。実はこのときが一番怖いという。なにしろ、全ての仕掛けは止まっている。動くはずはないのだから・・・・。

お菊人形  (2003.4.17)

 「お化け屋敷」で思い出した。最近はとんと聞かなくなったけど、昔は怪奇話の定番と言えば「お菊人形」でしたね。切っても切っても、髪が伸びてきて、最初は閉じていた口も、年を追うごとに開いて笑みを浮かべていた。
 今から25年以上前には良くテレビに紹介されていたけど、最近はどうしたんだろう?

 夏休みになると、お昼の番組は怪談や怪奇モノをやるのが常識でした。今のワイドショーの前身のようなお昼の番組「アフタヌーンショー」でも、毎週水曜日に怪奇モノをやってましたね。

 さて、どこの番組だったか定かではないが、ハゲた男性司会者と女性アシスタント(アナウンサー?)が進行をつとめる番組。お菊人形のお話が始まろうとしていた。

女性アシスタント 「それでは次は、独りでに髪の毛が生えてくるというお人形です。」
男性司会者    「そいつぁー、うらやましい話ですなぁ。」

花の名前  (2003.4.20)

 花の名前には疎い。もう、恐ろしく疎い。

 いま住んでいる家は、立て替えてから15年以上になる。それ以前の土地を祖父から、母親と、いま隣に住んでいる叔父とで半分ずつ相続したので、庭も完全に新しくなっている。
 その庭にはあまり出ることはないのだが、咲いている花の名前をつい最近知ったモノが多い。ユキヤナギ、サザンカ、キキョウ、・・・、、、。みんな今年になって名前と花が一致した。繰り返すが、この庭になって15年以上である。
 それまで知っていたのは、アジサイとハナダイコンくらいのモノ^^;;;;;。あ、沈丁花も数ヶ月前に知った。ミヤコワスレも昨年知ったっけ。ほかのHPの掲示板で、沈丁花の強い香りの話が出た。そのちょっと前に、うちの庭にも沈丁花があることを知った、と言うか、名前が沈丁花であることを知ったのだが、香りのことは意識になかった。
 あんな強い香りに気づかないのか?といぶかられたが、全然意識になかった。で、庭に出て、香りを確かめた。ああ~!!、この香りだったのか。確かに香りが強い。そして、香りの記憶はある。でも、全く気にしていなかったのだ。それ以来、横を通るとき(玄関先に咲いている)に強い香りが鼻を突いた。

 本当に花に疎く、好きな花はサクラと菜の花。ひまわりも夏らしくて好きだが、いまいち主張が強すぎる。菜の花が好きなのは、珍しくもなくたくましく咲いている野草で、元来黄色が好きだというのも関係があるかも知れない。植物を育てるのもへたで、維持の簡単な、もらったポトスを枯らした強者である。ハーブなんかをもらった日にゃぁ、あっという間に枯らしてしまった。

 疎いからと言って、花が嫌いなわけではない。町を歩いていて、何気なく咲いている花が良いなぁと思うことは多々ある。ただ、いちいち名前を調べるのがめんどくさいのと、花と名前を一致させようと、あまり思っていないせいだと思う。。
 だから、花の絵がきわめて少ないのも、花に興味がないからではないのです。


どうも、上に書いた植物はハーブではなかったようだ。もっと繊細な植物だったし。
繊細な植物=“ハーブ”なんて思っていたほど、知らなかったのだった。;;

リバーシブル  (2003.4.22)

 最近はあまり、リバーシブルの服を見なくなりました。あまり服を買わないから、気づかないだけなのか?

 以前、そんなリバーシブルのジャンパーを着ていたときのこと。茶店のバイトの子が、
 「それって、オートリバースですよね」
    ・・・・・・・・・・
 勝手に裏返ってもらっても困るぞ。

最初の記憶  (2003.4.24)

 物心・・・ではなく、一番最初の記憶、実はそれはかなりはっきり覚えている。
 状況から考えたら、歯がまだ生える前で、もちろんしゃべれる年齢でもない。親に抱かれてあやされている頃である。父親に抱かれ、かみ砕いたゴマせんべいを口移しに食べさせてもらっている映像である。映像だけではなく、その味も記憶に残っている。だから、ゴマせんべいだと分かっているのだが。
 父親の頭越しには天井が見えているので、角度的には抱かれてそのようにされている状況はつじつまは合っている。記憶に残っていても、医学的には問題ないのだろうが、普通は覚えていないはずの頃の記憶であろう。
 どてらのようなモノを着せられて、座布団の上に立てられ、転げそうになる記憶を持っていると言った友人もいた。

 自分のその記憶が事実としても、おそらくいくらかは脚色や変更がくわえられているだろう。記憶というのは、少しずつ脚色などがくわえられていくもので、そのままの形でいつまでも頭に残っていることはないそうだ。その上、子供の脳波は、一日中夢見の状態に近いらしく、夢と現実と幻覚が入り交じっていることもあるという。事実、3~4歳の頃の記憶に、明らかに現実そのままではあり得ないモノがいくつもある。夢ではなく、現実なのだが空想のようなモノが入り交じっている。

 だから、そのゴマせんべいを食べさせてもらった記憶も、そのままではないのだろう。でも、少なくとも3~4歳の頃には、その記憶があるのに気づいていたのだから、大きくなってから作り出した記憶ではない。

 面白いことにその記憶には、感情的なニュアンスというモノが全くない。何も考えず、考えることも出来ず、ただ、五感からそのような刺激を入力しただけ、という感じなのだ。

第一印象  (2003.4.26)

 人間はやっぱり顔だと思う。「顔じゃない、心だ!」なんてフレーズも古いものになった。もちろん、美的に整った顔が良いと言っているのではない。内面というのは、やっぱり顔に出るものだと思うのだ。
 同じ人間の同じ時期の顔でも、内面の変化によって、まるっきり印象が変わってしまうことはあるでしょう。ここで悪役俳優の劇中と私生活の違いを、例として出すのが適当かどうかはわかりませんが。

 10年ほど前、全くの初対面のある男に会ったときの印象は、滅多にない感情を呼び起こさせた。いきなりひっぱたきたくなるほどに第一印象が悪かった。第一印象が悪いというのは、そう珍しくはないけど、殴りたくなるほどに悪いなんて、普通まずあり得ないでしょう。そもそも、ひと言も言葉を交わしたわけではなく、顔を見ただけなのだ。

 ちょっと話して、まあ、悪いヤツでは無いんだろうと言うことは分かった。でも、本当に印象が悪かった。なんというか、思い切りふてくされた目つきで、こちらを思い切り見下ろしている感じだったのだ。もちろん、彼にはそんなつもりはなく、普通なのだ。
 あとで、共通の知人にそのことを話すと、それなりに納得していた。つきあってみれば良いヤツだよ、と言われたし、確かにそうなんだろうけど、「いいよ。わざわざつきあいたくねえよ。」と答えておいた。その彼の仕事が、カウンセラーもどきのことをやっているのだから、驚きも倍増である。

 どういう生き方をしようと勝手だが、一生誰とも会わない無人島で暮らしているわけではないし、相手に悪い印象を与えて良いということはないと思うのだ。

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