う、うなぎは・・;;; (2003.8.11)
今年は例年にない異常な梅雨寒で、土用のウナギの売り上げもイマイチだったようだ。
このウナギ、実はちょっと苦手だったりする。嫌いではないが、それほど積極的に食べたいというモノではない。おそらく苦手な原因は、あの脂っぽさとヌルヌル感だろう。
小学校の頃はウナギが食べられなかった。経済的に食べられなかったというのではなく、出されてもイヤだったのだ。味はそうイヤでもないのだが、どうにもダメだった。だから、家でみんなで食べるときも、ウナギはどけてもらって、タレのかかったご飯だけを食べていた。何とか食べられるようになったのは、小学校高学年だったか中学になってからだったか?・・・それでも、皮の部分は分離して身だけを食べていた。
その皮も付けて、普通に食べるようになったのがいつからだったのかは、良く覚えていない。でも、今でもあまり皮は付けて食べたくはない。ましてや、世間のみんなが、暑くて食欲がイマイチの時にウナギで精力を付けて、というのはどうにも納得しがたい。暑いからと言って食欲が無くなることはないけど、普通でもそう食べたくはないのに、食欲のない時になど食べられない;;;。
そうそう、ウナギといえば、白焼きというのがあるのを知らなかった。昨年、お中元にウナギをもらった。冷凍のレトルトモノで、結構数があった。最初は気づかなかったのだけど、ある日、パックをゆでようと思ったら、ウナギが白い。
なんだこれは?よく見るといくつかあるぞ。タレの瓶も一緒に入っていたから、これはたれを付けて焼く分なのか?と、言うわけで、どうやったらいいのかわからず、結局どうやったのか覚えてないけど、その白身にたれを絡ませて、うな丼にした。もちろん味はこざっぱりしてしまっている。
数ヶ月後、それはウナギの白焼きというモノで、わさび醤油で食べるものだと知った。どおりで本わさびが一緒にあると思った。なんでわさびが入っているのかわからなかったのだ。残りの白身のやつは、ちゃんと白焼きとしてわさび醤油で食べた。これは結構いけた。蒲焼きはイマイチ苦手だけど、白焼きはまぁまぁいいかもしれない。^^
報酬について (2003.8.13)
先日、雑記帳20で「お金のための絵」を書いたのだけど、他のサイトでも「仕事に対する報酬の考え方」のような面まで話が発展したりしています。日本人はこのあたりのことを、結構曖昧に軽く考えているフシがあると思っていた。はっきり商売・仕事として事が進んでいる場合は別にして、お金を要求するのは、あまりきれいなことではない、という意識もあるだろうし、金銭でお礼をするのはどうしたモノか?という意識もあるでしょう。
報酬というのを「お金」でのやりとりに限定することもないわけで、感謝の気持ちや相手が喜んでくれる、また、役に立ったと感じることも大きな報酬になるでしょう。少なくとも日本では、金銭でのお礼をしない場合でも、感謝の気持ちとともに粗品を贈るなどの行為が一般的ですし、同じ意味で金銭でのお礼をするというのは、何もおかしな事ではないと思う。なにか「お金」というモノに、余計な意味や感情を付けすぎのような気がする。
確かに自分も、何の報酬を要求するつもりもなしに、自分の専門技術を提供することは多い。ボランティアとかサービスという意識でもない。その辺の区切りを説明するのは非常に困難だけど、だいたいわかってもらえると思います。
ま、このくらいはいいか、というつもりの時だったり、持ちつ持たれつの世話になっている相手で、お互い様というケースだったりもする。ただ、友達だから、親しいから、という理由だけでそうするというのとはまったく違う。むしろ、一回限りの提供の場合が多かったりする。この先もつきあいがあるとか、何度か同じような事をする場合だったら、その辺はきっちりするべきだとは思う。
最初から見返りを期待していない場合でも、まれに「友達だから(ただで)良いでしょ?」と言う人もいるが、こういうのははっきり言って腹が立つ。何の見返りもないからではなく、ある意味「親しい間柄である」というのを悪用しているのと変わらないからだ。今回はお願い!と言うのとはちょっと違う。もちろん、本人に悪意はないのだが。間柄が親しければ親しいほど、逆に、相手の専門分野に対して無償奉仕を「要求」するべきではないと思っている。
毎年11月頃に、東京で新作の個展を開催している。6年前から、個展期間中に1度だけ、プロのアコーディオン奏者(大塚雄一氏)の方にライブをやっていただいている。 その前の年に知り合った奏者で、個展の時にライブをやって欲しいと頼んだら、気持ちよく二つ返事で応じてくれたのだ。
今年で6年目になるが、最初のライブの時、演奏後に薄謝を渡そうとすると、最初は受け取ろうとはしなかった。あくまで好意でライブをやってくれているので、仕事として考えなくて良い、という事でしょう。
実際の演奏を依頼した場合の料金に比べたらはるかに少ない金額なので、出演料にはなりえず、あくまで薄謝である。ただ、それ一回で終わりではなく、出来ればこれからもお願いしたいと思っていたので、お礼はきちんと受け取って欲しい、という趣旨のことを伝えたのだ。もちろん、それについてはしっかり理解してもらえた。もし、それ一回限りの演奏だったら、その方の好意に甘えただろう。それはそれで良いと思う。
でも、多少なりとも受け取ってもらえれば、次回お願いするときも、こちらも気持ちよく頼める。だから、しっかりとけじめというのはつけるべきだと思う。その辺を「お金の要求」とか「金銭での○○」という意識というか話になってしまうから、本質がボケてしまうのではないか。
日本人がその辺が曖昧だというのは、「察しの文化」の国である、ということもあるだろう。すべてを言わなくてもわかる、気持ちを察する。などである。現実はどうかというと、確かにそのように相手の気持ちを察するというのは、すばらしい文化だとは思う。でも、その反面誤解を招くというケースも多いはずだ。言うべき事ははっきり言わないとわからないのだ。正式な仕事ではないのに、やったことに対して何らかの報酬を要求したり、払ったりという、そういう何もかも目に見える形で表沙汰にするのは、きれいではないという意識があるのかもしれない。
ううむ・・・うまく書けなかった。話がまとまりませんでした^^;。
やっていただく (2003.8.15)
先日、某銀行の役員と顧客の親睦を図るゴルフクラブの、ブレザー用エンブレムデザインを頼まれました。と言っても、既存のエンブレムサンプル集から、二つを組み合わせるというモノです。先方の役員が、「これにこっちのこの部分をくっつけたのが良い」と言ったそうで、ゴルフクラブなのに、土台にするのはアメリカの野球組織のモノ。合成すると、ケバケバしいだけだが、先方はそれで良いという。
その仕事を請け負って僕に依頼してきた社長は、何度も先方に念を押して、それで良いのかと確認した末に決まった。先方は60過ぎの役員だが、そんな合成してデザインするくらいのモノにお金なんかかからないだろう、という認識である。つまり「なんでデザイン料が発生するんだ?」といぶかっている。「これをくっつけるだけじゃないか」と言うことらしい。
請け負った社長はもちろん、そういうモノも含めてデザインであり、たとえただの合成に見えても、それ相応にバランスさせるデザインを行うのだし、素人には出来ないことだから専門の人に依頼するのだ。だから、相応の報酬が発生するのは当たり前だ、と交渉したらしい。どう考えても、当たり前のことだ。
もちろん金融関係という畑違いにしろ、組織のトップクラスに位置する人間が、自分に出来ないことを他人に依頼してやってもらうということの意識の低さはどうしたモノか。自分の所のぺーぺーの部下に、「ちょっとこれコピーして」と言っているのと同じレベルで考えているのだろう。
確かにパソコンに画像を取り込んで、画像を合成するのは、やりなれた者には簡単であるケースは多い。でも、だから簡単なんだから良いだろう、というのはとんでもないことだというのはわかるでしょう。だったら、他人に頼まずに自分でやるか、身内の者にやらせればいいのだ。パソコンを持っていないから出来ない、というレベルの話ではないのだ。いまどきは高価なソフトを使わずとも、フリーのソフトを使ったって、ある程度の画像処理は出来る。ただ、趣味にしろプロにしろ、そこまで使いこなせるだけのバックボーンがあるのだ。
書画で、スーッと一本線を引くだけの書もあったりするが、その満足のいく一本の線を引くためには、目に見えない下積みが存在する。素人には無造作に簡単にやっているように見える作業の裏には、そこまでたどり着く多くの鍛錬がある。それを理解しないのは、プロ野球などを見ていて、「あんなタマ、俺でも打てる!」と本気で言っているオヤジと変わらない。(ちょっと違うか?^^;;)
当たり前だけど、プロ野球の選手は、全国の野球少年の中で飛び抜けた野球天才が集まった中から、選りすぐられた人たちなんですよねえ。
個展などで絵を見た人で、どれくらい作業に時間をかけたのか?を聞く人は多い。たいていの場合は、あくまで労力を聞くのであろうが、かけた時間と作品の価値が比例すると考えている人も多い。そういうことではない、というのはおわかりいただけると思う。単純に一般化は出来ないけど、短時間で満足のいくモノを作り出せると言うことは、それまでに積み上げた技量の結果や、その人特有の才能でもある。だから、そういう類のモノに、時給的な発想で価値を判断するのは大いなる誤りである。
最初に書いた話でも、そういうことを理解していないか、偉くなってしまって、自分も若い頃下積みした頃のことを忘れてしまっているのか。少しでも安くあげようとしているのも事実だが、その役員のしていることは、節約とかケチ以前の意識の問題である。 かなりタイトルと内容が一致していないのは悪しからずです ^^;;;。
校長のコメント (2003.8.17)
最近、つとに凶悪な少年犯罪が増えてきて、その少年の通う学校からのコメントが発表されたりする。あれを見ていて、いつも不思議に思っていたことがあるのだ。
犯罪を犯した少年の普段の様子について、校長がコメントしているのがとても多いが、 なんでだ?と思ってしまう。担任がコメントするのならわかる。担任でなくても、各教科で直接その生徒に関わってきた先生でもわかる。でも、なぜ校長がコメントできるのか?
つまり、自分の小中学校時代を顧みても、校長が一人一人の生徒を把握していることなんかあり得ないのだ。一学年が数えるほどしかいない小さな学校ならばわかる。でも普通生徒と校長が、一対一に近い形で交流する機会は滅多にないだろう。
どんなに熱心に生徒と関わろうとする校長だって、一人一人の生徒を把握できるだろうか?良い悪いを言っているのではなく、抱える人数からして不可能だろうというのだ。しかも、たいていの場合は「ごく普通の目立たない生徒」だったりするのだから、余計に校長がその生徒のことを知っているというのは不思議である。
先のコメントの件に関しても、学校の代表として、担任の意見を校長が代弁しているというのならわかる。そうなのかな?
詰め物vsキャラメル (2003.8.19)
最後にキャラメルを食べたのは何年前だったか?自分にとってキャラメルは、忘れた頃の天敵だったりする。何を言っているのかわからないでしょうが、要するにキャラメルというやつは、奥歯の詰め物を必ずはがしにかかってくれるのだ。
これは自分だけでなく、多くの人が経験しているでしょう。うっかりキャラメルを食べてしまって、奥歯の詰め物がキャラメルにくっついて、固い触感を感じた瞬間に「しまった!!;;;」と後悔する。
何度もキャラメルで詰め物を取ってしまって、二度と食べるまい、と心に固く誓っても、うっかり食べてしまって、大きく後悔するのだ。ご飯を食べていて、ご飯粒でとれたときにはびっくりしたが、だいたい詰め物を取る原因の1位は、2位以下を大きく引き離して全国的にキャラメルだろう。キャラメルなどにくっついてはずれた、というケース以外には、自分の場合、食事中に噛んでいたのだと思うが、噛む力で詰め物を噛み割ったこともあった。
一時期、平均月に1~2回、詰め物をはずして歯医者に通ったことがあり、行くたびに「今度はどこがはずれた?」と最初に言われたりした。たいていの場合は、きれいにはずれているので、そのまま付け直して簡単に修理完了である。あまり同じところが何度もはずれる場合は、接着剤の絡みを良くするために、接着面をやや複雑な形に作り直すそうだ。
あ、そういえば、昨年あたりに断り切れなくて、キャラメルを一個もらって食べたことがあった。 (何がどうして断り切れないんだ?)
もう、慎重に奥歯で噛まないようにして、前歯中心で食べていた記憶がある。前にも書いたけど、前歯は鋭くて強いのだ。
ガムにくっついて外れたと言うことは無かったと思う。でも、歯にくっつかないガム、と言うのが売られているのだから、歯にくっつかないキャラメル、なんてモノも売り出したら、結構支持されるのではないかと思うのだけど。ダメ?^^;
ムシ (2003.8.21)
風呂で体を洗っていたら、壁の隅にカメムシがいた。東京では久々な気がする。あまり気にしていないだけかもしれないけど、数自体が少ないし。
ブルーグリーンのきれいなボディに、茶色を組み合わせて、一昔前の外車の様にイキだった。なんで壁やものをつたって、上を上を目指すんでしょうね?
子供の頃は、しょっちゅう表に向いた網戸にカナブンがとまっていた。よく網戸やガラスにぶつかってきたりもした。まぁそれでも、あまり昆虫を見た方ではないとは思う。何しろ生の蛍を見たことはないし、オニヤンマ、トノサマバッタも生では見たことはない。
もちろん野生のカブトムシやクワガタも見たことはない。自分が子供の頃でも、すでに昆虫は珍しいものになっていましたしねえ。最近は逆によく耳にするけど、ミンミンゼミは少なかったと思います。だから、たまにミンミンゼミが鳴いているのを聞くと、捕りたくてたまらなかった。
昨日の新聞だったと思うけど、季節を表す虫などの見直しがなされたそうです。気象庁が、季節を告げる虫や植物というのを決めていて、桜もそのひとつ。その季節の風物詩が見られるようになると、秋とか冬とかの季節の到来を表しているとか。しかし、それらの項目はだいぶ前に決められたもので、今回改めて見直したらしい。特に東北などでも、都市部で見られなくなった昆虫などを中心に、項目から除外していった。その中にはキリギリスなど、名前だけはおなじみのものも多かった。
でも、自分はキリギリスはまったくおなじみではなかったですね。少なくとも、自分が住んでいた周りで鳴いているのを聞いたことはないと思う。誰かが虫かごで飼っていたのを聞いたくらいのもので。理科の教科書では常連のゲンゴロウやタガメだって、いったいどこにそんなものがいるんだ?という感じだったし。
もうすぐ精巧な虫ロボットも、市販されるようになるんでしょうねえ。
ママ母 (2003.8.23)
小学校低学年の頃、あるテレビドラマでよく使われていて単語が、とても奇妙だった。最近は死語なのかもしれないけど「継母」という単語だった。
何が奇妙って、読み方が「ままはは」なのである。小学校低学年の自分がそんな単語を知っているわけがないし、「まま」が「継」であるなんて知るよしもない。だから、「ママ母」なのだと思っていたのだ。
ママも母も同じ意味なのに、それを英語と日本語で何故に重ねて言うのかが不思議だったのだ。「お母様」と同じように、上流階級の言い方なのか?とも思っていた。んじゃ、父親は「パパ父」なんだろうか?と。^^;
ほとんど「なすがまま、キュウリがパパ」の世界ですね。
同じように、そのときのボキャブラリーの範囲で、勘違って解釈する単語というのは多いでしょう。「イタチごっこ」なんてのもその一つ。これだって、意味がわかるわけもなく、「○○ごっこ」と同じように解釈していたと思う。だから、イタチになりきる遊びのような。・・・ イタチなんて、未だに生を見た記憶はないのに。
ゴキブリ (2003.8.25)
このところムシづいてますが、今度はゴキブリです。我が家ではここ数年、ほとんどゴキブリを見なくなった。ゴキブリ駆除剤で、ゴキブリに食べさせて巣に戻らせ、その糞を食べた仲間もどんどん死んでいく、というのがあるでしょう。あれを数年前に使ったら、とたんに少なくなった。その直後、たまに見かけても、ヘロヘロと文字通り虫の息で歩いていたりした。その後はほとんど見ない。
ゴキブリというネーミングは、なんかとってもナイスというか、そのものを表している語感だと思うのだが、あれは正式名ではない。元々は「御器(ごき)かぶり」という名前で、台所で器をかじっているやつ、というネーミングです。それが江戸時代くらいに書物の写本をしている時に、「ごきかぶり」の「か」を抜かして写してしまい、それ以降「ごきぶり」になったそうです。オヤジギャグ風にいうと、「ゴキブリ」に誤記されたわけですな。(名前の由来を解説してあった本に、ホントにそういうオヤジギャグが書かれていたのだ。)
ゴキブリ君。実は将来の食糧危機の時には、有力な食料候補なのだそうだ。 一般に昆虫は満点の栄養源なのだが、ゴキブリもその一つで、十分栄養の補給源になるらしい。現にゴキブリを食している国はありますね、もちろん想像もしたくないけど。考えたら、なんでそこまで忌み嫌われているのでしょうね。姿が脂ぎってて、形も気持ち悪い、等々がいわれるけど、ゴキブリを知らない人はそれほど嫌悪の対象にはしていなかったみたいだし。
その昔、北海道にはゴキブリがいなかったらしい。今は普通に生息しているのだが、発生源は札幌の病院だったようだ。で、初めてゴキブリを見た人は、カブトムシの一種と思って籠で飼っている人も少なくなかったとか。同じ話は東北でもあったと聞いた。ということは、ゴキブリが超嫌悪されているのは、そのような対象であるということを後天的に刷り込まれているのではないのだろうか。
ゴキブリが人を恐怖におとしいれるのは、なんといっても部屋の中を飛んだときでしょう。もう部屋の中はパニックに陥ること必至。でも、実はゴキブリは助走なしには飛べない。と言っても、床を走りながら飛び立つわけではなく、壁や天井などから飛び降りる形で飛ぶのだ。このあたりは、古代の翼竜や始祖鳥なんかも同じですね。カブトムシなどは、そのまま羽ばたけば飛べるけど、ゴキブリにはそれができない。なので、コップのような狭くて深い器の底にエサを置き、内側にバターなどを塗って滑るようにすると、いったん入ったゴキブリは出られなくなる。周りは滑って登れないし、底からそのままの体制で飛ぶことができないからである。
食事屋で虫が入っていたというトラブルの定番は、なんと言ってもやっぱりゴキブリでしょう。一般家庭にいる様なでかいやつではなく、小さいチャバネゴキブリがほとんどでしょうが。大阪で仕事をしていた頃、兵庫の住吉のクライアントのところへよく通っていた。そこに、いつもみんなで食べに行くうどん屋があり、うどんとミニ天丼のセットが旨かった。え~と、セットで850円でした。
ある時、うどんをほとんど食べ終わり、汁を飲み干しかけると、そこに小さなチャバネゴキブリが沈んでいた。「あ~~」っと箸でつまみ上げると、同席のみんなは一斉に箸を置いた。「ちょっとちょっと」と事を荒立てないように店の子を呼ぶ。「これ」とゴキブリを指さすと、あわてて奥へ連絡に行った。
そのとき、店がどういう対応をしたのかは全く覚えていないのだが、会計の時。別々に支払いをしていき、自分の番になった。「僕も払うの?」と聞くと、レジの子は再び奥へ。戻ってくると、「今日は結構ですと言うことです。」今日は、って、、、。
カンニング (2003.8.27)
考えてみたら、テストでカンニングというものをしたことがなかった。たしかなかったと思う。たぶん・・。いや、まじめだったというのではなく、勇気と機会がなかったというべきか。
カンニングの方法は、携帯などの通信機を使って外部から連絡をもらうのでもなければ、周りの答案をのぞくか、自分で用意したカンニンググッズを利用するかですね。(もちろん自分が学生の頃は、携帯電話などは未来の絵空事のグッズである。)
周りの答案をのぞこうにも、そんな簡単に見えるものではない。学園ドラマのように、相手が協力してこちら側に近づけてくれて、やっと見える程度でしょう。でもあの方法は、通常では目立ちすぎて不可能でしょうね。
では、ペーパーなどのグッズということになるが、作る課程で覚えてしまうので、実際に使うと言うこともあまりないのでは?それにやはり目立つし、ゲーム感覚のつもりでなければ勇気はかなりいるでしょう。
大学だと、オーソドックスな方法は机に書くというもの。問題や答案用紙をずらした時に、見やすい範囲に鉛筆で書くのですが、まずかなりの学生はこれをやりますね。
自分もこれはやった。でも、書いたもののあまり意味がないと思うので、テスト前には消してしまうが。そもそもバレたときには、0点を取るよりもリスクが大きい。
おまけに、試験官が教室に歩いて入りながら言うのが「机に書いたのは今のうちに消せよ~」である。一斉にこそこそと机に消しゴムを走らせる音がする。お互いに了解しているのだ。通常の大学のテストなんてそんなものだろう。考えてみたら、大学の定期テストで、試験官が教室内を歩くというのは皆無だった。そういえば、カンニング用に用意するところは、見事に出題範囲でない、というのがおおかたの傾向ですね。^^
自分は工学部建築学科だったが、ひとつ上の学年にリビア人留学生が3人いた。彼らも日本人の学生と共に、テスト前に机に書いたりしていた。それを見ていて、彼らの行動を云々するより、わざわざ高いお金を出して日本に来て、こんな馬鹿なことしか学べない日本の大学を、申し訳なく感じたりしましたねえ。
立喰いそば屋で (2003.8.29)
立ち食いそば屋が好きでよく行く。安いからではなく,、結構うまいところが多いからです。もちろん安いという理由も少しはあるけど。ま、うまいというのも、そば通ではないから、自分のレベルでのおいしさですが。でも、東京はあまりいいそば屋というのが、行きやすいところにないような気もする。
一番のお気に入りは、小田急線の駅にあちこちにある「箱根そば」ですね。そばもつゆもうまい。小田急グループの店舗だと思う。こだわりのそば屋をやっている従兄弟もうまいといっているから、確かにうまいのだろう。
先日、とある繁華街(この言葉も古いな;;)にある立ち食いそば屋に入って食べていた。年齢層の若い界隈なので、いわゆるギャル系の客も多い。どこで食べるのか、持ち帰る子たちも多いのだが、いまだにガングロ茶髪にした子たちが、日本そばを食べにくるというのは、なんかいい光景だなと感じていた。
さて、その立ち食いそば屋は、しばらく改装のため閉店していた。新たに開店したばかりだったのだが、次々にそのような若い子たちが持ち帰りで買いに来る。五十も半ばくらいのおっちゃんがお客をさばいているのだが、持ち帰り窓口で注文する子たちは「また始まるの待ってたよぉ。」なんて言いながらニコニコしている。おっちゃんも心なしかデレデレしている。
こういうのを見ると、日本そばが廃れる心配もないのだろうな、と安堵したりする。