健康のための食事 (2003.3.15)
日本食が、健康食として世界中で注目されたのは、もうそれほど最近の事ではありませんね。日本人自身も、従来の和食が身体に良いことを見直してきてもいます。和食以外にも、身体に良い食事というのが、どんどん話題にも取り上げられています。
ここで気になるのが、あまりに「健康のため」「身体に良い」という概念が前面に出すぎているんじゃないか?と言うこと。
野菜を食べるのでも、「ビタミン○○が豊富だから」「繊維質が多くて良い」とか・・・etc,etc,,,,
たしかに、食事による制限などが必要な人も多いでしょうが、本来は楽しんで食べるものだったのに、まるで燃料のような雰囲気も感じる。
視覚、味覚、嗅覚などを総動員して楽しむ食事を、いまどきは「頭」で食べているように感じる。
勝手な思い悩み (2003.3.17)
悩むということに関しては、以前にも書きました。今回は、「勝手にくよくよする」という悩みについてです。
自分はもともと、くよくよと思い悩む方でした。というより、もともとは今のように脳天気だったけど、ある時期はくよくよと後悔や心配をすることが多かったと、言うべきでしょうかね。
誰でも同じ経験はあるでしょうが、例えば、相手に言ってしまったことを、言わなきゃ良かったと思い悩む。直接の会話でなくても、最近ならメールでもそういうケースはあるでしょう。自分の言葉をどう思っただろうか?傷つけたかも知れない、誤解を与えたかも知れない。そのことで延々と思い悩む。
頭の中で、あーかも知れない、こーかも知れない、、、と。もちろんこういう場合は、ほとんど悪い方向に考えますね。
自分もこういうケースがたくさんありました。相手に確かめるわけにもいかない、というか、確かめづらい。自分の頭の中で「勝手に」どんどん話がふくらんで展開していく。
あるとき、それが「勝手な思い悩み」だと気づいた。何かの本を読んだ影響だったのかも知れない。
自分の頭の中で悪い方向に展開している内容と、現実世界の相手は全く別であって、自分で勝手に悪い方へ考えていただけだったと。で、たいていの場合、後でその相手と話をすることが出来たとき、相手は全然気にしていなかったり、自分の言葉は悪いように誤解されていなかったりする。自分で勝手に悪い方向に、想像力を総動員していただけだったりする。
もちろん、ノー天気な今でも、勝手に思い悩んでしまうことは多いです。予想外の事態になったとき、それから先のことを心配して、悪い方向に考えてしまったり。でも、それもどうなるか分からないものを、勝手に悪い方向へ想像しているだけなんです。「備える」事が出来るような事柄で、その価値があるモノだったら、それはそれで考える意味はあるけど、そうでなくて、自分で勝手に悪い方向へ考えているだけだったら、我に返ってそれに気づいたら、もう考えるのを止めるようにしています。これは、「現実から逃げる」ということではなく、勝手に悪く解釈するという悪癖を止めることであると思っています。
そもそも、そこで悪い方向へ考えて思い悩んでいるというのは、やっぱり暇で、余裕なんですよね^^;;。本当に大変な事態だったら、そんなよけいなことを考えるより前に、やるべき事はあるのだから。
かくし味 (2003.3.19)
中学一年頃だったと思う。国語の時間。
教科書の小説を勉強していた。何の小説だったか、内容もよく覚えていないけど。
その小説の中で、家での心配していた事態が好転して、主人公の少年が喜んで家に帰る場面の解釈をしていた。帰る道すがら、少年は頭の片隅で、本当はまだ事態は好転していないんじゃないのか?なんて喜びの中で考えながら走って帰っていった。
国語の先生は言った。
「どうして、この子は、本当はうれしいのに、そんな事を考えたんでしょうね?」
先に解答を書くと、うれしさを倍増させるために、わざとちょっと悪い状況を想像していたというもの。
さて、先生は言った。「みなさん。たとえば、お汁粉をもうちょっと甘くしたいな、と思ったら、何を加えますか?」
もちろん、みんないっせいに、「塩を加える」と合唱した。
「なに?塩?なんで?」
自分は「砂糖をもっと加える」と言いかかっていたのだった。かくし味の概念なんて知らなかったんだもん;;;。
不気味な集団 (2003.3.21)
かつて、父親がアジアに単身赴任していた頃、赴任中は夏休みに1ヶ月間、家族で現地に遊びに行っていました。
18か19の時だった。インドネシアから1ヶ月ぶりに帰ってきて、何日か後に東京駅に行きました。夕食時前だったと思う。
東京駅丸の内側の、とある立ち食いソバ屋の前を通りかかったか、入ろうかしていた。店内を見て、ギョッとした。ダークスーツを着たサラリーマン達が、みんな立ってソバを食べていた。身の毛がよだった。怖いと言うより、ものすごく不気味な光景だった。
いろいろな体格、いろいろな顔や年齢の人がいたはずなのだが、まるでクローンで作られた同じ人間が同じ表情、同じ仕草で、集団で食べているように見えた。
良く外国人が、観光などで日本人の集団がいると、不気味な印象を受けるというのを聞いた。みんな同じ表情、同じ行動、個性が感じられないと。極端な人では、いきなり刀で斬りかかって来るんじゃないか、という感じを受けると。
自分がそのとき受けた印象も、そういう事だったと思う。まるで、どこかに命令を下すマザーコンピューターがあって、それに従って動いている集団に見えたのだ。失礼なことではあるのだけど、とても生身の個性のある人間達とは思えなかった。
後にも先にも、あれほど人間を人間でなく感じたことはない。本当に、ただただ不気味だったのだ。
電柱への思い入れ (2003.3.21)
電柱って、結構いいな、と思ってます。そう、町中に無造作に建って電線を渡している電柱です。いや別に、前世が犬だったとかいうわけではありません。
もちろん美的にきれいだとか、いいと思っているわけではありません。狭い住宅街などでは、道幅をとる電柱は邪魔だし、景観を損ねると言って埋設するところも増えました。銀座などではかなり前から埋設したので、地上では電柱も電線も姿を消してますね。でも、特に住宅地の場合、電柱や電線があると、なんか生活感があって好きなんです。幼少からそれがある中で育ち、生活をし、見てきたので、いい悪いを通り越して、頭の中に擦り込まれているのだと思います。
新興住宅地では、前述のように埋設されていて電柱を見かけないこともありますし、そうでなくても、住宅地の完成イメージ画などでは、電柱は描かないのが普通です。でも、そういうのを見ると、なんか不自然と言うか、生活感を感じない。なんとなく、きれいな家だけ並ぶゴーストタウンのように。
だから、住宅街の絵を描くときは、好んで電柱や電線を描きます。電柱を中心的なモチーフに選ぶことさえあります。無機質で無造作な電柱や電線ですが、豊富な表情を見せることだってあります。
海外から帰国したとき、一番日本に戻ってきたと実感するのは、空港からの電車や車から、住宅街に建ち並ぶ屋根の上のテレビアンテナと電柱群を見たときです。そして都心部に入って、東京ならば山手線に乗ると、思い切り日常の感覚に引き戻される。鉄道のない沖縄から戻ったときも、山手線に乗ると、ため息とともに日常の現実に戻されますね。
欧米に比べ日本がやたら電柱や電線が地上に顔を出しているのは、都市計画の問題と、地震大国で地下埋設することの難しさもあったのでしょう。その技術がクリアされた今、どんどん埋設は進むと思います。と、思ってはいるのですが、ことのほか進まないんですよね。
描きたい風景の中に電柱や電線があった場合は、描かない処理をする絵描きは多いでしょう。でも、自分は前述のように電柱や電線が好きだし、大いなる日本の風景の中の、大事な一要素だと思っているので、大事に描いています。
良識の問題 (2003.3.26)
今までに、イラスト関係の仕事で、失礼な目に何度かあわされました。出版やイラスト関係業界の体質なのだと思ってたけど、ほとんど関わったことはないので、その辺はよく分かりません。たとえば、こちらから売り込んだわけではなく、先方から仕事の話を持ってきます。完全に本決まりの仕事ではない場合です。
一度目は10年ほど前、まだCD-ROMが普及し始めの頃、CD-ROMで画集を出さないか?という話だった。一枚目のシリーズが好評で、次の作家を探していたときに声をかけてきたらしい。見本の原画も預け、契約書も送ると言いながら、なかなかその後の連絡がない。こちらから連絡すると、いかにもちょうど連絡しようと思っていたところでした、と言う。で、結局、企画が流れたので、無視を決め込んでいたのだった。その後、似たようなことがあったし、ほかでも聞くので、業界の体質なのだとわかった。 もちろんすべてがそうではないと思うし、今どきはどこももっとまじめにやっているそうだが・・。
相手が有名作家だったら、もちろん中止になったときは丁重にあやまるはずである。つまり、相手が無名なら使い捨ての世界であり、中止になったときは無視をするのだ。まあ、そのCD-ROMの会社は、こちらが当初口約束で言われていた原画の預け料や、見本で描いた大きな絵の原稿料をしつこく請求し、それは払わせたので、なんの損もしていない。
その後、以前から一応顔見知りではあったデザイナーからの依頼。某信用金庫のパンフレットのキャラクターのバックの絵を描く仕事。
とある反戦活動でも有名なイラストレーターに依頼したら、そんなわき役のような絵なんか描けないと、にべもなく断られたので、無名クラスに話が来た。そのデザイナーは、イメージキャラクターのデザインをしていて、結構目にする。で、彼は「自分の絵を通して、世界の子供たちのために」と運動をしていた。
先の話をし、無名だからって無視するような断り方をする、失礼な風潮に対しては、大いに同調し、そういうのはいけない!などと言ってたのだ。さて、彼からの依頼は、複数のイラストレーターを候補に上げて、その中から選ぶというモノ。
そして、やはり彼からも連絡がとだえた。いいかげんに選考の期限は過ぎているので、電話をすると、いかにもきまり悪そうにあわてて「あ、、、どもども。。連絡しようと思ってたんですけど、とりこんでて、うっかりしてました;;;;;」こちらは何枚もの原画を預けてあるのに、それを破棄する気だったのだろうか?数日後、預けてあった原画が、無造作に梱包されて郵送されてきた。一言の手紙もなく。
やはり彼も、相手が無名なら適当でいいや、という人間だったのだ。「うっかり」と多くの者は言うけど、決してそうではないのだ。なぜなら、相手が有名作家だったら、けっして「うっかり」するはずはないからだ。相手が著名人なら、絶対に「うっかり」などという失礼なことがないように、二重三重の注意を払うはずなのだ。つまり、相手によって態度を変えている、嘆かわしい連中だということなのだ。
そのデザイナーは、世間に対しては、世界の子供のためにと、いかにもきれい事を言っているが、自分の身の回りの当たり前の人間関係はそのようにおろそかなのだった。
これはすぐにピンと来たのだが、自分のごく近い身の回りのことから目をそらすために、きれい事を並べているのだと理解した。すぐに達成できそうもない大きな目標というのは、そういうときに便利なもんなのだ。しかも周りは感心してくれる。地球の環境のため、といろいろなサークルや運動に参加している割には、日常ではきちんとしたゴミの分別さえもせず、平気でゴミを街中にポイ捨てをしているヤツのようなものです。
そのように大きな視点を持つのはけっこうだが、そのための活動は自分の身の回りが最初のはずなのだ。このような輩の大半は、自分の身の回りの現実から、目をそらしたいだけなのだと思っている。世界中の人たちと手を取り合って、平和な世界を作りましょう、と言っているのに、自分自身の人間関係は最悪な人っているでしょう?
しばらく、前述のような失礼な目に遭わされてはいなかったのだが、数年前に久々にあった。当サイトの「ギャラリー」の「アボリジニ」の作品群です。
この場合は、出版間近でした。それが延期延期となっている間に出版社が倒産。延期の原因は、著者の問題。本の内容はオーストラリアの原住民、アボリジニの花を使った癒しに関するもの。と言っても、依頼が締め切り間際だったので、内容は読んでいないし、読まなくて良かった。イラストに関する部分だけは、原稿のコピーがついていたので、そこだけ少し読んでいた。
癒しと言うだけあって、アボリジニとの出会いとかスピリチュアルなことが、清らかに書かれていたようだった。で、それを書いた著者は、オーストラリア側と著作権や利益問題でもめて、全面書き直しになってしまっていたのだった。発端は著者の問題だが、やはりその出版社も、きちんとした説明をしてこないし、払い込まれるはずの原稿料もなかなか払わない。こちらから連絡すると、やはり連絡しようと思っていた、などの決まり文句は出る。どうにも同じく失礼なのだ。
突然、出版社に出向いて、原稿の返却を求めたときは、担当者はかなり引きつっておられましたね。無名ならば、そのような扱いを受けるのが当然の業界で、怒って乗り込んだ者は珍しかったのか?担当の男はうわずって話にならないので、先輩らしい女性が、無礼をわび、必ず次週に原稿料を払う旨を約束。結局、その次の週に倒産して、チャラにされたのだが。もちろん、倒産したことには「ざまぁみろ」の気持ちです^^。
ただ、そのときに一番気の毒だったのは、その本のゴーストライター。ゴーストライターがいると言っても、著者は名前だけだったというのではなく、原著者の書いた文章を、内容を損なわずに、出版に耐える文章に書き直すライターがいるのだ。そのときに初めて知った。そのゴーストライターは、その本の原稿料はもちろん、過去二冊分の原稿料も未払いのまま、倒産されてしまった。
そのときに仕事を紹介してきたのは、そのライターだったので、かなり責任を感じていたらしく、いくらかでも自腹で原稿料を払ってくれようとしていた。こちらにしてみたら、そのライターに払ってもらう筋ではないし、そのライターの方が気の毒なので、もちろん辞退した。
さて、ここまで長々と書いたのは、今でもそれらが許せず、愚痴っているのではありません。もちろん、いまでも思い出すと腹は立ちますが。言いたかったのは、このケースでの「無名の者は使い捨てのような扱いをするのは、業界では当たり前のこと」のようなことは、いろいろな方面で同じような悪習はあるはずです。
こういうのは、無名の者が、はい上がってくる過程での試練、などということとはまったく関係はないということです。人として、相手に対する最低限のマナーも気遣いも持てない、最低の行いだということを言いたいのです。
日本では就職の応募時に良くあるやりかたである、「連絡がなかったときは、ご縁がなかったと言うことで」というようなやり方に似てますが、それだって、非常に無責任なやり方でしょう。 断るというのは、誰だって気持ちの良いものではない。それをきちんとやらないで逃げているのだから。連絡をするのは数分で済むことなのだから、忙しかったという言い訳などは通用しない。
ひるがえって自分はと言うと、相手が有名人だったら、もちろんきちっと対応します。でも、(こういう表現はしたくないし、適当ではないけど)明らかに格下と見られる相手でも、当たり前のきちっとした対応をします。連絡を待っていると分かっているのに、相手が目下だからって、適当にしてはおけません。相手が有名人だったらきちっと対応するというのは、多少こびている部分は正直言ってあります。でも、そうでない相手だからといっていい加減な態度を取ると、自分の心にいやな思いも残ります。
最低限のマナーや気遣い、いわゆる「良識」があるかどうかと言うのは、そう言う知識があるかどうかではなく、自分の中に、いい加減な事をしたときに感じる心の隙間を、きちんと感じ取れるかどうかではないかとも思います。
ヴェジタリアン (2003.3.28)
自分はヴェジタリアンではないし、そうするつもりもない。そのヴェジタリアンというのが「菜食主義」という意味ならば。
以前に何かの本で読んだのだが、確かに野菜をヴェジタブルとはいう。でも、ヴェジタリアンの本来の意味は菜食主義ではないそうだ。本来の意味は「命あるものを食べる」という意味らしい。と言うことは、ほぼ全員がヴェジタリアンだし、真理をついた言い方ですね。
食事制限や、栄養的な問題で菜食を貫いている人は、それはそれで意味はあると思う。でも、思想的な意味で菜食を貫いている方面には、ちょっと納得のいかないこともある。というのは、「殺したものを食べるのはいけない」という意味で言っているからだ。では、野菜は殺してないのか?と言いたくなってしまう。もちろん、殺すというニュアンスでは表現は出来ないし、植物の場合、一部を取り除いても、全体の命を奪うことにはならないし。でも、やはり、おかしいとは思う。
そもそも、そう言う思想で生きている方面を見ると、なんだか人間も動物である、というのを忘れてるんじゃないか?と言いたくなってしまうのだ。
野生の動物が肉食をしているのは悪の存在だというのか?彼らは必要があって、肉食をしているのに。我々も、肉食が必要な場合だってあるだろう。だから、先の「命あるものを食べる」という意味のヴェジタリアンとなり、命あるものを感謝して食べる、という姿勢が正しいのだと思う。
自分の知っている完全なヴェジタリアンの人には、ちょっと栄養失調なんじゃないか?という人が多いんです。たまたまかも知れないが。
肉食・菜食に関しておもしろい話が。野菜を食べなきゃ健康を維持できないと言うことは、日本人であれば、ほぼ全員が思っていることでしょう?健康のためには、肉よりも菜食に重きを置いた方が望ましいとも。
さて、かのモンゴル国。彼らに菜食を強いたら、おそらく国家的に身体をこわすでしょう。なにしろ、ほぼ完璧な肉食民族だ。都市生活者が増え、野菜を採取する者も増えたが、それでも肉食の方が比重がかなり高い。伝統的な遊牧民ならば、野菜はほとんど食べない。食事は夏は乳製品が主食。最も摂取するのは子供でも水のごとく大量に飲む馬乳酒。そして、チーズ、ヨーグルトの類。その合間に、パンやクッキーのようなものも食べる。冬は、解体して保存食にした羊肉。大まかに言って、冬は肉だけ、夏は乳製品だけ、である。ま、ピクルスなどを食べることはあるし、完璧に野菜を採らないわけでもない。
あるとき、日本の栄養学者がモンゴルに調査に出かけた。野菜をほとんど採らない生活が健康的であるはずはないのだ、という考えで向かった。調査を終え、その栄養学者は白旗を揚げた。
「野菜を採らなければいけない、というのは、我々の先入観だった」と。彼らの食生活や健康状態をつぶさに調べたが、ほぼ完全な肉食でも、バランスが取れていたと。
その地で長年にわたって、培われた食生活というのは、ちゃんとバランスが取れているもので、「野菜を採らなければいけない」というのは、そういう食生活だった日本人である学者の先入観であったと。
おもしろいことに、都市部に住み、野菜をいくらか良く採るようになったら、それで身体のバランスを崩す者が増えたという。
最西端の地・与那国 (2003.3.30)
初めて沖縄に行ったとき、目指すは日本最西端の地、与那国島だった。そのころはサラリーマンをしていまして、突然沖縄に行くことを思い立った。時期も黄金週間。平成1年のことでありました。有給を駆使して、10連休を申請したのだった。
上司は一瞬目を丸くしたが、こいつが言うんじゃしょうがない、とあっさり許可。普段は他の社員の数倍の仕事をこなしていたので、多少のわがままは聞いてくれたのですよ。あいつがすることに深く関わるのはよそう、と言うのではにゃい。たぶん。
突然思い立って、しかも連休のまっさ中なので、航空会社に朝から並んで、タッチの差で航空券をゲットすると言うことをやったのでした。もちろん割引なんかきかない。
そういや、突然思い立ったとはいえ、きっかけは当時テレ朝系「ニュースステーション」でやっていたシリーズの「立松和平・こころと感動の旅」だったと思う。与那国の旅を見て、「行かなきゃ」と思ったのだったか。^^;
那覇を中継点にし、石垣島へ。拠点は石垣島で、その合間に竹富島や与那国に渡った。渡ったと言っても、全行程とも飛行機。この旅がきっかけで石垣島にはまることになったのでした。
現在JTAに名称を変更したが、当時は南西航空という「いかにも」という感じの名前だった。あれのほうがよかったのに。石垣から与那国までは世界的な名機と名高かった、国産のYS-11。
(細かいことですが、普通は「YS-じゅういち」と呼ばれていたけど、正しくは「YS-ワン・ワン」なんです。)
飛行機は大好きなのだけど、このときはしたたかに酔った。前日、石垣島の宿で、同室にいびきのひどい者がいて、ほとんど眠れなかった上に、少々疲れていたのだった。機内での席はプロペラの横という最悪さ。激しいプロペラの振動音が寝不足の頭を襲っていたのだった。
与那国空港は今まで見たどの空港よりも小さく、質素でこぎれいだった。到着ゲートを出ると、売店が3軒並ぶだけの狭いロビー。裏から表に出るのに10mもない。
そのときは一泊するつもりだったので、事前に調べておいた山水荘という民宿に予約を取った。次は「足」ということでレンタカーを探す。空港を出ると、眉毛の太い小柄なオヤジが、レンタカーの看板を持って立っていた。客をもう少し集めてから店に連れて行きたかったようだった。
「すぐ乗りたいの?じゃぁ、あそこに××-××のナンバーの車あるでしょ?あれ乗ってって良いです。」(オヤジが乗ってきた車らしい)
「・・・?あれ、いいんですか?」
「いいです。じゃ、お金、今もらっときましょか(4時間で何千円かだった)」
「あの、手続きやなんかは?」
「あー、いいです。そのまま乗って」
「4時間○千円で、時間オーバーしたらどうなるんですか?」
「大丈夫!3時に戻ってくるでしょ?」
「ええ、そのつもりですけど・・」
「じゃ、いいです。乗って下さい」
「で、車は3時にここへ置いておけばいいんですか?」
「はい、キーつけてその辺にとめておいてくれたら分かりますから」
ええなぁ、こういういい加減さ。。
と、思ったけど、今思えば、何かごまかしたり悪さをしようにも、狭い島の中、逃げようがないんだよねえ。最も早く島を出る次の飛行機は3時台で、この小さな空港に来なければいけないんだし。でも、こういうオヤジを裏切るわけにはいかない。言われなかったけど、しっかりガソリン満タン返しにして、路駐しておきました。
考えたら、地図も持たずに来ていた。島の西、つまり日本の最西端に向かって走っていたつもりだったが、太陽の位置からして、逆へ向かっていたことが分かり、軌道修正。
一番西の「西崎」には、最西端の碑が建っていた。遠くはややもやっているので、かすかに見えるように思える島影が、台湾なのかどうかは定かでなかった。海はどこも綺麗だが、島の東の「東崎」からの光景が圧倒的だった。西崎から走り出したとき、汗だくでスポーツサイクルに乗っていた男とすれ違ったが、この男とは数日後に石垣島の宿で同宿となった。そのときに、お互いすれ違ったことは覚えていた。
沖縄に来たのはそのときが初めてだった。最初降り立った那覇で、港の海がとても綺麗なので、感動した。その次に渡った石垣島の海はもっと綺麗だった。そして、最西端の与那国の海はもっと綺麗だった。那覇に戻ると、那覇の海が少し汚れて見えた。
島を巡っていると、民宿の屋根に「台湾のテレビ見れます」という看板を頻繁に見た。買い物でも、船で台湾にちょっと買い出しに行く、というのが多いと聞いた。石垣島の宿で同宿になった女の子は、与那国に行ったとき、島のおばあさんに「ああ、あんた日本から来なさったん?」といわれたと言っていた。沖縄では一般に「本土」などのように呼ぶが、与那国では「日本」だったりする。それは、距離的に台湾に近く、戦争などでも、いつ日本から切り離されるか、という場所でもあったからだろう。
与那国には、食事をするところがほとんど無かった。やっと見つけた、民家を食堂にしているような店「南国食堂」へ。中では、座敷でばあさんが昼寝をしていた。普段でも大してお客などいないのかどうか、ゆっくり起き出してきて、「焼きそばしか無いんですけど」と、言うわりには、出てきたのは汁の入ったソバだった。メニューによると、この焼きそばは「南国そば」であった。店内には、映画評論家の水野晴郎氏の色紙が飾られていた。
往きの飛行機に酔ったのが治らず、自分で運転する車にもさらに酔ってしまった。カーブでは、三半規管が揺れるのがよく分かった。一泊するのは取りやめて、3:35の便で戻ることに。 帰りの便に乗っていたのは、ほとんど往きと同じ面々だった。そして、往きよりもさらにプロペラの真横という最悪さ。今までの数十回の搭乗経験の中で、はじめてゲロ袋を使用してしまった。しかも、なんとなんと、着陸予定の石垣空港では、雨雲が低く強い雷雨のため着陸許可が出ず、いったん着陸態勢に入ったにもかかわらず、再び上昇、その後30分路頭に迷うことになった。
やっと到着した石垣島では、戻る予定の島北部まで行く気力体力はなく、市街の民宿に。次の日に這うようにして「宮良内科胃腸科医院」へ行き、3時間に及ぶ初めての点滴を経験したのだった。過労だという。
なお、このときに石垣島にはまってしまい、同じ年の夏、再び10連休を取って石垣島へと行ってしまったのでした。(了)
思い出せない (2003.4.4)
昔っから不思議に思っていたことです。好きなコや、気になるコの顔をちゃんと思い出せないという。
合うことに慣れたり、もう興味が無くなったり、そういう思いが無くなった後では、なんて事はなくはっきりと思い出せる。また、普通の相手だったら、1回しか会っていなくても鮮明に思い出せるのに。
過剰に意識している相手の顔は、頭の中での映像が、ぼやけているというのではない。言葉での説明は難しいのだけど、何というか、現実にモノを見ているときに、視野に入っていて、誰だかは分かるのだけど、ちゃんと視野の中心に入れて、はっきりと確認していないような感じとでも言うか・・・・。
目鼻立ちは何となく見えているけど、しっかりとその人の顔を再現していなくて、よく知っていて、その人に似ている他の人に置き換えられてしかはっきりとは映像化できなかったり。
うまく表現できないけれども、こういうのは自分だけのことなのだろうか?おそらく意識過剰になっていて、顔を思い出すのを妨げているのだろうけど。
真っ白な紙 (2003.4.5)
5つのときだったと思う。誕生日のプレゼントに、スケッチブックをもらった。漫画キャラクターのスケッチブックで、オモテ表紙は「パーマン」だった。パーマンは一番好きなキャラクターだった。
そして、その表紙をめくると、現れたのはまぶしいほどの真っ白な紙。なんだかとてもうれしかったのを覚えている。白い何も描いていない紙。これから自分の好きなモノを描けるグランドがそこにあった。
日常でも、白い新しい紙がとても好きだった。(新しいというのは「未使用」という事です。)
父親の書斎から、白い紙を見つけては抜き取っていたりした。振り返れば、コピー紙よりは上等な紙、という程度だったが、白くなめらかな紙が手元にたまるのが、とてもうれしかったのだ。貴重品のような気がした。だからといって、それに何かを描いたのか?というと、そういうことは無かったと思う。貴重な紙をたやすく使うことなど出来なかったのだろう。
一度も使わなかったのだが、その後、それらの紙の消息は不明である。