開店時間  (2006.9.8)

 一般的な商店街の開店時間というのは10時くらいが多い模様。この地元は遅くて11時くらいが標準。食事屋ならどこでも11時半~正午といったところ。

 開店時間というのは、10時開店ならば10時には完全にお客を迎え入れる状態になってるのが普通だと思う。というか、そうでなきゃあかんだろ。でも、10時開店となっていながら、10時にシャッターを開けて開店準備を始める店というのが結構ある。
 以前、9時開店の持ち帰り寿司弁当屋へ9時過ぎに行ったら、ほとんどウインドウには買えるモノがなかった。欲しい物を言えばその場で海苔巻きや弁当を作るという感じで。暖かい弁当を売る店ならば、注文受けてから作るのが普通だけど、ああいう店の場合はどうなんだ?わざわざウインドウに並べるようになってるんだから、開店と同時に並んでないと怠慢に見えなくもないんだけど。

 近くの古本チェーン店やドラッグストアなんかでも、開店時間にシャッターを開けてから、店の中を掃除してたりして、とても「いらっしゃいませ!」という感じでなかったり。店の外に並べようとするワゴンが、入り口近くをふさいだままだったりする。スニーカーチェーン店は、開店前に自分の店の前だけでなく、何10mにも渡って道の掃除をし、シャッターの閉まっている店内では接客練習を大声でやってたりする。これはこれで感心なのだが、この狭い町に店を何軒も出店しているうざったいチェーン店なので、絶対に買い物はしないことにしてる^^; 店員さんには何の罪もないのだけどね。

 ん~、どうなんだろうなぁ。これは日本にいるからそんな風に思っちゃうのかなぁ?おそらく東南アジアなんかにいたら、開店時間にちゃんと客を迎え入れる状態で開店してたら、逆に驚いてたりしたかも知れんし^^;

最中  (2006.9.17)

 「さいちゅう」ではなく「もなか」なんである。なんで「最中」って書くんだ?と思ったら
『江戸吉原の菓子屋「竹村伊勢」が、満月をかたどった「最中の月(もなかのつき)」という煎餅のようなものを作り、それが省略されて「最中」となった。』ということらしい。と言っても、これでもよくわからんのだけど^^;

 最近は、さほど抵抗無く食べるが、子供の頃はあまり好きではなかった。味が嫌いだったわけではなく、食べにくいのだ。以前の最中は品質が悪かったということでもないだろけど、食べ始めるとすぐに薄皮が上アゴにくっつくのがとても煩わしかったのだ。薄皮も、なんかパサパサして好きではなかったし。
 厚い板チョコの様な面持ちの「最中アイス」は好きだった。あれは皮がしめっているからか、口の中でくっつくと言うことはないし。

 そんなこんなで、積極的に最中を食べることはほとんど無かったし、進められる和菓子の中に最中があっても、それは避けて他を食べたりしていた。しかし、いつの頃からか、薄皮が口の中でくっついて食べにくいと言うことは無くなっていた。やっぱ食べ方が下手だっただけなのか?^^;;

カネタタキ  (2006.9.21)

久々に鳴き声を聞いた。部屋の片隅か廊下から「スィンスィンスィンスィン…」と澄んだ鳴き声。カネタタキだ。
 調べてみたら、「チンチンチンチン」と鳴くので「鐘叩き」ということらしい。「チ」よりも「さ行」の音に聞こえるが。

 いまの家は建て替えてから20年ほどになるが、以前の家は昭和初期に建てられたもので、土間は無かったけど、昔ながらの縁の下はあったし、台所や床下から虫の声が聞こえるなんてのは珍しくなかった。でも「現代」の家は、家の中に虫が入り込むことが一大事みたいな感じだし、家の中で虫の声が聞こえることはまずない。

 カネタタキの声自体を聞くのも久々だったし、どこから入り込んだのか家の中から聞こえるなんてのは、なんともノスタルジーであったのだった。
 しばらくすると、部屋の中でチョロチョロ跳ねている1cmほどの虫がいる。おお!本当に久々に見るカネタタキだった。
 紙袋に誘い込んで、二階の窓から表に逃がしてやろうとしたのだが、どうにもこうにもなかなか袋の中から落ちない。ぶっ叩いて表に放り出すわけにもいかないので、何度も袋を振ったり軽く叩いたりして、やっと秋の夜にお帰り願ったのだった。

笑えない…  (2006.9.29)

 月一回の母上の病院通院の日。その日(金曜日)は週最後の脳外科診療で、次の月曜は祝日のためか超満員状態だった。予約診療をしているのだが、飛び込み外来もあるし、ほぼ1時間遅れの診療だった。

 待合室で待っていると、娘さんらしき人に介助されたお婆さんが車イスで廊下を通った。かなり呆けも入っているようで、「なんでこんなときに(こんな混んでる時に)来ちゃったのぉ。こんな時に来なくても良いのにぃ。あたし今日来たいなんて言ってないでしょぉ。」と駄々をこねるように言っていた。待合室の年配の人達は、微笑ましそうに笑っていた。
 第三者から見れば、そのとんちんかんさは、ほどほどに微笑ましく見えるのかも知れない。んでも、介護する立場にいる自分としては、なんか笑えない。そういう状態の肉親を介護して相手をしているストレスは、相当なものであると容易に想像がつくから。

 だからといって、そういうものを微笑ましく見るな、とも言いたくないし、それはそれで良いような。

パソの正体?  (2006.10.2)

 あるネット友達との、ミニオフ会での会話。彼女は自分でもホームページを運営しているので、パソはしょっちゅう使っているのだが、機械としてのパソのことはまるっきりわかっていないというので質問をしてきた。

 「ここにパソの本体があるじゃない?」と、モニターの形をジェスチャーで示す。
 「で、こっちの箱はなに?」

って、だから、その箱がパソの本体だよ!^^;。

煮干し  (2006.10.9)

 そう、煮干し。ダシの素や猫のえさだと思っていた煮干し。
 今年の夏のある時、スーパーの棚に「食べる煮干し」というのを見つけ、何となく興味を引かれて買ってみた。で、食べてみた。う、うまい!煮干しで味を採った料理は数々食べたであろうが、煮干しそのものを食べたのは、生まれて初めてだったのである。

 それ以来、夜の料理をしながらしょっちゅうつまんでいたりする。結構味が濃いから、料理をする舌の感覚には良くはないだろな、なんて思いながら。塩を使っていない「食べる煮干し」なんてのもあるが、どうも味がなさすぎる。
 だいたい一袋50g入っているのだが、なるべく少なくつまんで一袋一週間弱といったところか。栄養表示で、一日に必要なカルシウムなんてのも書いてあるが、その煮干しを100g程度なんて書いてあったりする。煮干しだけでカルシウムを補うわけじゃないが、それだけだったら二袋を一日で食えということかぃ。

 「食べる煮干し」でない、ふつうの煮干しはまだ食べたことないが、やっぱちがうのかなぁ?わざわざそちらも買って、食べ比べようとまでは思っちゃいないのだが^^;。昔は、煮干しをおやつ代わりに食べた世代もあったと聞くが…。ネコのエサにするにしても、ちょいと塩分が多くニャイか?

膝の違和感  (2006.10.17)

 いつか膝を悪くするだろうと、ずっと思っていた。小学校の頃から、立っているときに片足に体重をかけて立つ癖があった。その前からそうだったのだろうけど、はっきり自覚したのは、朝礼の時の立ち方だったのだった。「きをつけ!」の体勢だとほぼ両足均等に体重をかけるが、「やすめ!」だと、やや片方の足に体重が多く乗るでしょう。あれの極端な形。電車で立ってる時でも、普通に立ってるときでも、ある一定以上の時間立ってる場合は、極端に片足に体重をかけて立つのは今でも続いている。

 んで、やっぱり来た。右膝が関節がかみ合ってない感じがする。時々腹這いに寝転がっているときなどに、右膝の関節がちょっとずれた感じがして「パキン!」と鳴らしてきちんとはまるという感覚があったりしてたのだけど、そのズレ方が大きくなって、立ってるときでもずれて関節がかち合ってる感じがしたり。それほど痛いというわけではないのだけど、膝の関節がおかしくなってるという感覚がある。こういうときは整骨院へ行くべきなのか整形外科なのか?と迷ったあげく、整形外科へ。

 自慢じゃないが、地元には歯医者はやたらにあるが、そのほかの医院はめぼしいのがない。それなりに数はあるのだけど、イマイチな医院ばかりというか…。もちろん名医クラスもいるのだが、人気があって行ってみても、まるで流れ作業で診療しているような医者もいたり。近くの「ハズレ」の外科は2~3わかっているので、30年くらい前に行ったきりの外科へ行ってみた。当時でもその外科医は白髪交じりだった記憶がある。でも、建物も建て直してやっているので、おそらく息子あたりがやってるのだろうと思った。
 驚いたことにその医者はまだやっていた。そして困ったことに「大丈夫なのか?」というくらいに衰えている^^;
 状態を説明したのだが、なんだかそれ以上に診察ができないような感じなのである。レントゲンを撮ってみた方が良いというのだが、そこの外科医には無いようだった。いくら町医者でも、レントゲン設備のない外科医って珍しいんじゃないのか?それとも、扱える人がもうその医院にはいなかったのかも。全く患者がいなかったし、受付以外に看護士らしい人も見あたらなかったし。「こういうときは、整形外科へ行くといいんだよねえ」なんて爺さん医者は言うのだが、あんたが整形外科医だろうに??^^;; ということで、病院への紹介状を書くという。

 初めて知ったのだけど、病院への紹介状というのは、あらかじめいくつもの病院名の印刷された書式が束になっている。患者と相談し希望の病院を決めて、その病院名の印刷されている用紙に先生が書くのだった。最初に「ここはどう?」と言われた病院は、この雑記帳にも以前に書いた絶対に罹りたくない病院であったので、その旨を告げて今母親が毎月通院しているところにしてもらった。紹介状は複写式になっているのだけど、二枚目が浮き上がって完全にずれてるのに気づかず、それを教えてあげなければならないほどの状態の先生である。

 このとき「整形外科と整骨院というのは、どういう症状の時はどちらへ行く方が良いというのがあるんですか?」と聞くと、さっきまでのトロンとしたしゃべり方から一転して「整骨院は医者じゃない。あれは整体師であって医者ではない。」とキッパリと言い切った。昨年、近所の外科では全然駄目で、整骨院へ行って良くなった症状もあるんだけどな。
 結局その外科医は、こちらの話を最初にちょっと聞いて紹介状を書く以外は何もしなかった。たぶんもう何もできないから患者もほとんどいなかったのか?^^;;

 さて、紹介状をもって病院へ。レントゲンを撮っても、まったくなんの異常もないという。
「何も問題がない、きれいな関節ですね。」多少の関節の違和感はあるが、一時的なモノなのでそのまま放っておいても大丈夫ということだった。
 ついでに前から気になっていた、自分の肩の関節のことを聞いてみた。一部には有名なのだけど、両肩を自由に脱臼できるのである。とは言っても、そう見えるだけでまさか本当に脱臼しているわけではないだろうと思っていたのだった。
「これって、間接外れてるんでしょうか?」とそれをやって見せた。
「ん?おほ~ぉ!はは!外れてますねえ^^」
本当に脱臼できているようだった。^^;; 完全に脱臼しているわけではなく、半脱臼という感じらしい。でも、意識してそういう状態にできるだけで、普段困るわけでも痛いわけでもなんでもないので、問題は何もないと。どうも自分の身体は関節が緩いのだそうだ^^;; 膝やあちこちの関節がよく鳴るのもそのせいらしい。

 というわけで、長年の疑問も解決したのだった。(そんな終わり方かよ!)

「落ちた~~!!」  (2006.11.6)

 まわりに受験生がいないから良くわからないのだけど、今時も「落ちる」「すべる」は禁句なのだろうか?日本は言霊文化の社会だから、縁起でもない言葉は御法度だったけど、今でもそういうのは本人も気にして、まわりも決して言わないように気遣うのだろうか??
 自分が受験生時代は、まだそういう雰囲気はあった。でも、それ以前の世代ほどよりは軽かったかと思う。就職試験の段階になると、もうそんな言葉くらいで惑わされる方がおかしい、くらいの感じだったか。

 大学4年の時、同じゼミの中に、何が何でも区役所勤めを目指してる友人がいた。決していじめてるわけではなく、彼の前では「あ、落ちた」「あ、滑っちゃった」の禁句のオンパレード。単純に「落ちた~~!」と本人の前でわめくことさえ^^;;(いじめてるんではないのか?)
本人は「バカヤロウ」と言いながら笑っているが、まわりも「落ちてしまえ」と本気で思っている者はいなかったし、何とか受かるのではないかと思ってからかっているのである。お互いにみんなわかってやっているのである。

 で、彼は落ちた^^;;
それでも次の年に受け直すために、わざと1つ単位を落とし、卒業せずにゼミに残った。その後は、、、どうなったんだっけかなぁ??^^;;

なぜ英語が話せない?  (2006.11.9)

 日本人が、実用的な英会話がきわめて苦手な理由は、かつてからあれこれ言われてきた。日本語と英語は、文法も何もかも正反対の言葉で、日本人にとって最も苦手な言語であるとか、学校英語の教え方が実際的でないとか。
 自分が考える大きな原因は、そもそもがほとんどの日本人にとって、英語が話せなくて困るという状況は、そう滅多には無いと言うこと。海外旅行へ行く人が増えたといっても、英語圏ばかりではないし、たいていの観光地では通訳がいたり、日本語が通じたりするだろうし。
 ほかに言われている原因としては、他国の言語に比べても、日本語の「音素」はきわめて少ない。音素が最も多いのは中国語かと思うが、英語と比べても圧倒的に少ない。例えば、日本語の母音は5つだが、中国語や英語系なども5つどころではない。(かつての日本語には少なくとも7つの母音があり、厳密に使い分けられていた微妙な違いの発音も、まとまって少なくなった)。だから、ネイティブのしゃべる言葉が聞き取れないのはしょうがない、等という説。これらは確かにもっともだと納得もしていた。

 先日の新聞に、日本在住の世界的数学者、ピーター・フランクル氏のコラムが載っていた。

「小学生からの英語教育については、そんなに先を急ぐことはないと考えている。 日本人が英語ができない最大の理由は、日本語ができないこと、つまり自己表現力の低さ。 自分の考えを相手にわかりやすく、簡単な言葉で説明する能力があれば、どの外国語もある程度短期間でかなりのレベルまでできるようになる。」

 あ~~!そうそう!それだ!前述の数々の「原因」は、それなりに納得できるモノだったけど、このピーター氏の御説は「腑に落ちた」。 日本語でさえ自分の考えをうまく表現できないのに、多国語でできるわけはないのだ。言われてみればきわめて当たり前のことなのだけど、改めて目から鱗だった。

 そういうところは、文科省なんかのお役人たちはな~~んも考えないしわからんのだろうね。いまだに、国際人=英語ができる、という前世紀的発想で考えてるんじゃないか、としか思えないし。あ、今となっては、前世紀とは20世紀のことだから、前々世紀ね^^。

ますますTVを見ない  (2006.11.19)

 以前にも何度か書いたと思うのだけど、テレビは見ない方だと思う。元々はテレビはよく見ていた方だけど、見る時間が無くなって興味が無くなったか、見るべきものが少なくなって見なくなったか。・・・まぁ両方ではある。
 テレビ大好き人間だったのに、見ることができない状態が続いて、テレビのない生活の良さや、見なくてもよい生活を実感したという話は良く聞く。自分にも少なからずそういうところはあったし。

 今、見ているものとすれば、朝食の時間にチョロッと「ズームイン!」を見て、夕方頃にニュースを見て、夕食の時にチョロッと見て、、・・・。とほぼそれくらいのもんだったり。それ以外では、よほど興味をそそられるものでないとスイッチさえ入れなかったり。いや、興味をそそられても「いいや」と、見ないことの方が多いか。全く見ない人からすれば、それでも見ている方なのだろうけど。
 いち早くニュースを知るために、テレビやラジオにかじりつく人も多いのだけど、新聞は毎日読んでいるので、他人より遅れるといってもたかだか半日である。その遅れで支障が出るような仕事はしていないので、なんの問題もない。

 んだけど、「おいらはスローライフなんだからね」「そんなにあくせく情報にかじりついちゃいないよ」と受け取られそうな事を書きながら、よく考えたらネットは頻繁にやっているのだから、テレビやラジオよりも情報が早い場合が多いじゃん^^;;と気づいたり^^;;;
 まぁ理屈はあとから何でもつけられるのだけど、要するにどうしても見たいというものが少ないし、見ないでほかのことをやっている方が今は好きなのである。

 平日は前述の様な感じなのだけど、以前は日曜の朝は一週間の総おさらいのようなニュースワイド番組みたいなのを見ていた。それも最近は全く見なくなったのだけど、見なくなって気づくのは、すでに知っている過去1週間のニュースをおさらいして、良くわからんコメンテーターが勝手な事を言ってるのを見てただけだったのか?と感じたり。こういうのは、見ているときに気づくのではなく、見なくなってからなるほど・・・と思ったり。
 いろんな人のいろんな考えを知るというのは良いことだけど、事件事故に関して事実や原因がまだはっきりわかっていない段階で、局やコメンテーターが推測に基づいて勝手なことを言うのはどうなんだ?という憤りもあったわけで。
 それに比べたら新聞投書や、ネットの自由な書き込みで意見を述べあっている方が、遙かにためになるというか、実になる気もする。

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