「まともな仕事」  (2005.8.1)

 「まともな仕事」という言葉が時々使われるけど、まともな仕事っていったいなんなんでしょね?ちょっと前までだったら、「会社」に就職して給料を得る仕事が「まともな仕事」の代名詞のような感じでもあった。そもそも、そういうのは就社であって、就職というのはもっと広い意味だと思うのだけど。
 ほぼ完全に終身雇用制度は崩壊したけど、ある意味では良いと思っている。制度が崩壊したのがいいのではなく、そういう価値観しかなかったのが崩壊したという点で。

 職業には貴賤はないと言われていたけど、それも納得はいかない。違法なものは論外として、人間のクズと言っても良い仕事は巷にあふれていると思っている。職業そのものが悪いのではなく、その用い方が悪いというケースも多々あるが。
 結構頻繁にその仕事を知る機会はあるが、一見まともそうでもその仕事内容は人間のクズだと思っているモノもある。超多忙で、その方面の人がここを読む事はあまり無いと思うけど、まぁ書くのは控えましょうぞ。

 話は戻って、どうも一般にまともな仕事という場合、「雇ってもらう」という意識は強いでしょう。自分から仕事を作るというのが苦手な民族でもあり、使われることに慣れてるからでもあろうか?おまけに、特異なことをやって社会に出るのを良くは思わない民族でもあったし。

 何度も書いたけど、アメリカの価値観ややり方は好きではないけど、学ぶべき所もある。学業の優秀な生徒は、日本では優良企業へ就職するのが普通だが、あちらは起業するのが普通だと。自分で起業する資質のない人が就職するのであって、優秀な頭脳の持ち主が使われる側に優先的に進むのは、よく考えればおかしいのはおかしい。

 プー太郎だのニートだのと、若い者の仕事に対する意気込みを嘆く声は多いが、それもちょっと待て、と。確かに、本人の意識の問題だというケースも多いだろうが、社会そのものの問題のほうが多きいのは間違いないじゃん。何でもかんでも、経済効率利益優先の社会や会社ばかりで、意気込みを持て!なんていう側を張り倒したくなる状態ではないのか?

 高度成長時代は、一見行け行け!の状態のように見えて、実は裏ではろくでもない構造であったのは現在どんどん暴露されている。それがどんどん表ざたになっているのはいいことで、今は膿を出している時期だ、といえなくも無いが、もうホントに、お金をどんどん使わないとやっていけない社会は終わりにしてほしい。 効率効率と、何でも効率が求められ、本来は余裕を持つための効率だったはずなのに、逆に効率が上がった分を、更なる利益を上げるために振り向けるなんてのも本末転倒ではないのか?なんて思っちゃうけど、そうしないと生き残れなくなってしまっているのは事実で、やっぱり結局は政府が悪いのか。そして、結局はそんな政府を選んでいる我々国民が馬鹿である、という結論にしかならないのか・・。

 とりあえず「勝ち組」だの「負け組み」だのという卑しい考え方はやめようぜい。と、強引に締めくくってみたりする^^;;;。

 

作家名は不要?  (2005.8.3)

 自分は一介の絵描きであって芸能人ではない。なので、作品を広く知ってもらえるのはうれしいが、名前を知られるのはそれほどうれしいとは思わない。作品を知ってもらえればいいのであって、作家そのものを露出する必要はないと思っている。ただ、作品を知ってもらうために作家名が必要になる場合がほとんどなので、それはしょうがないと思っている。

 の、ようなことを友人にメールで書いたら、「芸能人じゃないから、作家本人についての情報はいらないっていうのは分かる。でも、作品と作品を作った人の名前が一致してなかったら、何にもならないんじゃないのか?」
「それから、いろんなものに使われたり、頼まれたりする事も望んでるんだよねぇ~?じゃぁ、名前を知ってもらう必要はないっていうのは違うと思うけど?」と、返信に書いてあった。

 はは、確かに書き方がちょっと極端ではあった。自分が名前を知られるのはそれほどうれしいことではない、と書いたのは、自分のプライバシーのことを言いたかったのであり、「名前を知られる」という表現にかぶせてたような。標識としての名前は知ってもらったほうがいいけど、それ以上の絵に関係のない部分を知られる必要はないということだったのだ。

 そもそも、このHPには大々的に自分の本名を出しているし、それは名前を知ってもらうためである。ただそれは、自分の存在をアピールしているのではなく、製作者としての識別名詞のようなもんである。
 創作物なしに自分の存在をアピールすることのメリットはほとんどないと思っている。芸能人ではないから、と書いたのはそういうことでもあるが、考えたら芸能人も「芸能界」で表現する自分自身をアピールしているのであって、プライベートの自分を露出したいわけではないのだよねえ。そのあたりは「芸能人」というものに対する偏見なのであった。

 作品は見て欲しいけど、自分自身をアピールすることに躊躇しているというのは、世間に個人としての自分を露出することのデメリットの方が大きいという思いがある。それと同じくらいの理由で、純粋に作品そのものを評価してもらう妨げになることがある、という思いもあるのである。
 たとえば、展示会などで見てもらうとき、自分のことをよく知っている人とそうでない人では、作品に対する見方や評価は変わってくると思うのだ。作家のことをまったく知らなければ、純粋に作品そのものを見て、観覧者はその人なりに感想を持つが、作家を良く知っている場合は、その作家に対するイメージや親近感あるいは偏見というフィルターは少なからずかかるでしょう。
 展示会のときに感想を述べてくれる場合、そういうものをどれくらい差し引くべきか?と考えることが多いのである。これは自分だけなのか、他の作家も同じなのかどうかは知らない。多分に考えすぎなのかもしれないけど。

 これらのことについて他人に説明するというのは、とても難しいことだったりする。漠然としているし、言葉ではっきりと説明をしたとしても、それと矛盾していると思われてしまうことを自分はやっていたりするから。前述のように、大々的にHP上でも売名をしているし、本名の「伊藤」を「いとう」にしているのは、ペンネームみたいなもので、漢字のままだと固い感じでありふれすぎているからなのだ。

 ここまで「作家」という書き方をしてきたが、便宜上そう書いていて、本当はしっくりはこない。冒頭のように「絵描き」と書いてもいいけど、最近はやることが収拾つかないので自分でもどう書いたら良いのか?と困ることがあったりするし、「創作家」と書くのは漠然としているしなんか気恥ずかしい表現だったりする。
 小説家で友人のデビッド・ゾペティ氏(「いちげんさん」等の作者)は、作家と呼ばれることを好まない。作家という表現は漠然としており、紛れもなく「小説家」なので、キッパリと「小説家」を名乗っており、プロフィールが必要なときはそう書かせる。

 

雑記帳  (2005.8.8)

 まさかここまで書き続けるとは、公開当初は思ってもみなかった。いつの間にか450篇以上である!!!
 HP公開当初は、絵を頻繁に更新するのは無理なので、つまらんことでも何か時々書いて、更新しているという既成事実だけを作れれば、という程度だったのである。そもそも、自分の書いたものを他人が読んで面白がってくれるとは思っていなかったし、そんなに書くネタがあるとも思っていなかった。まぁ書くも書いたりだけど、やはり読みに来てくれる人が居てこそなのである。

 心配していたネタも、探せば結構あるもので、書かねばと思うと結構書けるもんだったりする。たいしたネタでなくても、いかに表現するか?だったりも^^;;。雑記帳も含め、だいたい1日おきに更新しているけど、それを決めているわけではない。いつの間にかなんとなくそうなってしまったのであり、2日おきとか週1~2回程度にしておけば楽だったかなぁ?とも思ったりするけど、その分ストックが出来たかといえば、おそらくそうではなかったであろうと思う。更新頻度が低ければ、おそらくそのペースでしかネタを掘り起こさなかっただろうから。

 さて、ありがたいことにこのHPも、あちこちにリンクしてもらったりして、そのリンクのコメントに、「独特の視点の雑記帳」云々、と書いてくれているところがいくつもある。それを見たときは結構意外で、「ふ~んん、、他人から見ると物の見方が変わってて面白いのか?」と思ったりした。そして最近フに落ちた。視点が独特で当然なのだ。誰もが書きそうなことだったら、わざわざここで書いてもしょうがないので、そうでもないことを選んで書いてるからなのだ。なので、結果的に「独特」になっているとも言えるのだった。

 書いている内容は、その時々の思いつきなので、まったく統一性はない。そのうちにテーマ別にページをまとめたほうがいいなと、何度も思ったのだけど、この先も同じようにばらばらで書き続けるので、それも不可能なような。・・・・
 もひとつ、自分でもどうにかしなきゃと思い、訪問者の中にも「なんでだ?」と気づいた人も多いかもしれないけど、各ページは11篇が基本になっている。なにか特別な理由がありそうだけど、実はしょーもない理由だったり。
 雑記帳の目次ページが原因なのだった。最初のころは、どれくらいでページを分けるかというのを適当にやっていたりして、思い出したようにページを新しくしていたので、15編だったり13編だったりしている。タイトルによっては長すぎて2行にわたっていたりするが、隣のページとの行数の釣り合いを取るために、2行を含むページの隣は1篇少なくしたりしているうちに、なんとなく11篇になってしまったのである。これも、10篇ずつに直そうと思いつつ月日は流れていく・・・。

 

エスカレートする冷房攻撃  (2005.8.10)

 今年はクールビズということで、初夏のころは店や電車のクーラーも押さえ気味な気がした。
 さてさて夏も本番になってどうなったかというと、クールビズはどうなったんだ?という感じ。なんか最初のブームだけだったのか?っていう様相で、単なるファッションなのかよって感じですな。気のせいか、冷やしすぎの狂気のクーラー攻撃の、例年の夏を上回る強烈さで冷やされているんではないのか?去年までも寒かったけど、今年は一層冷気がきついぞ、という感じがするのである。

 案の定、先日入ったカレー屋。カレー屋は食べるものの関係からか、一層クーラーのきつい場所である。凍えながらカレーを待っていて、一通り食べるころにはどうにか発散する熱と均衡が取れるくらいまでにはなってくる。
 カウンターの向こうの調理場は、客席よりは暑いはずである。それでも中の女の子は、鼻をグジュグジュ、くしゃみ連発であった。あれはどう見ても店のクーラーにやられている。

 もう我慢の限界という感じで、最近は喫茶などでは、クーラーを弱くしてもらうか、冷気のこないところはないのか?と聞いている。冷気からの逃げ場のない店は、夏は入らないようにもしている。ドトールコーヒーは割合入るほうだが、あそこもかなり寒い。しかも、数台の天井クーラーが満遍なく店の隅々まで強風の冷気をばら撒くので逃げ場は少ない。こないだ入ったドトールの地下。そこは、天井の隅のほうから冷やすタイプの旧式で、操作パネルが壁についていた。それでも風が強く、どこの席も冷風が吹きつけ、かといってすぐに出るのも悔しいので我慢していた。そのフロアに客はほとんどおらず、時間つぶしのサラリーマンが出て行って誰もいなくなったのを見計らって、操作パネルをいじってやろうと思った。なんと22度の強風になっていた!あれはなんかねえ、涼んでもらおうというよりも、寒くして客の回転をよくしようという狙いなのかも。なので、25度の弱風にしてやった。自分の部屋でクーラーをかけるときは、微風の28~9度である。別に温暖化対策ではなく、これくらいがちょうどいいのである。

 もう定番になってしまった天井からの吹き付け型クーラー。医者に言わせると、もっとも身体に悪い冷やし方なのだそうだ。素人が考えてもすぐにわかるほどだし。でも、デザイン、効率、経費などの理由で普及しているのだろう。本当に本当に本当に、なんとかしてくれい!

 ただ問題は、これは自分の快適度を基準にしているのであって、25度でも暑いと文句を言う客はいるのである。特に30歳くらいから下の世代は、子供のころからエアコンに慣れてしまっていて、体温の調整機構が正常に働かないらしい。ある意味犠牲者でもあるのだ。

 

外耳炎  (2005.8.13)

 数日前から左耳が痛かった。耳かきやら綿棒で耳をいじることがおおいので、傷になったらしかった。そうこうするうちに、できものになってしまったらしく、咀嚼も痛いし、朝起きたら音がこもって鼓膜もペコペコしていた。

 17年近く前にも、同じ左耳をいためたことがある。そのときは、耳のかきすぎで奥が腫れて鼓膜を刺激して、鼓膜に穴が開いたらしかった。当時の耳鼻科の話によると、鼓膜を破ったり穴が開いたりするのは、珍しいことではないという。風邪をひいたときにはとくに穴が開くこともあるのだそうだ。風邪をひいて音がこもって聞こえるときなどは、穴が開いてる可能性が高いとか。ただ、裂けてしまわない限りは1ヶ月ほどで再生するのだそうだ。自分の場合も1ヶ月ほどで元に戻った。

 さて今回。その日は絵の教室だったし、運悪く8月11日の木曜日。耳鼻科というのは木曜休診が多い。おまけにどこもかしこも11日からお盆休みに入っている。しかも一週間くらいも。ひどいところは10連休である。
 病院の救急へ行く手もあるが、そこまでめんどくさいなぁという気もあり、自然治癒にまかせようか?と思ったり。でも、外耳でも事と次第によったら悪化の場合もあるだろうと、ネットで調べてみた。「外耳炎」で検索すると、なんだか子供を対象にした医療メモばかりが出てくる。基本的に小児に多い症状なのか?^^;;; しかし以前にも書いたけど、医者に行きたい!と思うときはなんで休診のときが多いんだ?

 ダメもとで地域の「耳鼻咽喉科」を検索してみる。片っ端から電話をしてみるが、ほとんどは休診。留守電メッセージで「11日から○○日まで夏休みをとらせていただいております」というのが流れるならまだしも、圧倒的に呼び出し音が延々と流れるところばかり。
 かろうじて何軒かはやっていた。面白いことに、そういうところは夏休みに入るのが遅く、しかも短期間だったりする。木曜休診が多いのは、耳鼻咽喉学会のかなんかの研究会があったり、会で休診日を申し合わせているのだろうか?そして、そういうところはみんなで長く休もう!なんちゃってるのか?

 診療中のところで一番近いところに行くことに決め、すぐにチャリを走らせた。チャリでも、すっ飛ばして10数分である。時間は16時になっていた。数少ない診療をやっている医院で、しかも近日中に夏休みに入るから、もう患者でごった返しているであろう、と急いだのである。延々と待たされて2時間くらいはつぶれだろうと覚悟していた。
 しかし入ってみると、靴がひとつしかなかった。看護婦たちも暇そうにしていた。患者たちも夏休みなのか???

 診療を受けると、明らかに外耳炎であった。やってもらったのは一番効果的な薬らしく、目薬のような容器で耳の穴に液体の薬を入れて、数分間こぼれないように首をかしげていた。ただでさえ、話を聞き取りにくく答えにくい体勢の上に、左耳には薬が満ちていてそちらは聞こえない。そして男の先生は甲高い声で早口である。
「○○×△%^**8で、O:-0’kwですか?」
「はぁ??」
と、よく聞き取れないのがわかるので、向こうの看護婦も言ってることを繰り返してくれたりした。それでも相変わらず、先生は早口でまくし立てる。
「EE3442(!~?>、、ヨ~ロレィティ~♪ですから、*98でペペロンチ~ネですね」
「は??」
の繰り返しであった。・・・

 二件先の処方箋薬局もきわめて暇そうだった。ん~~、暇だから医院も休むのか、医院が休むから患者はこないのか???

 なんだか久々に、ネットで調べるということの有意義性を満喫したのであった。

 

死に急ぐ大国  (2005.8.15)

 かつて、今のような近代化を突き進む以前の中国。発展途上国という枕詞が良く似合っていた頃の中国。日本はすでに、高度経済成長の時代をとうに終えていた頃。当然、中国をはじめとするアジア諸国は、日本が歩んだのと同じような高度成長を目指していた。中国の生産物で真っ先に思い浮かぶのは農業関係だった。ほんの20数年ほど前のことである。

 発展途上国と呼ばれていた諸国が、高度成長や近代化を目指す気持ちは良くわかった。そんなものは目指さず、いつまでも素朴なままでいて欲しいと思うのは、近代化した国の勝手な言い分であるというのも良くわかっていた。

 でも、でも、近代化という言葉で美化されているものは、一見華やかな様でいて、実は太く短くという死に急ぐ道であり、同じような道を歩まないでほしいなぁ、と個人的に思っていた。日本はすでに、その間違った道を経験してしまったのだと思っていたのだ。

 さてさて、その中国をはじめとするアジア諸国は、どんどん近代化している。そして明らにわかるように、死に急いでいる。先に近代化したアメリカをしのぐ勢いで、死に急いでいる気がする。・・・・

 そして、アメリカ・中国という二大大国は、結局自分の利益しか考えていないのが悲しいところ。ここで言う、アメリカ・中国というのは、アメリカ人・中国人ではなく、アメリカ政府・中国政府のことである。
 日本政府は世間知らずのお馬鹿ではあるけど、この二大大国のように、影響力が大きいのに他を抹殺してでも自分だけ良ければいいや、という国になるよりはまだましなような気がする。・・・ 滅びてしまうかもしれないけど。

 

更年期障害?  (2005.8.17)

 おそらく、漫画家のはらたいら氏がパイオニア(?)なのではないだろうか?男にも更年期障害があるということが一般的に認知されるようになったのは。それ以前にも、たくさんのそのような症状で悩む男性はいたのだと思うが、更年期障害は女性のみの症状だとされていたし。
 有名人などで、男性で更年期障害を発症した人の年齢を見ると、女性よりは高齢のように見える。なので、自分の世代からすると、万が一発症するとしてもまだまだ先のことだろうという感覚だったり。

 さてさて、今年はなんだか寝起きがだるいことが多い気がする。目覚めた瞬間は良く寝た感じなのだけど、そのままずっと体が目覚めない感じというか。
 なんだろな~、どっか体が悪いのか?と思ってもそういう感じではないし、なんとなく精神的なもののような感じもするな、と。どう考えても鬱関係ではないし、年齢による体の問題か?^^;;とも思ったり。

 それまで、更年期障害という言葉は聞いていたし、教室に参加している人で症状の出ている人がいて、その話を聞いたことはあった。さて、男の場合はどうなんだ?よもや自分もそういう方面の兆しがあったり??と思って、ちょっくらネットで調べてみた。
 そんな中で、こんなチェックがあったのでやってみた。(チェックの被験者は男性向けである。※チェックサイトは現在では消滅) 対象年齢は45歳以上で、自分はかろうじてまだなのだが、ま、モノは試し。
 チェックをしながら、「これは自分は対象外だろうなぁ」と感じていたが、やっぱり結果は「あなたは健康そのもの問題ありません」。
 でも、そのような結果が出ても更年期障害だという人はいないのだろうか?それなりに考えられたチェックシートでも、相手は人間なので、誰もわかってくれない状態というのもありえるような。

 そういや大阪でコンピューター関係の仕事をしていたころ。毎月50~100時間の残業というのは普通であった。150時間以上という人もざらにいた。
 サラリーマンだったので、毎年の健康診断は必須である。短時間でホイホイ終わる検査もあるが、半日ドックみたいなところで、後日に結果をもらうのもあった。「こんなメチャメチャな仕事の仕方してたら身体いってまうよなぁ」なんて言い合いながら、だからちょっと問題ありの結果が出るであろうという予想である。予想というより期待と言うか^^;。

 しかぁ~し! コンピューターで分析されて出力された診断シートの総合評価には「ナニモモンダイハアリマセン。イママデドオリノセイカツヲツヅケテクダサイ」なんてものだったのだ。「おいおい!! このまま同じようにやれってか!!・・・・・」

 コンピュータ関係の仕事に携わるものは、往々にコンピューターを信用していないものだ。
こういう分析も、データをあらかじめ決められた方式でつき合わせて、パターン化されたメッセージを出力しているはわかっている。何しろそういうシステムを作る仕事だったので^^;。なので、単純に数値だけで分析されて問題ありませんって言われても、ジョーダンじゃぁねえよなぁ・・・、なんて、仲間で話していたものだったのだった(遠い目・・・)

 

注文待ち  (2005.8.20)

 喫茶店や食事屋へ行くと、当然「ご注文をどうぞ」と店員がやってくる。
メニューを見て決めようとすると「ご注文お決まりの頃おうかがいいたします」と立ち去る。
やつらは予知能力があるのだろうか?・・・

 

大リーグボール養成ギブス  (2005.8.22)

 名作劇画「巨人の星」に熱中した人なら、多かれ少なかれ「大リーグボール養成ギブス」に興味を持ったと思う。あれをなぜ実際に商品化しなかったのだ?という疑問を持った人も多いだろう。また、あれを作り上げてしまう星一徹おとっつぁんの職人技にも驚くが、あの腕があったら日雇い労働者ではなく一級の職人をやれたはずなのだが・・・ ギブスの特許で楽な生活もできただろうに・・・

 さて、あの漫画やアニメに熱中した少年で、実際にギブスを作った人というのはそれほどはおるまい、と思っていた。自分が野球に興味を持ったのは小学校6年のとき。「巨人の星」はなんとなく見たことはあったのだが、野球そのものをよくわかっていなかったので、単なるアニメとしてみていたのだと思う。しかも見ていたのは終了に近い方だったか。あのアニメは、アニメとしては異例の長期間放映で、確か3年間放映されたのだと思う。

 野球に興味を持った自分は、いろいろとそれにまつわる道具を作り始めた。まず、グローブやバットは、リトルリーグに所属したことのある同級生のお古をもらった。しばらくして自分で買ったグローブは、表は普通でも中身のクッションが発泡スチロールだったりする安物で、それが気に食わずにいったん全分解して、中身を友人にもらったお古のグローブの中身と入れ替えたり、すぐに壊れそうな部分をお古のグローブの素材を転用して直したりしていた。まぁ、当時からよくやるのう・・・。
 バットの素振りをするときに、バットに重りをはめて振ったりするのだが、それも乾電池を大量に使った重りを作り、ちょうどうまい具合にはめられるように開発。そして当然「大リーグボール養成ギブス」だ^^。

 うちにあった古いカラーテレビがお釈迦になったところだったのだが、そのテレビはおそらく最後世代の真空管部品を使ったものだった。そのころは、時計やら電気製品やらの壊れたやつを分解して遊んでいたりした。そのテレビを分解したところ、理由はわからないが、ブラウン管を4本のバネが保護していた。そのバネがちょうどよさそうだったのだ^^。
 漫画の中では、ギブスは両腕を鍛えるもので、それぞれ肩からひじ、そしてひじから手首への二段階のバネがつけられていた。そんなのを作るのは無理なので、とりあえずは片腕用である。詳しい形は忘れてしまったが、肩へ固定するのは作りようが無かったので、主にひじと手首を強化する方式にしていた。んで、実際に装着してみると、バネの抵抗がなかなかなのである。
 少しつけたあとにはずすと、驚くほどに動作が軽い。おお!これは有効ではないか!とわれながら感動したものである。残念ながら、物持ちのいい自分ではあっても、そのギブスはもう手元には無い。いや、誰かに進呈したわけでもない、、と、思うが・・・。
 こんなもの作る物好きはそうはいないだろう、と思っていたら、かの郷ひろみも作ってつけていたのだそうだ。彼は本格的に野球の選手を目指したことがあるらしく、芸能人野球大会で見た投球もなかなか速かった。

 あのギブスの最大の問題点は、作る技術ではなく、バネが腕の毛や肉を挟んでしまうということのようだ。漫画の中ではバネと腕の間には皮がカバーしており、その辺は良く考えていたようだ。ただ実際には皮は伸びるわけではないから、その方式は無理なのだが。
 技術が改良されれば、、、とは思うが、おそらくこの先も作られることはないだろうなぁ。多分あの鍛え方は、筋肉や関節へのマイナス面の方が大きいと思われ。。。

 

生きる目的   (2005.8.24)

 前に書いたと思うが、自分は歴史が大の苦手である。学校の科目としての歴史のことなのであるが、高校では日本史は大の大の苦手科目であった。でも、歴史そのものが嫌いなわけではなく、授業が退屈でテストがまったくできなかっただけのことなのだ。それでもその苦手意識というのは引きずるもので、日本史関係の本を読んでも、どうにも時代のつながりやその背景が頭に入ってこない。でも、時々はそういう方面の本を好んで読んだりする。

 歴史ほど面白いものは無いという人も多いし、捉え方も人それぞれ。「有史以前」とか「有史以来」という言い方があるが、要するに「記録に残っている」歴史の最古を基準にしているのであり、とんでもなく古代というイメージがある。
 そんな古代のことが、なんだか見てきたようにわかったりするのはものすごいことだと思ったりするが、でもなんのことはない、せいぜい数千年のことではないか。化石などからわかる人類最古の歴史を見たところでせいぜい数万年前である。数千年って、よく考えたらそれほど大昔ではない気にもなってくる。

 さてさて、歴史を学ぶ目的というのは、過去に起こった真実を知りたいということと、これから先の未来に生かすための二通りがあるのではないかと思う。同じ人間が歩んできた道は、これから先へのこれ以上ない教科書になる。

 10年ほど前のことだった。あるとき歴史関係の本を読んでいた。読みながら、その本の内容とは関係ないことがふっと頭をよぎった。「はっ!」という感じで、人間の歴史全般の真実がわかった気がしたのだ。
 古今東西老若男女、ただの一人の例外もなく、人間は同じ目的のために生きているということがわかったのだ。ただひとこと「全ての人は幸せになるために生きている(行動している)」ということである。言葉にすればなんてことは無い、きわめて当たり前のことなのだけど、こういう事は聞いた記憶が無かった。どこかで誰かが言ったか書いたかしていて、それが頭の隅に引っかかっていたのかもしれないが、読んだり聞いたりしてわかるのと、自分で腑に落ちるのとでは雲泥の差がある。

 一見、どう見ても自ら不幸になろうとしているような人もいるが、それは価値観が違うためだったり、状況により見え方が違うためであろう。自殺や殺人などの場合でも、動機や気持ちはどうあれ、本人は「より楽になろう」としているのであって、その本人にとって現状より良い状態を求めていることには違いないでしょう。そういう意味では、人間に限らずあらゆる生命全部が同じ目的であると言えるが。

 幸せになるために生きている、行動しているのは間違いなくても、価値観などの基準があまりにまちまちであり、また考え方が健全でないために方向が間違っている場合もある。
 「幸せ」というのは、心の状態のことだと思っている。おかれた状況をどう解釈して受け入れるかの違いといっても良い。今の世の中が荒れてしまって、その対処の仕方も対症療法でしかないのも、そういう基本的な哲学の教育が欠落しているからなのではないか?
 もちろん、教育というのは学校だけのことを言っているのではなく。

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