製作者は誰?  (2002.11.17)

 作家で「天からのメッセージを自分は伝えているだけ」と言う方が多くおられます。湧き上がるインスピレーションは天(あるいは神)からのもので、自分はその受信機に過ぎないと。
 わからないでもない気はする。「なんで、こんなすごいものができたんだろう?」と思い返すことは稀にある。今以上に絵がつたない頃、乗り移ったようにすばらしいデッサンを描いたこともあった。

 でも、どれもこれも、どこからかのものを受信して、それを自分の手を通して表現したものであって、自分はその媒体に過ぎない、と感じたことはない。あくまで作り上げているのは、パーソナリティを持った自分自身である。大いなるエゴを持った自分自身である。

 ただ、他人のお話に絵をつけるなどの場合、それは自分だけのインスピレーションではないわけで、そのお話を作った人のイメージを自分なりに租借して、新たなものを作り上げる。自分だけの作業では絶対に出てこないものができるので、「自分が作った」というものとはちょっと違ってくる。
 ネット仲間で通訳のsachiさんが他人の絵に文章を付けるときに「私は、自分で作った文章を付けるというよりも『絵を翻訳』しているんですよ。」と語ったのは、ある意味近いものがあるかもしれない。
 自分の場合は翻訳というよりも、そこにいかに自分の味を出すか、ということをやる。いかに自分の色に染めるか、ということではなく、オリジナルのお話を最大限に生かすためには、自分の持ち味をどう用いればいいのか?ということだが。

 前述の「私は受信機」と言う方は、宗教的な意味で言う方が少なくないと思います。
 余談ですが、宗教というのは「○○教」という意味の宗教を言うのが一般的ですが、以前疑問に思って字を調べたところ、「宗」=「生きることの根本」と、ありました。本来の「宗教」は「○○教」に限定されるものではなく「生きることの根本の教え」ということで、毎日の日常がそのまま宗教と言えなくもないと思います。

 そのような広い意味も含めても、自分は「受信機」として製作をしているという感覚はありません。これを「おごり」ととってもらってもかまいませんが、あくまで、作っているのは自分自身です。
 受信して表現する段階で、その人のフィルターによって作品に個性が出る、という主張なのかどうかはわかりませんが、自分としてはひとりひとりが、自分の個性で作品を作り上げたと思って良いのだと思います。でも、それを作ったり披露させてもらえる環境は、周りのおかげであるとは実感しています。
 別にカッコ良い、きれいそうな事を言っているのではなく、評価したり支持してくれる人たちがいなければ、いつまでも続けられないことである、という現実的な問題でもあるのです。
このHPでも同じことで、誰も訪れることがなければ、閉鎖する以外に選択肢はないのだから。

プロ野球の衰退  (2002.11.19)

 またまた興味のない人にはつまらない話題かと思います。
 元大リーガーの鈴木誠投手が、日本のプロ野球に「参加」することになりそうです。日本でのプロ経験がないから「復帰」ではありません。しかし驚いたことに「ドラフト」の対象になると。仮にもメジャーリーグの経験者が。

 日本のプロ野球経験者であっても、メジャーの経験が無い物は、メジャーでは新人王の資格があります。野茂が新人王に輝いたとき、元横浜ベイスターズのローズが「どうして、われわれは日本のプロで新人王の資格がないんだ?」と言っていた。
 それを聞いた時は、海外でのプロ経験者を新人扱いするメジャーが、すごいか高飛車なのかのどちらかだろう、と思ったものだった。巨人の工藤投手は39歳だか、メジャーに行ったら新人王の資格があるのか?また、かつて三度の三冠王に輝いた落合選手が40歳にしてメジャーにデビューしたら、新人王の対象にするのか?という疑問もあった。

 メジャー経験者は、日本では新人ではないが、考えたら韓国や台湾のプロ経験者は日本のプロでは新人王の資格がある(違うかも?)。ということはランク付けがなされてて、メジャーは日本以上だから当然新人扱いはできず、韓国・台湾はランクが下だから、新人扱いで良いということかと思っていた。ところが、鈴木投手はその辺が良くわからない。恐らく国籍の問題なのだろう。日本のプロ野球は、日本人の場合は日本のプロを経験したかどうか、外国人の場合はメジャーを経験したかどうか、ということなのか?詳しいことは知らないのだが。
 まあ、この辺のことは日米でのトレード問題と同じく、現在のように多数の選手がメジャーへ移籍することを想定していなかった制度の盲点でもあるから、今後改革していけばいいことなのでしょう。

 現在のドラフト制度は、明らかに読売のナベツネ氏のワガママがまかり通った、ゆがんだ制度だと思っている。オーナーになる前は「どうして、バッターは一塁にばかり走って、三塁に走らないんだ?」と、黒柳徹子さんのようなコメントをしたほど野球を知らない人だ。

 ドラフトなのに逆指名があったり、逆指名ができるのにFAを認めるというわけのわからない制度なのも、巨人のため、ナベツネさんのための制度になったと言うことだ。
 そもそも、ドラフトなどと言うくじ引きで進路を決められてしまう選手のために、FAという自由意思を通せる制度が必要なのであって、それなら逆指名できた選手にFAを認めるのはおかしいだろうに。
 自分は東京に住んでいたこともあって、なんとなく巨人ファンだったが、そのあたりのわけのわからない一人のわがままのために野球界が動くようになってからは、すっかり興味を失った。
 一人一人の選手は好きなのだが、プレーをする環境というか制度が理不尽に思えて、見ていられないというのもある。FA導入やドラフト問題のときに、「巨人をリーグから脱退させて、新リーグを作るぞ」と信じられないような脅しをかけたが、そのときに「やれるもんならやってみろ」と無視するのでなく、その脅しに屈した他球団も情けない。あの時点で、日本のプロ野球は衰退への大きな一歩を踏み出したと思っている。


 現在のドラフト制度やフリーエージェント制度が、巨人に有利なように作られているのは誰もがわかっている事実。FA制度にウェーバー制を導入するべきだと言う意見に対し、かの巨人オーナーナベツネ氏は11月19日「そんなことは断じて許さん。導入するなら、新リーグを作る。俺が腹を決めれば6球団くらいついてくるんだ!」とアンビリバボーな横暴な発言をした。これに対して、特に大きな批判は出ていないようだ。日本のプロ野球は終わった・…。

肩書き  (2002.11.21)

 日本サッカー元全日本監督の『トルシェの元通訳』フローラン・ダバティーさんが本を出した。その出版会見で「いつもトルシェの通訳とか、元通訳と言われ続けてきたけど、私はフローラン・ダバティーだ。肩書きで呼ばれるのはうんざりしている。私はフローラン・ダバティーという一人の人間だ」のようなことをのたまわっていた。

 これはもっともな意見だ。この文章を書くのも、ダバティーさんの名前がわからずに「トルシェの通訳」で検索して名前を調べた。最初はどうあれ、いつまでも肩書きで呼ばれるのもたまらないでしょうね。しかも、「通訳」ならまだしも「トルシェの」という、まるでトルシェの付属物か、親の七光りのような呼ばれ方をするのでは。

 このように、肩書きを、ことごとく相手を測るものさしとしているのは、日本だけなのではないだろうか?学歴偏重の傾向が強い韓国も同じかもしれないが。
 自分も「絵描き」とか「画家」などと紹介されることもあるし、どう紹介したらいいのか困っている人もいる。一度「アーチストの伊藤さんです」などと紹介されたことがあるが、すぐに帰りたくなったくらいに恥ずかしかったし、はっきり言って嫌悪感を覚えた。

 江戸時代には「『○○の松』ってぇいいやす」なんて、自分のポリシーや特徴を表す自己紹介の仕方をしたようだが、これは苗字を持たない者が多かったからでしょう。
 絵だけ描いていたときなら「絵を描いてます」とか言えるし、税金の申告の時でも一応「イラストレーター」という肩書きにしてある。名刺もかつては洒落で「絵師」とか「遊牧民絵師」と書いていたけど、最近は困ったもので「絵画・工芸」とでも表記するしかしょうがない。
 良い悪いはあるにしろ、どうにも日本社会で人間関係を営むときには「肩書き」というものとは、いやでも付き合わなければいけないようだ。

 数学者で京大名誉教授の森毅氏(故人)。テレビのコメンテーターで出演することが多いが、本人は、現役の教授ならまだしも「名誉~」などという、過去の栄光を背負ったような肩書きが嫌いなのだそうだ。
 森さんは、TBS系列土曜夜の「ブロードキャスター」という番組に良く出演している。ある日の番組冒頭でのこと、司会の福留さんが次のように紹介した。
「森先生は『名誉教授』という肩書きが嫌いだということなので、番組の方でこのような肩書きをご用意いたしました。」
 画面に映ったテロップを見て、森さんは「こらええなぁ」と喜んだ。そこにはこのように表記されていた。
『フリーター  森 毅』

ピンポーン♪  (2002.11.23)

 また呼び鈴が鳴る・・・。ちなみに、我が家の呼び鈴は、門のところのが「フォロロロロ~~」と鳴る。これでは何の事かわからないので、「ピンポーン」というタイトルにしたのだ。

 ニュースなどで、悪質リフォーム業者の問題が、よく取り沙汰されるようになってきた。一番多いのが、老人家庭を狙ったものだそうだ。床下や屋根裏に、まったく意味の無い工事を施して、法外な金額を請求する。このケースにもクーリングオフが適用されるようで、金額が法外なので解約をして、工事した部分を元通りにさせることができるそうだ。金具をボルトでとめてしまったのを外して、穴があいたのを業者側の負担で完全に元通りにする義務があるという。たいていはその前の、脅し同然の押しで泣き寝入りのようだが。

 この近所に多いのは、屋根の修理をさせてくれというものだ。次に外壁の修理など。うちの門は南側にあり、その他の方角は隣家やマンションに囲まれている。つまり北側の屋根は見えない。
 ところが呼び鈴が鳴り、インターフォンに出ると「お宅の北側の屋根がかなり痛んでますが・・」などとほざく。おのれはヘリコプターでも飛ばして確認したんか?屋根の修理の場合、ひどいケースだと登ってからわざわざ壊して直すなんて手口もあるらしい。

 「近くで工事をやっているものなんですが・・」という業者もいる。たいていは、それに突っ込まれることは無いのだろうが、「近所ってどこ?」と聞くと「○○さんのところで・・・」と近くに存在する家を答える場合もある。もちろん、その家で工事などしていない。中には「近所ってどこの家ですか?」「、、いえ、その、、」としどろもどろになってしまうアホもいる。

 明らかに植木屋さんらしきおっちゃんが、庭の草木がそろそろ手入れが必要なときに「半分の料金でやりますよ」なんて言ってくることもある。でもこういうときも、仕事が終わってから、高い料金を吹っかけてくる場合が多いそうだ。そもそも「半分」と言っているが、元の料金を示していない。

 まじめに真剣に仕事をもらいに来る業者さんもいるはずなのだ。でも飛びこみでやってくる者は、150%悪徳業者だと思ってかからないと、どうにもなら無くなっている。
 数ヶ月前、下水の点検を無料でやりますという業者が来て、母親が家の裏に入れてしまった。あわてて見に行って、点検している様子を見ていたら、明らかにやりにくそうにどうして良いか分からない風になっていた。

 飛びこみで、これらのような仕事をやろうとする業者はあとを絶たないが、最初にいかにも私は悪質です、と言っているも同然のが多いなぁ。なにしろ、何かしら事情を付けて「出てきてもらえませんか?」と言う。理由を聞いても「とにかく、出てきてもらえませんか?」と言う。どう考えても「まともな話ではないから出て来い」、としか聞こえない。だまそうとしているのは明らかなんだけど、あまりにもやり方がヘタ。

 先日のパターンでは
「近くで工事をやっているものなんですが、ご挨拶にあがりました。ちょっと出てきていただけないでしょうか?」
「は?ご挨拶って、どういうことですか?」
「いえ、ですから、近所で工事をしてまして、そこで足場や機材を使いますが、それを同じ町内でつかえるように・・どうたらこうたら・・・」
「あの、言っている意味がわからないんですが」
 隣近所で工事をしている間、迷惑をおかけしますので、そのご挨拶を、というのとは明らかに違うし、でまかせを言うにしても、常識的に筋が通っていなくて、そもそも話がまったく見えない。
「うちは工事は必要ありませんから。」
「ですから、いま必要とかそう言うことではなく、他でも足場や機材が使えるように挨拶をしてこいといわれまして・・」
だから、おまえの話の意味がわかんないんだよ、ボケ。
「とにかく、要りませんから」ガチャッ!合掌・・


今日の五時頃、面白い人が来ました。何かのセールスらしいのですが、窓から応対したところ・・・
セールス 「お子さんでいらっしゃいますか?お母様は・・・」
   私 「今出かけてますが・・・」
   セ 「あの、わたくし、先日お話させて頂きまして・・・」
   私 「はあ。」
   セ 「お仕事が、水曜日お休みだと聞いたもので・・・」
   (今日は土曜だろ???)
   セ 「あの、何時頃お帰りですか?」
   私 「えー・・・と、特に聞いてないんで分からないんですが・・・」
   セ 「あ、そうですか。では私は何時頃きたらよいでしょう?」
   私 「は???」
とまあとにかく要領を得ないわもごもご喋るわで、いらつくのを通り越して吹き出しそうになりました。この人、この後なお不思議そうに話して帰って行きましたとさ・・・
(byさあちゃん 2002.11.30)

通(つう)  (2002.11.25)

 「通(つう)」
物事に良く通じていて詳しいこと。

 半端なグルメに多いのだけど、「通は○○にして食べるんだ」などとのたまう。はっきり言って大きなお世話でしょう。作法を重んじる席で、作法にのっとった食べ方があるならともかく、普通に食べるのに、どうやって食べようが勝手である。
 前述のように言う「通」の人は、ある食べ物には最高の食べかたの方法がある、と言いたい場合が多い。でも思うに、本当の「通」は、自分がもっともおいしいと感じる食べ方をわかっている人のことであろう。その食べ方は、人の数だけあるはずなのだ。

 本当にその食べ物にほれ込んで、是非ほかの人にも食べてもらいたい、と思っている「通」は、自分がおいしいと思う食べ方を、参考に紹介することはあっても、それを強制したり自慢するようなことはしないだろう。

 「通は~~なんだ」と鼻高々に言っているうちは、言っている本人が「通」に逆行していると思うのだった。

踏切監視中  (2002.11.29)

 ヒジョーにローカルな話ですんませんけど、うちの近くの踏切のはなし。

 小田急線の下北沢駅と、その一つ下りの世田谷代田駅の間の踏切です。下北沢のひとつ上りの東北沢駅で、急行、準急、特急が各停を追い越すために、下北沢近辺の踏切は開かずの踏切と化している。(2012年現在は開かずの踏切には違いないが、東北沢での追い越しはない。また2014年に地下化する)
 開かずの踏切というのは、しびれを切らした横断者が、踏切が閉じていても乗り越えていく。さすがに車やバイクはそうもいかないが、自転車程度なら、踏切を上げて入っていく。
 特にそれで事故が起きたと言うことは無いのだが、ラッシュ時に10分近くも遮断機が降りっぱなしの状態が日常茶飯事だと、電車が通過するたびに無視してわたる人が多い。その対策に、小田急線は監視カメラを用いた。

 まず「この踏切は監視中です」という看板が立った。しばらくすると今度はカメラを設置する工事を始めた。
 「ほぅ、ほんとに設置してるわ」と思ったのだが、なんかおかしい。
 翌日、そこを見てみると、カメラが監視しているようなオレンジ色のランプがついている。だが、カメラ本体が見当たらない。何かにカモフラージュして、カメラだとは分からないような機械をつけているわけでもない。だいたい「監視してんだかんね!」という看板を立てておいて、カモフラージュする意味も無いし、カメラだと分かったほうが効果があるはず。

 おかしいなぁと思っていたが、しばらくしてまた何かを取り付けている。今度は本当にカメラだった。見事だった。どう見てもダミーカメラだと分かってしまう。当然のことながら、みんな鼻で笑って遮断機を乗り越えたりくぐったりする(別に鼻で笑ってなかったが)。
 何を考えてるんだ?と思っていたら、またカメラを付け替えている。今度は本物らしい。何しろカメラを風雨から守るために球体のプラスティックで囲っている。
 でも、これもすぐに間抜けなダミーだと白状してしまう。そもそもそんなプラスティック越しに撮れるか?と疑問だったのだが、案の定水蒸気で中がすっかり曇っている。底には水も浮いている。極めつけにカメラのレンズがあさっての方向を向いている。もひとつおまけに、いまどきこんな大きな古臭い監視カメラなんて無いだろうに・・・という代物。
 この間抜けなダミーカメラは一年近くは設置されていたと思う。それとも放置か?明らかにカメラだとは分かるけど、事情を知らない人には「町で見かけた不思議なもの」でしかない。

 その存在も忘れかけた頃、間抜けなプラスティックカバーカメラは姿を消していた。そしてカメラの存在を示すものは何も無くなった。

 いまその踏切には「この踏切は監視中です」という、誰も本気にしていない看板が立っているだけである。看板の存在を誰も気に留めることも無く、今日もみんな踏切を超えていく。

 でもこの間抜けさ、このやる気の無さが自分は大好きです。

電車の遅延  (2002.12.1)

 小田急線ネタが多いですが、先日の平日午前中。理由は良くわからないが、4分ほど小田急線が遅れていた。
 やってきた電車に乗ると「この電車は、途中7分遅れとなりましたが、皆様のご協力とご理解によりまして、やや回復いたしまして、ただいま4分遅れで運行しております。」とアナウンスがあった。それを何度も繰り返して放送していた。

 ご協力とご理解ったって、乗客は何も出来ないだろうに。もちろん単なる外交辞令だとは思うんだけど。
 もしや7分も遅れたからって、車掌や駅員に狼藉を働いたり、そのような不測の事態が起きないで、おとなしく電車を待って乗ってくれたということなのかも。今の世の中だと、結構納得のいく解釈だと思いますが?なんとなく、腫れ物に触るような言い回しだったもんなぁ・・・。

水戸黄門ごっこ  (2002.12.4)

 自分が中学の頃、ラジオの深夜放送から火がついたのですが「水戸黄門ごっこ」というのがあった。
 印籠を見せると、一同が「へへーーーー!!」とひれ伏すのを遊びにしたのです。テレビでは、格さん助さんは刀を使っても「ミネの打ち」であって、相手を切ったりしないが、その前に切られたり、格さん助さんに懲らしめられて、完全に気を失っていた者までが、ひれ伏してますな・・

 で、「水戸黄門ごっこ」というのは、たとえば何も事情を知らない先生が入ってきて、「起立!礼!」と号令がかかると、みんな一斉に「へへー!!」っと、床にひれ伏すのです。
 こういうのは今考えると非常に害がなくて、洒落もきいててかわいいもんですね。今時のはしゃれですまないことが多いでしょ。

 どこかの学校では、朝礼で校長が朝礼台に立って「礼!」と号令がかかった瞬間、生徒一同が「へへー!!」っと、ひれ伏した。その校長は「私はキリストではない!」とのたまわったそうな。

 似たようなものに「お代官様」がある。先生に質問された生徒が、「お許しくだせぇまし、お代官様。おらぁ小作人だで、芋を作る以外は何にもしらねぇだぁ・・・(T△T)」などと、ご慈悲を請うもの。
 これまたどっかの学校で、宿題を忘れた生徒が「お許しくだせぇまし、お代官様」と言うと、その先生は「ならんならん、宿題を忘れたのは重罪である。よって校内引き回しの刑に処す」と言って、その生徒を各教室にさらしモノにしに行った。先生もちゃんと乗ってくれると、楽しいですねぇ。これまた今時だと保護者が問題視するんだろうけど。

 ほかの学校の例ばかりだが、うちの学校ではやった例がなかった。これらの遊びではないが、担任を激怒させたことはある。
 中三の時の担任は、大須賀先生という国語の教師だった。とてもいい先生だった。(遠い目・・・)
 いつものように、教室の前から引き戸を開けて入ろうとすると、そこには内側から廊下へ向けて縦横に張られたガムテープが待っていた。大須賀先生は見事に張り付いた。そして、怒って職員室に帰っていった。もちろんすぐにみんなで謝りに行って、教室に戻ってもらった。
 以後、この仕掛けは「大須賀ホイホイ」と呼ばれて語り継がれた。

酒好き?  (2002.12.6)

 自分は酒に強いのか?というと、程々といったところ。ほどほどに強い酒でも平気で飲む。泡盛とかウオッカのような強い酒もストレートで飲めるが、量はそんなに飲まない。では、酒は好きなのか?というと、さほど好きなわけではない。嫌いではないが。(ダイエーの王元監督は酒豪で有名なのだが、本人は酒は好きではないという。付き合いで仕方なく飲むらしい。)

 酒自体は、さほど好きなわけではないのだけど、酒の場は好きである。だから、手段としての酒、という意味合いが強い。例えビールでも一人で飲むということは皆無。自分の場合一人だったら飲む理由が無いのだ。

 もちろん、好きな酒、嫌いな酒、と言うのはある。好きな部類に入るのは、冷酒でおいしい日本酒、苦いビール(ドライは嫌い。あれをビールとは思ってない)、そしてポーランドウオッカの「ズブロッカ」。ウイスキー、バーボン系は好きではない。

 バーボンを初めて飲んだとき、香りからして、整髪料を飲んでいるようだった。それ以来ずっと敬遠していた。
 あるとき、ハードボイルドの友と言うべきバーボン、ワイルドターキーのいいやつを飲む機会があったのだけど、そのときは美味く感じた。店のバイトの女の子に「大人になったんだよ」と言われた・・・。10以上も下の小娘に。やっぱり熟成した良い酒は美味いのだと改めて悟ったのだった。

 沖縄の泡盛も、古酒(「クースー」と読む)の年数の経っているものはまろやかでおいしい。泡盛もかなり度数が強いので、たいていの人は水割りにして飲むようです。自分もそうやって飲んでいたが、東京のある沖縄料理屋で、そうやって飲もうとしたら、その店の沖縄のおばちゃんが、「そんな飲み方したら美味くない。どうしても強すぎるんだったら、先に原液を飲んでからすぐに水を飲んだほうがおいしいよ。」と教えてもらい、確かにその通りだった。でも、それ以来、ストレートで飲むようになったけど。沖縄の人も、水割りにする人が多いらしく、会社員時代にストレートで飲んでいたら、沖縄出身の同僚の女の子が「わ!うちのじーちゃんとおんなじ!」と言ってたなぁ。
 そういえば以前、中国へ行ったとき、現地の食堂で中国人がビールに水を足して薄めて飲んでいた。たまたまそう言う人を見たのだと思うが。。まさか、珍しくない飲み方ではあるまい。

 なんだか、さほど酒自体が好きなわけではない、と書いていたわりには、酒好きみたいな文章になってきた。
 ところで、こう言うといつも相手に不思議に思われるのだけど、日本酒、ウイスキーよりもビールに弱い。ビールを飲むと、一気に足の先までまわってしまうのだ。他の強い酒よりも、ビールのほうが酔いが早くまわる。
 まあ、精神的な酔いの方はそうでもないのだけど、身体への酔いのまわり方が早い。これが単なる体質なのか、ビールの持つ特性なのかどうかは定かではない。
 でも、自分以外でそういうことは聞いたことは無いので、ビールと自分の身体との相性のようなものなのでしょう。ビールもすぐにおなかがいっぱいになってしまうので、ビヤガーデンなんかで何杯も、とはいかない。実はビヤガーデンに行った記憶は無い。多分1、2回は行っているはずなんだけど。行ったところで、大ジョッキ一杯でおしまいにしたくなるし。だいたい、どの酒の席でも、みんなが飲んでいる間にどんどん食べてますな。^^

骨無し魚  (2002.12.8)

 最近、骨無し魚が売られてきている。あらかじめ、サンマなどの骨を取ってから売っているのだそうだ。現在のところ、10品目くらいの魚が売られているという。

 何を考えてるんだ?要するに、そのほうが売れるのだと。子供が骨があると食べないけど、骨の無い魚だったら食べるようになったとか、骨を上手く取ったり料理できない親が増えているからだ。骨がある魚を子供が食べないと言うのは、育て方の問題だと思うのだが。

 その骨抜き作業は、中国を始めとするアジアでやっている。とうとう、日本人は、魚の骨を取ることまで海外にやってもらうようになった。骨を取るにしても、なんで日本でやらないかというと、もちろん人件費がかかるからである。骨を取るのは、細かいものまで全部取るので、とげ抜きで一本一本手間をかけているのだ。

 だいぶ以前に、日本の子供は、魚の切り身しか知らないので、鮭の切り身みたいなものが、海の中を泳いでいると、マジに思っている子供が多いと言われていた。今度は、骨を取るくらいのことができなくなるのはもちろん、魚には骨がないと思う子供が増えるのだろうか?

雑記帳8< エッセイメニュー >雑記帳10