みどりのおばさん (2011.10.15)
みどりのおばさんは誰でもおなじみですね。正式には学童擁護員さんなんだそうで、交通安全シンボルカラーである緑色を着ていたことから「みどりのおばさん」と呼ばれるようになったそうな。そんな語源を調べようと「みどりのおばさん」でネットで見てみたら「みどりのおばさんの年収は800万円」という内容のモノがやたらに出てきた。何かで話題になったのでしょうか。詳しく読まなかったのでよくわかりませんが。
初めてみどりのおばさんを見たのは、小学校一年の時。自分は世田谷区立代沢(だいざわ)小学校という現在では130年を超える歴史を持つ小学校に通っていたのだが、正門の前は茶沢通りという二車線の道路で、正門のちょうど向かい側に「橋場堂」という文房具屋があった。そこを渡す横断歩道の両側にみどりのおばさんが立っていた。6~7歳くらいの自分から見たら十分に初老に見えたおばさんたちだったが、卒業する時もまったく同じ顔立ちのまま同じように立っていた。たしかに緑色の制服(?)を着ていた。でもほかのみどりのおばさんで緑色を着ていたのをあまり見た記憶がない。青系を着ているおばさんが多かったような。
さて自分は4~6歳を父親の仕事の関係でインドネシアはジャカルタで過ごし、いわゆる帰国子女だった。当時は帰国子女なんてハイカラな単語はなかったのか、「あ、そうか!」と自分も“帰国子女”だったと気づいたのは30歳を遙かに過ぎてからだった。
帰国して代沢小学校に転校したのは1年生の二学期だったと思う。ジャカルタではまだ日本人学校がなかったのでアメリカンスクールに通っていて、秋始まりのはずだから、自分は数ヶ月か半年多いか少なく学校生活を送ったのだろう。
そのとき母親も一緒にいたから転入した初日だったのだろう。学校の帰りに正門を出た後、車の流れが切れたときに走って渡ったのである。そして横断歩道の向こうでキョトンとしている母親に「早く渡りなよ!」と大きく手招きをした。向こう側にいるみどりのおばさんは大声で怒った。「なにしてるの!危ないでしょ!」。自分の側にいたおばさんは温厚でほとんど言葉を発しない人だったので、何も言わなかった。
そう、歩行者信号は赤だったのである。自分は何を怒られているのかわからなかった。赤信号で横断歩道を渡ってはいけないとは思ってなかったか知らなかったのである。普通は幼稚園でも教わるのでしょう。自分はアメリカンスクールの幼稚園だったけど、きっと信号機についてはなんかしら教わっただろう。しかし実際に信号機のついた横断歩道を渡ったことがなかったのである。全くないはずはないけど、一人で自由に渡れる状態では初めてだったのか。ジャカルタは当時でも十分都会だったが、そういう横断歩道というモノはそんなにはなかったはず。ましてや車がまったくなくてもキチンと信号を守っているのは日本人くらいだというし。どちらかというとずっと後年のジャカルタでも車に轢かれ損なところがあった。
というわけで自分のみどりのおばさんとの最初の出会いは、とんでもない冒涜をしていたのだった^^; その後のおばさんはいつも優しかった。あの時信号無視をした奴だと覚えていたかもしれないが、怒るのは悪いことをしたときだけ。いつもは我々に満面の笑顔を向けて温かく見守ってくれていたおばさんたちだったのだった。そういえば用務員のおばさんおじさんも3~4人いたけど、ずっと同じ人たちだった。最年長のおばさんはいつも和服にかっぽう着だったなぁ(遠い目)。
苦労 (2011.10.29)
我が家は最寄り駅は下北沢駅ということになっているけど、頻繁に利用するのが下北沢駅であって、距離的には隣の「世田谷代田駅」でも同じだったりする。
世田谷代田駅にはお気に入りの喫茶店がある。ランチもコーヒーも美味しいし三時にケーキを食べに行くことも多い。シックなのに雰囲気が明るい良い店であることと競合店がない事もあってお客の年齢層も幅広い。
そんな喫茶で、とある三時のこと。自分はたいてい窓際のカウンターに座っている。店内に背中を向けているのだが、ちょうど背中の方に6~70代の男女が6人ほどおしゃべりをしていた。
和やかにおしゃべりしている途中でひとりの女性が
「若いうちの苦労は良いけど、この年になっての苦労はしんどいわ。」
と笑いながら言った。
他の会話は耳に入らずそこだけがハッキリと聞こえた。深刻な話ではなく一般論的に言っていたみたいだけど、なんだかとてもほほえましく心に残ったのだった。
車の音 (2011.11.5)
乗用車に乗るといつも気になることがある。ハンドルを切るときの音とウインカーを出したときの音だ。
右左折するときなどにハンドルを大きく切っていくと「キッキッキ…」というかわいい音がする。ウインカーは「キッコッキッコッキッコ…」とこれも軽やかな音がする。今は電子音で合成してその音を作っているらしく、音も変えられるらしい。でも基本の音は何十年も前から一緒ですよね。あの音は聞いててとても心地よい音だと感じるのだけど、作った人はすごいなぁと。
で、気になるのは昔はどうやってその音を出していたのだろう?と。電子音など無い時代からあの音だったと思うから、おそらく機械的に出していたのだろう。検索して調べてみたけど、ハンドルの音で調べても「ハンドルを切ると異音がする」のように、異常音についてしか出てこない。
どうやってあの音を出していたのかも気になるし、機械的に出していた音なら、引っかけたり軽く叩いたりしてたと思うのだが、その部分が劣化して音がおかしくなるはず。でもかなり古い車でもそういうおかしくなった音は聞いたことがない。
長年疑問に思っていたことなので、だれか知っていたら是非教えて欲しいのだった。
3D映画は嫌い (2011.11.28)
今や映画はおろか、テレビやらなんやらまで3Dがブレイクしている。通常は専用のゴーグルが要るが裸眼でもOKなのまであったりして。裸眼でOKのはまだ見たことないけど、十分大丈夫なら映画もそうしてほしいなぁ。
映画では何年も前から3Dがあったけど正直なるべくなら3Dでは見たくない。初めて3Dで見たのは遙か昔、ディズニーランドでのマイケルジャクソン主演の「キャプテンEO」だったかと。たぶん。
最近見た中でよく記憶に残っているのは「アバター」。内容に関しては賛否があるけど個人的にはとても良い映画だったと思う。根底のストーリーは映像の壮大さに反比例してみみっちいともいえるかな。
しかしこの映画を見ていて閉口したのはとにかく画面が暗い。もちろん3D用のゴーグルを通して見ているからで、ゴーグルを外すととても鮮やかで綺麗な画面である。非常にもったいない。ゴーグル自体もかけ心地が悪いから気になるし、グラスが曇ったり汚れると綺麗にするのに骨が折れる。
ほかに観たものでも、とにかく3D映画は3Dとして見るときの画面が暗すぎる。それを想定して元の画面を調整すれば良いように思うんだけど無理なのか?薄暗い場面では微妙な暗さが真っ暗になってしまうからよくわからなかったりするし、彩度が落ちているから綺麗な画面がもったいない。
ならばゴーグルを外して見れば良いように思うが、そうすると画面がダブって見づらい。3Dと通常版があったら迷わず通常版を観る。3D版は高いし、わざわざ3Dにする意味があるのか?という口コミの多い映画もあったりする。寅さんを3Dにする意味があるか?みたいな映画も多いとか。
どんどん進化するだろうし、3Dの迫力が良いのもあるから否定はしないけど、3Dか通常版か選択できるようにしてほしい。観たくても3Dしかないからやめたというのもいくつかあるのである。
もうひとつ気がかりなのは、特殊撮影や3Dに甘えている映画が増えてないか?ということ。音楽で特殊効果やシンセサイザーなどの氾濫できちんと良いメロディーを作らない(作れない)作曲者が増えたのと同じような感じがするのである。一時期昔の曲のリバイバルが流行ったが、あれは単に懐かしいとかそれを知らない世代には新鮮だったというのとは別に、しっかりと丁寧に良い音楽を作っていたから、特殊テクニックに飽きたリスナーに受け入れられたのではないかと思っている。
自転車マナー (2011.12.11)
サイクルブームも行き過ぎの部分が有り、暴走やブレーキ不備(付いていないか片方だけ)など刑罰が科されるようになってきた。いちいち罰則になってしまうのは良くは思わないが、バカが多いのも事実だから大いに取り締まっては欲しい。
自分もロードバイクに乗る。スピードを出せる「状況の時」は出すがかなり安全運転である。やむなく歩道を走るときは必ず徐行する。絶対に歩行者の邪魔にならないようにする。車道を走るときは車の運転手が嫌がる走り方は絶対にしない。もちろん自転車も十分凶器になる危険なモノであるのを自覚しているからもあるが、自分が車と自動二輪(中型)の免許を持っていて運転手の気持ちも歩行者の気持ちもよくわかるというのもあると思う。また車とバイクの両方を運転するとかなり安全確認などに敏感になる気がする。もちろん性格にもよるだろうけど。
さてさて、自分は下北沢駅から徒歩の住宅街に住んでいるが、時々勤務交代に向かうお巡りさんたちを見る。多いときは5~6人が自転車で走っている。その姿を見ていつも思う。歩道や遊歩道を徐行以上のスピードで徒党を組んで走るのは思い切り違反じゃねえのかぇ?
水戸黄門終了 (2011.12.19)
とうとうあの長寿番組「水戸黄門」が終了する。
低視聴率で打ち切りと言うよりも、世の中のドラマに対するニーズに合わなくなってきたというのが大きな理由らしい。
そうだろうか?結局スポンサーが求める視聴者層に合わないのが理由に違いないと思うが。近年のドラマは、ストーリーが難しいものやはらはらどきどきモノが多い感じがする(テレビはほとんど見ないのでよくわからないが)。 それにジャニタレありきのドラマばかりで。
「水戸黄門」のスポンサーは松下電器(現パナソニック)だが、最初に松下幸之助氏が注文をつけたのが
「見た人が幸せになるドラマを作って下さい」
の一言だったという。
今は家族そろってテレビを見るということがほとんどの家庭ではなくなっているから、このようなドラマがニーズに合わないという事のようだが、一人で見ていても楽しみにしている人は大勢いるのに。
最近では被災地でこういうドラマを楽しみにしている高齢者も多いし、意外に若年層だって好きな人は多いだろう。
そういえば中学一年の頃、ヤンキー気味だった同級生男子が
「早く帰って水戸黄門みたいなぁ」とふてくされていたのが印象的だった。
自分も水戸黄門は、平日夕方4時からの再放送の方を多く見ていた。
その同級生男子は別の時には
「早く帰って『パパと呼ばないで』見たいなぁ」と言ってたな^^
自分がテレビを見ない大きな理由は、テレビの前に座っているより本を読んだり何かをしている方が好きということもあるが、見る価値のないものが多すぎるというのも理由。 制作費が削られているという事を差し引いても、番組作りが安易でレベルが下がりすぎている。 おそらく「おれたちひょうきん族」が発端となった、芸人の内輪ウケや楽屋ネタの垂れ流しも好きではないし。
かつて山城新伍氏がバラエティで活躍していた頃
「ハッキリ断言するけど、あと3年でドラマというドラマはなくなるよ。」と言っていた。
現実はそれとは逆にドラマが花盛りとなった。でもその質が落ちていっているのは予言通りかもしれない。一番大きな変化は、小説やコミックなどですでに世に受け入れられているモノのドラマ化ばかりになったと言うことか。テレビドラマのためのドラマ作りがほとんどなくなった、つまり冒険をしなくなったと言うことだろう。失敗するとリスクが大きすぎるからなのはわかるが。
家族が全員そろって見なくても、普通に安心して見られるドラマはいつの世でも必要だと思うんだけどなぁ。
経験を生かすも殺すも (2011.12.28)
今までの仕事は、 大卒就職でのコンピューター(オンラインシステム開発のSE)。関西支店配属となって大阪勤務。 2年半で退職したあと看板屋のバイト。(大阪の人間関係の方が肌に合ったので)
東京に戻って印刷製版の会社に再就職。 デザインで版下が作られた後、印刷用のフィルムを作る仕事で「レタッチ」と呼ばれたが、一連の作業がコンピューター化されて今は存在しない仕事。たぶん。
印刷製版の仕事がものすごく自分向きであっという間に手に職をつけ、2年後に職人としてフリーに。
そしてその後に絵の方面へ進んだ。ちなみに大学は建築学科。
絵の方面へ進んでもすぐに仕事にはならないし、昼間は暇な時間が多かったので料理屋のバイトも。(料理の仕事がしてみたかった)
今のイラストの仕事や生活にはすべての経験が役立っている。その時々は思う方向へ進まなかったこともあるけど、それがすべて良い事になった。というか本人が生かすかどうかなんだけど。
久々に会った昔の先輩も「それはキミがそういう風にとらえることが出来るからや」と言っていたが、確かにその通りかと。
言い換えると、過去は現在によって作り替えることが出来るとも言える。
日本人の根っこ (2012.1.5)
現在母上は狭山にある介護病院に入っている。介護の始まった2001年から少しずつ「認知症」が進行したが、一昨年はじめに急変して在宅介護が不可能になり、今は重度の認知症というか高度機能障害と呼ばれる状態である。
毎週連れ合いと面会に行っているが、いつも「認知症」と呼ばれる人たちはどういう世界に生きているのだろうと不思議に思っていた(以前に「母上の介護の日々」にその事を書いた)。 最近、それのヒントになるか?と思った本を読んでいておもしろい事が書いてあった。大井玄著「『痴呆老人』は何を見ているか」(新潮新書)という本だが、その中で日本尊厳死協会会員3500人に対するアンケートの事が書いてある。多くの会員が「痴呆状態」になったら延命措置を拒みたいと答えている。「認知症」や「尊厳死」に対する認識、誤解が一般には多々あるのでそのあたりは本書を読んでいただきたい。その辺の誤解の問題は置いといて、延命を拒みたい理由は認知症が延命努力に値しない「惨めな状態」だと思っているからなのだが、その「惨めな状態」とはどういう状態なのかというのが日米で異なるのである。
日本人は、認知症が延命努力に値しない「惨めな状態」だという理由を「他人に迷惑をかけるから」と答えている人が圧倒的である(そう答えた人には介護経験のある人が多い)。英米、特にアメリカの文献では、認知症が怖がられるのは「自分の自立性」を失うからとなっている。
なるほど、欧米と日本人の違いが良く現れていると思った。自分ももちろん自立性がなくなる恐怖もあるが、長年介護した経験からも「迷惑をかけたくない」と思うだろう。
認知症に対する誤解の一番は、本書でも触れられているが「認知症」の本体(?)と、それに伴う「周辺症状」を一緒くたにしている事である。「周辺症状」はちょっと前までは「問題行動」と呼ばれていた。また誤解している人が多いが「認知症=アルツハイマー」ではない。
周辺症状とは、たとえば徘徊、モノ盗られ妄想やいろいろな妄想、などで同じ程度の認知症の人でも周辺症状が現れる人現れない人がいる。周辺症状が出なければ、普通に老化して物忘れをするようになった老人で、周囲とも平和に暮らせる。
筆者が琉球大学精神科(当時)の真喜屋氏と以前、沖縄県の佐敷村にて村の65歳以上の708名全員に対して精神的評価を行ったところ、明らかに「老人性痴呆」と診断できる割合が東京などと変わらないにもかかわらず、「周辺症状」を示す人は皆無に近かったという。真喜屋氏はこう考察している。
佐敷村のような敬老思想が強く保存され、実際に老人があたたかく看護され尊敬されている土地では、老人に精神的葛藤がなく、たとえ器質的な変化が脳に起こっても、この人たちにうつ状態や幻覚妄想状態は惹起されることなく、単純な痴呆だけにとどまると考えられるのである
自分も認知症の母を長年介護し、それにまつわる知識も増えたり他の人たちのそのような状態を見てきて、とても納得のいく考察である。
昔は大所帯が普通だったからみんなで助け合って介護もした時代があったのだ、という意見も良く聞く。確かに人数が多いのは大いなる助けであるし、年長のモノを尊敬していたわる気持ちも現代より強かっただろう。でも「痴呆老人」は世間体が悪いと思い、見えないようにしていたのも事実で、そういうのが数字に出てこないという部分も多いはずなのだ。
話は戻るが日本人が「他人に迷惑をかけたくないから」と思うのは、一見後ろ向きな自己の確立の仕方に見える。でも度重なる災害で再評価されてきた日本人の特質として、心の根本的なところでは自分だけで生きているのではないという精神構造があるためだろう。農耕民族の特質と言ってしまえそうでもあるけど、人と人のつながりだけではなく自然も含めたあらゆる環境ともつながって生かされているという根っこがあるのが我々なのだろう。
「~~じゃぁないが」 (2012.1.11)
日本語には奇妙な言い回しがたくさんある。もちろん他国の言語でもネイティブにとっておかしな言い回しの言葉はたくさんあるだろう。
日本語のおかしな言い回しについてだいぶ前にも書いたことがあった。よく考えるとまだまだたくさんある。「~じゃぁないが」なんてのもそのひとつだろう。
「○○氏の言葉じゃないが、○○○」とその本人の言葉を引用する言い回しは、日本語としてごく普通に使われるが、よく考えるとかなりけったいな言い回しである。
「同じ事、何度もやっただろ!」と指摘されて「野村まさきじゃぁないけど一度だけよ」なんて言い訳するような使い方である。(古すぎる;;;)
「○○氏の言葉じゃないが」と一度否定しておきながら、その○○氏の名言などを引用するわけだが、引用するのだから否定するのはおかしいだろうに。
と、思いながらこの項を書いていたのだが、書きながら「あ、そうか」と思いあたった。
○○氏の言葉と同じ言い回しを引用しようとしているのだが「自分はその言葉を言いたかったのだけど、○○氏が同じ事を言っていてその言葉が有名になっている。別にその人が言った言葉を借りているわけじゃなくて」という意味を含めてるのね。ひとり腑に落ちた^^
この言い回しは英語に訳すとどうなるのか?というか日本語独特で訳せないのかも?
プロは100点が最低点 (2012.1.16)
仕事というモノはその結果が最低でも100点でなくてはいけない。
このような事をかくと、それぞれのプロの方は「何をいまさら」と感じるかと思う。
良いときは120点、150点、でもどんなに調子の悪いときや上手くいかないときでも100点以上が普通、これがプロというか職業人です。自分のようなフリーの自営でも勤め人でも一緒です。その道のプロならば当然のことです。
毎年何度かの個展をやっていますが、あるとき駆け出しのイラストレーターの方がやってきました。作品を持ってきたので観て欲しいと言うことでした。
他人の作品を批評するほどの自分ではないですが、率直な感想を述べました。ここはこうした方が良いんじゃないかとか、これはとても良いとか。基本的には好きな作品でした。好きで描く絵とイラストは違いますから、その辺からも感想を述べました。
仕事に対する意識の話になったとき
「仕事はどんなときでも100点満点が最低だよね」と言うと
「そうしないと次の仕事が来ないからですか?」と、彼は言った。
・・・・ちょっと心構えが厳しいかな(甘いかな)と思った。
そこでなぜ100点満点が最低ラインでないといけないか、と説明するのは簡単ですが、これは自分でつかみ取らないと意味もないし本当に理解は出来ないことなので、適当にお茶を濁した記憶があります^^;;
彼の言葉は自分のことしか考えていません。自分は最低でも100点の仕事をするというのはプライドももちろんありますが、クライアントのためや観てくれる人たちのためでもあります。
法隆寺の宮大工棟梁だった故・西岡常一さんは
学校と違って、百点を取ったら偉いというのとは違いますのや、仕事は。
百点を取るのが当たり前なんです。
(中略)
一人前というたら百点の仕事をこなすことですわ。
それが八十点だったり、五十点ではいかんのです。一人前とはいえないんです。
学校なら八十点なら、まあ合格だし、
クラスでは平均よりいいから自分でも、まあいいかと思いますでしょうし、
先生も親も「八十点だからいいやろ」といいますな。ところが、仕事は結果に出るんです。
「この寺は八十点の出来ですから合格です」
というて一人前のお金をもらうのは間違っておりますな。
と言っていました。
一人前というのは表面上の仕事の質はもちろん、仕事に関わる人たちや利用する人たち、いろいろな人たちの事も考えて仕事が出来る人のことだと理解しています。
前述の彼に説明をしなかったのは、そういう事を自分でつかみ取らないと本当には理解が出来ないからです。自分がそうしないと理解できなかったから若い人には親切心で教えてやろうとしたって、それは親切心を起こした自分に酔うエゴに過ぎないと思うし。で、こんなことを書いているのも、ある種自分に酔っているエゴの部分がないとも言えなかったりして…
ま、もちろんそのときは自分にとって100点をクリアしていても、後になって振り返ると冷や汗というのは多いですが。実力と観察眼は比例するので、後年ほど過去の自分の仕事レベルが稚拙に感じるのは当然だけど、中には実力が上がったがゆえに今の自分には作り出せない過去の良いモノもある。音楽でも文学でも駆け出しの頃のピュアな作品がいつまでも光り輝いているモノが結構あるでしょう。そんなとき、技術も大事だけどやはり残るのは感性、もっと言えば人間性だな、と改めて思ったり。