2001年から2010年まで9年弱に渡って母上を介護して、その後5年狭山の介護病院でお世話になりました。

結局入院  2010.3.3

 ゆんべはもらったばかりの下剤を飲ませ、今朝はベッドから起こす前に下腹部のマッサージをした。ところがそのマッサージをひどく痛がる「やめろやめろ」と。でも便秘に良いマッサージとして教えてもらったと言っていやがるのをすこし続け、朝まではベッド横に設置してあるポータブルトイレに座らせた。その間もとても痛がっている。 最近は「痛い痛い」と言ってもどこが痛いのか特定しないのでこちらもわからず、自分でもうまく認識はできない。でも今日ははっきりとおなかが痛いという。座らせながら下腹部をマッサージするが、いつもの口癖半分の痛さではなく本当に痛がっているので、まずは#7119へ電話して相談。状況を説明すると、すぐに救急車を呼べという。便秘で救急車を呼ぶとは思わなかった。ま、この時点でこういうことが続くともう自分が世話をする限界を超えてるなと思っていた。

 いつもはかかりつけの三宿病院へ連絡して、受け入れを頼むのだが、今回は隊員にお任せした。古畑病院なら受け入れ可能だが、入院になった場合個室しか空いてないという。「というと差額ベッドですか?いくらの?」と聞くと指を二本立てて「一日二万円です」という。うゎぉ! でも、すぐに受け入れられるのがそこしかないのではしょうがないし、そもそも入院まではいかないだろうと思っていたのでOKした。 ちなみに、この古畑病院は、国道246沿いの三宿近くにあり、「古畑任三郎」の名前の由来になった病院らしい。後から聞いたら「良くない病院だ」と言っている人がいたという話も聞いたが、先生も看護婦もとても良い病院だった。建物は古く、大部屋はベッドを極端に詰め込んで、戦場の病院のようだが。 ちょうど夜勤と日勤の交代申し送りの時間帯で、ついてもすぐに検査は出来ないというタイミングだった。わからないでもないが、一刻一秒を争うときもそうなのか?胴体のCTを撮って詳しく説明してくれた。心配された腸閉塞や腸捻転、どこか腸が破れているなどの事態はなかったが、便が途中で固まったまま詰まっていてガスとともに止まってしまっている。 その映像を見せられる前に院長と思われる最初に応対してくれた先生が「エレベーターに向かいながら「入院だよ」と言った。え!?一日2万円に?何日???;;;; と思ったら、大部屋のベッドに空きがあったらしくそちらへ入れ、しかも一番端の良い場所だった。病院の浴衣式寝間着に看護師が着替えさせているとき、「痛い痛い辞めてください。人を呼びますよ。大声出しますよ。」と母上が大声で言っていると「もう大声出してますよ」と男の看護師も応じる。婦長と思われる小柄のおばさんが「他にも患者さんがいますからね。あまり騒ぐと個室に移ってもらいますよ」と言っているが、そんなことは本人には意味が通じない。そばにいるこちらに脅しているようなもんだ。やめてくれ。 一応強度の便秘も問題なのだが、CTによると胆嚢炎にもなっているのがわかった。もともと胆石もちだったし。脇腹を痛がっていたのは骨折の関係かと思っていたら、胆嚢炎のせいでもあったらしい。ちなみに祖母である母の母は胆管がんで亡くなっている。どうも骨折の快復度とは反比例している痛がり方がおかしいと思っていた。そして脊髄に沿っている動脈についても何か言っていたが、わすれてしまった。もしかすると後ろ向きに転倒したときに問題があったのかもしれない。いずれにしろ説明は丁寧でわかりやすかった。(だけど覚えてないじゃんって?^^;)胆嚢炎は最悪の場合手術になるが、その場合はその方面の専門病院へまわして手術をするという。

 婦長さんから入院案内や持ってくるもののリストの説明などを受ける。なんか口調も説教っぽいしどうなんだろ?と思っていたが、実は細やかないい看護師さんのようだ。でも、今回の一連の件も含め、普段の介護の様子なども細かく聞かれたが、聞くにつれて顔もゆがめ同情も浮かべた顔で、「もう家で見るのは無理よ。預けたら?」と言われた。あのな、どこに預けられるのか教えてもらおうじゃないか。特養はすぐには問題外だし最後の手段である。そこは終の棲家となる。老人介護保険施設もあるが、それは治療中の人や病気を抱えた人は対象外である。あくまで帰宅か特養へ行くための生活の訓練の施設である。だから、入所するとしても体をすべて治してからでないとならない。現実の実態を知らないのかずいぶんと簡単に言ってくれるものである。3ヶ月ごとに病院を転々としろということか? 入院なしに帰ると思ったので、救急車に車イスも積んで持って来ていた。大部屋なので置く場所はなく、持って帰ってほしいという。;;; とにかく必要なものを持って来るべくいったん帰宅する。とちゅうで車イスを置いてきたのを思い出した。でももうすでに家の方が近い。2キロ強の距離なので歩いて帰った。

 朝から何も飲み食いしていなかった。病院に着いてから自販機でコーヒーを一本飲んだだけである。帰ってから、母上を起こす前に用意していた朝のパンとコーヒーを食べたのは昼も近くなっていた。夜になって気づいたが、今日はひげも剃っていなかった。 午後になってから必要なものをそろえ、足りないものは途中のドラッグストアで購入して、今度はタクシーで病院へ。帰りも車イスを持って帰るのでタクシーである。あれだけベッド上で騒いでいた母上は、笑みさえ浮かべて寝入っている。 記録を書いていた看護婦に「なんか薬で寝かせてるんですか?勝手に自然に寝てるんですか?」と聞くと、特に点滴以外はしていないようなので、勝手に寝ているのである。ま、転倒以来うちでも寝かすときはポータブルトイレからお姫様だっこでベッドへ運び「痛い痛い」と言いながらベッドに寝かして、布団をかぶせるとほとんど同時に寝入って静かになる。

 すべての入院手続きも済み、帰ったのはまだ午後早かった。今日は一日がすごく長い。二人分で考えて買ってある野菜なども傷んでしまうし、外食はつかれそうなので、一人分を作って夕食とした。昨日一昨日の方が遙かに振り回された感じで、しかもただでさえうまく飲めない薬も増え、症状も様子を見なければならず、もうこれ以上どうしろというのだ、と途方に暮れていた。それにくらべたら、今日は何があっても病院で対処するのだからかえって気も楽になった気がした。入院=認知症の進行はもうこの際仕方はない。むしろそれらの気づかなかった体の不調が認知症を重く見せていた部分もあるのだから、かえって良かったと思いたい。

また、デイやいろいろなもののキャンセル連絡もあったが、電話連絡したケアマネがそれらをほとんど仕切ってくれたので、こちらも混乱せずにすんだ。ここ一ヶ月、次々に見つかる体の問題が、ようやく全体像を見せた感じで、半ばほっとしたし(こちらも何が何だかわからなかったし、本人にも認識ができなかったし)、母上もきちんと治療がなされ、こちらも休息になり、今日はむしろ最近では良かった日かもしれないと思うのだった。

 先月来依頼のあったイラスト仕事を数件断っていた。とてもそれどころではなかったので。おもしろいもので、半ば安堵してかえってメールを見ると、締め切りに非常に余裕のある、おなじみのところからの依頼が入っていた。これは合間を見ながらやれるので、しっかりと受けた。実にナイスタイミングな依頼メールなのであった。

 

穏やかな朝  2010.3.4

 昨日母上が入院して、1ヶ月あまり毎朝続いていた勤行が突然なくなり、きわめて静かな朝だった。毎朝7時半頃に起こす前に、二人分の朝食(コーヒーとパン類)を用意し、母上の新しいパンツ型紙おむつに尿取りパッドを敷いたものを用意し、あれやこれやと事前準備の上で起こしていた。上体を起こすときから痛がって抵抗し、ポータブルトイレに座らせるのも一苦労。何しろこちらも起きたばかりで体の筋肉がしっかり起きていない。それやこれやで居間まで移動させて顔や歯を磨いてやり、やっと朝食をゆっくりと食べさせて、一段落。そしてポータブルトイレの処理や移動、洗濯などをセットして、さらに音声モニターを居間に移してやっと自分の部屋に戻って一息。その間約1時間である。 それが今朝から突然なくなったので、天国と言えば天国だが、あまりの落差に少々物足りなささえ感じたり。面会に行った以外は全く時間も何も気にすることなく過ごせるという日だったのだが、何となく安心して過ごしていたという感じではなかった。ショートステイに預けた時も時間を気にすることなく過ごせたのだが、今回は先が本当に予想できないからだったのかも。

 病院の面会時間は13時半~20時なので、午後に面会をかねて足りなかったものを持って行った。うちでもそうしているように、うずくまるように布団に顔を埋めて横向きに寝ていた。点滴しながらだったこともあるし、寝ている方が楽だろうからわざわざ起こすことはしない。 もう9日間も便が出ていないだけでなく、腸まで降りてきていないので、それだけでも異常事態である。中で堅くなっていたりするし、どうやって出すのだ?と疑問だったのでナースステーションで聞いてみたら、やはり下剤で下ろすしかないという。普通の人なら次の日に出るものが10日近くも出ないのだから大変なことなのだ。出るのも何日もかけて出すのかと思ったら「出すときはすぐよ」とのこと。そりゃそうか。胆嚢炎の問題もあるが、それ以前にこの異常便秘の方が大問題なので、それが片付いてから胆嚢炎をどうするかを検討するらしい。

 介護を初めて以来、入院というのは数回あるが、こりゃしばらくかかるかな、と思っていたら翌日や数日後には退院ということばかりだった。でもさすがに今回は少々長引きそうである。おそらく本人は、起きたときに夢か現実か混乱しているのだろう。家にいても混乱していたのに、いきなり全く違うところで寝ているのであるから。救急で連れて来られた記憶もないだろうし、そんな認識ももてないはずだし。 脳梗塞で入院していたときのように、入院しながら理学療法士による歩行訓練とかのリハビリをやるわけではないので、ますます立てなくなるのが心配というかやっかいだったり。一通りの治療が終わって、退院が近づいたときに、このまま家で介護を続けられるのかどうかを検討する必要があるのであった。というか、昨日の婦長の意見に限らず、他の人の声でも普通ならもう家で見ていること自体が無理だったようだが。

 昨日あたりから目がかゆくくしゃみも良く出る。花粉症の季節がやってきたようだ。

 

便秘解消  2010.3.7

 入院後一日おきに様子を見に行っているが、今日が3回目。洗濯物(主にタオル類)を持って帰ったり新しいのを補充したりしている。今日初めて目を覚まして起きていた。前回までは丸く胎児に寝ていたが、上を向いて起きていた。やつれたと言うよりも、ボケが進んだような顔つきではあったが、こちらが誰だかわからないという心配は杞憂であった。まぁ、自分がどこにいるのかはわかっていなかったが、最後には病院にいるらしいことは認識できたようだ。 顔を見せると特に驚いた風でもなく、やけに穏やかな顔をしていた。状態がひどくなる前のような冗談も通じるほどに。ナース(病院内のヘルパーさんは「ナース」と呼んでいるので)によると、昨日(一昨日か?)高圧浣腸などを用いて、強制的に排便させたようで、山のようにでたという。レントゲンで確認してもすべて出きったようで、布団をはいでナースがさすったおなかもすっかり平坦になっていた。やっぱり入院前の一番の不安定さの原因は強度の便秘だったようで。本当は胆嚢炎も痛いはずなのに、今日は全然平気な様子だったし。 入院当日でも、体の向きを変えさせるだけでも「痛い痛い」とわめいていたのに、今日はナースが肋骨骨折の胸バンドを着け直すのに体を持ち上げたり向きを変えさせても、何とも言わなかった。先生やナースやヘルパーさんの接し方が良いのか、それともたまたまなのかはわからないが、全体的に安心しきってベッドに横になっている感じであった。居心地が良いのか?^^; 確かに古い病院で狭い部屋に所狭しとベッドを詰め込んでいるが、いやな雰囲気を感じないのである。もっと大病院である三宿病院に入院していたときはもっと陰鬱とした感じで、先生やナースたちもなんとなく・・・・であったのだが。部屋は広かったが古くて、ベッド1つずつをカーテンで仕切って独房のような感じがあったせいもあるかも。今回は、必要なとき以外はカーテンで仕切ることをしないので、妙な不安感をあおらないのかも。

 で、次は胆嚢炎の問題なのだが、ナースはその事については申し送りを受けておらず、次回に説明してくれるという。次回は火曜日午後に行く予定なのであった。

 

え!?退院??  2010.3.9

 一昨日、病状や治療状況などを、今日来たときに教えてくれるとナースが言っていたので、ナースセンターへ行ってみた。ところがそのナースはおらず、だれもそんなことは聞いてない。おいおい。 「午前中に来てもらえれば先生がいるから聞けたんだけどねえ」と階下の受付に電話してもらう。「ラッキーだったわね。先生いるわ。下へ行って待っててね」ということで、下で待つことに。

 先生というのは院長で、俵孝太郎のような先生なのだが「もう大丈夫ですね。いつでも退院できます」 「え?胆嚢炎とかは大丈夫なんですか?」 「それももう問題ないし、胆石もそのままで大丈夫です」 「あまり長く病室にいると(ボケが)進みますから、なるべく早いほうが良いね」 これは早くベッドを開けたいというよりも、本当にそういうことを心配していってくれていた。 「ちょっと(こんなに早く退院するとは思わず)油断していた部分もあるので、2~3日猶予もらって良いですか?」 「あぁ、全然かまいませんよ。」 ということで、木曜日に退院させることにした。

 それからが大変。まずケアマネに連絡を入れる。そして介護度最認定を申請していて、そちらからも日程を聞かれていたので、病院でやることを前提に考えていたし、ケアマネとそちらと交互に連絡である。ケアマネも退院はもっと先だと思って油断していたので、慌てていた。昨日、先を考えて特養の申し込みをするべくいろいろネットでそれぞれの施設を見てみたが、やはりネットではわからないし、そもそも実際に見学に行っても入所するのは自分ではないから、迷いに迷うだろう。 ところが、それどころでもなくなった。とにかく退院に備えねばならない。退院日の介護タクシーの手配。その翌日に診察に行く予定だった認知症外来はキャンセルしていなかったが、介護タクシーはキャンセルしていたので、その復活のお願い。来週も脳外科へ行くので、同じく介護タクシーの予約復活願い。病院の狭い階段の踊り場で、手帳の予定表とにらめっこしながら、いつ何をどうするをケアマネとあれこれ相談。本当に面を食らうとはこんなことか。かといって、入院が長引くと足も弱るし、ボケも進むし、胆嚢炎の手術ともなればまた回復までが大変だと思っていたので、その点はホッとはしたが、一人で過ごすことに慣れてきたし、病院では入れ歯がうまくあわずにペースト状のものを食べさせていたというので、その辺もどうするかまだ見当がつかない。おそらくボケ具合は帰るとすこしは良くなるのは経験上わかっているが、今回もどうかなぁ? ただ、全体に入院前よりはかなり本人の心身の状態は良いようなので、それだけでも救いか。ケアマネの短時間での奮闘のかいもあって、退院後のデイやヘルパーさんなどの体勢も整った。最認定の日もきまり、おそらく今の介護度3よりは重くなるはず。便秘対策も含めて、週一回の訪問看護も来てもらうことになる。

 ここ数日来、家中の片付けと大掃除をしていたので、退院までには間に合いそうである。10数年前になくなった父の服などもかなり残っていて、そういうものもどんどん処分した。要らない家具も退院前日に粗大ゴミに出すので、ぎりぎりセーフである。別にアウトでも問題はないが^^

 

やもめ暮らし最期の夜  2010.3.10

 明日、いよいよ母上が退院するわけだが、カレンダーをよく見たらわずか一週間の入院だった。しかも自分もケアマネも他の人も、もちょっと長くなりそうだと見込んでいた。本当なら一昨日にでもすぐ退院できたのだが、自立・自活できる状態の人が帰ってくるわけではなく、それなりの対応の出来る準備が必要だし、自分も心の準備があるので、院長に待ってもらった。

 入院当初は、救急車を呼ぶまでの毎日が心身ともにハードな介助の日々だったので、いきなり世話の必要がなくなり、少々物足りなさも感じていた。その間に1階のすべてのカーテンやレースの洗濯、家中の要らない服や家具の整理や掃除などもした。起きる時間はいつもと同じ7時半頃。それから、介助の必要がなく自分のことだけをやれば良く、時間はとてもゆっくりと流れていた。 いろんなことを次々とやっているのに、まだこんな朝早い時間、という感じ。ここ数日は、かなりのことを一日にやっていて、こんなにも一日にいろいろなことが出来る時間があるのかと改めて驚いた。それだけ介助に費やす時間が莫大だったということか。

 一昨日とその前に見舞いに行ったときは、母上も心身ともに状態は良さそうだった。ずっとベッドに寝ていたので、足は相当弱っているはずだが、骨折やいろいろな痛みは少なくなったようにみえた。それだけでも介助はしやすくなる。おまけにこれからは訪問看護も週イチで来てもらって、こちらが気にしなければならない負担も減るかと。 ま、とりあえずはなるようになるというかなるようにしかならない、と割り切って明日を待つのだった。最近夜も早くにとても眠たくなる・・・zzzz

 

久々の介護  2010.3.12

 母上は昨日退院してきて、一週間ぶりの介護が再開した。病院ではとても穏やかな表情で、お世話されることにすっかり慣れきっていた。「~~しますよ~」と看護師やヘルパーさんが言うと「はいはい、お願いします」という感じで。

 家に帰ると、また自分のいる場所が一変して落ち着かないのか、一気に疲れモードになり、入院前と変わらないグッタリ状態になった。認知症が不安定だったのは、体の不調だけが原因だったのではないようだ。夜もほとんど食べず、食事の介助もかなり困難だった。

 今朝はパンとコーヒーを完食したが、起こしてから着替えさせて、いろいろな一連の世話をされるのに抵抗を示していた。昨日までの環境の変化についていけていないこともあるだろうし、介助が下手なのもあるのだろう。また入院前にはこちらもイライラして怒鳴ったりしていたから、それに対するものが蓄積しているのもあるだろう。 昨日今日と久々に介護をして、やはりもう家で見るのは無理なのではないかと痛感した。入院前に自分ががんばりすぎていたのもよくわかった。もうプロにお任せする(特養など)方が、母にとっても幸せなのではないかと思えた。 ホームに預けるのは最後の手段で、それが終の棲家になる。いろいろな家族の事情や本人の事情もあるから、一緒くたには出来ないし、わかっているつもりでも、どうしてもホームに預けることに対する罪悪感的なものは持っている。それに出来るだけ家で逝かせてあげたいとも思っていた。 でも、今朝はたとえ何人かの助っ人が家にいたとしても、常に介助できて医療的な処置もすぐに出来るプロの施設にお任せする方がよいのかな、と強く実感したのであった。時々弱気なコメントを書いてはいたが、今回は冷静に考えて介護を続けることの限界を感じた。

 昨日退院して、今日は認知症外来という母にとってはハードなスケジュールだが、昨日久々に帰ってきて少々混乱しているのかな?という印象をさっ引いても、認知症が極度に進んでいるのがわかった。2ヶ月前の転倒以来、厳しい介助と混乱したり奇声を発したりする母だったが、他人がいたり外出先だと一応体裁を取り繕う頭はあった。今日はそれが全くなかった。もうそんな段階ではないようであった。

 心配していた認知症外来だった。とにかく以前受診した認知症外来病院の先生や研修生の意識の低さにトラウマもあり、また良い評判を聞く先生も少なかったから。でも、今日の先生は若いがとても優秀で思いやりもある「当たり」の先生だった。2001年の脳梗塞以来の細かいことを聞かれ、認知症に気づいたときのことや進み具合、最近のことも聞かれ、最新のMRIの画像を見せられての説明も受けた。 脳がかなり萎縮しており、脳梗塞もかなり進行している。脳梗塞はたとえば脳の血管が詰まったりして倒れたりする「出来事」かと思っていたら、じわじわ進行する脳梗塞もあるらしい。記憶を司る海馬も萎縮が見られ、まだ記憶をすこしは保てるが、萎縮は着実に進行している。脳の状態とこちらの普段の生活の中での母の様子などを総合して「これ以上家で見るというのは無理ですね」とのこと。常時の看護体制が必要になってくるため、何人助っ人が同居していようと、もう素人が世話を出来る段階ではなくなってきていると。 今朝もそれを自分で実感したし、信頼できそうな先生にだめ出しされたこともあり、かえって踏ん切りもついた。急遽ケアマネとも連絡して、出来るだけ早く特養の申し込みをして、それまでのつなぎも検討した。 とりあえず、母を起こして生活させることは辞めて、電動ベッドをレンタルして、そこで食事の介助もする方向になった。こちらは出来るだけ自立に迎えるように、起こしてイスに座らせて過ごさせ、食事もさせていたが、本人には苦痛だったのかもしれない。とにかく机に突っ伏してしまうため、食事の時に顔を起こして食べさせようとするだけでも難儀である。朝は蒸しパンとコーヒーを何とか食べられたが、病院から帰って介護食(柔らかく調理してあるレトルト)を食べさせようにも、ただでさえ上記の状態なのに、なかなか飲み込めない、水も飲めない、どうやったらいいのかわからない状態で、こちらも泣きそうになった。 病院では電動ベッドで上半身を起こしてペースト状のものを食べさせていたようだ。で、見舞いに行くたびに母は穏やかな顔をしていた。それが楽だったのだろう。自分が自立できるようにとやっていたことは、自分のエゴだったのかもしれず、それで母にも苦痛を与えていたのかもしれなかった。食べさせている途中の母は、無茶なことをされているという表情で、こちらに一瞬向けた目も正常な意識状態の目ではなかった。 というわけで、特養かつなぎのところに入所できるまで、介護するこちらとされる母と、お互いのため、明日から電動ベッドをレンタルしてやり方を変えることにした。

 ちなみにケアマネに特養は出来るだけ自分の家に近いところの方が良いと言われた。特養入れたらもう終わり、と思っている人が多いが、実はいろんな理由での呼び出しが多く、特養が遠いとそこまで行くのが大変なのだそうだ。なので、遠くのホームを選ぶと結構後で大変な思いをするとか。

 

感謝  2010.3.19

 母上はほぼ寝たきりの状態になっている。電動ベッドをレンタルしているので、食事時にはイスに座るよりもやや後ろに傾斜した位置にして食べさせるし、昨日もデイには行った。でも、普段はイスに座ると座位がとれず頭が机に突っ伏してしまうので、胸も苦しくなり食事も水分もとれなくなってしまう。状態も苦しそうになるので、普段はベッドで寝かせている。それだとほとんど寝入っているが穏やかである。

 先週、訪問美容で久々に髪を切ってもらった。寝かせたまま、時々頭を持ち上げて切ったりするが、今までに見たことのない光景である。美容師さん(男性)は訪問美容だけで食っていると言っていた。人格的にもとても良い人で、気持ちよく刈ってもらっていた。でもかなり腰に来そうな体勢だったなぁ。 「部屋へ入って、(部屋の)周りやお母様を見た瞬間、あぁいいお世話をしてもらっているな、と感じましたよ」と言ってくれた。そのときは自分は特に何も思わなかったが、あとで友人にその話をすると「(一生懸命介護していたのをわかってもらえて)報われたね」と言った。あぁそうか、とそのときに気づいたのであった^^;

 以前から、テレビの音が聞こえやすいように、外付けのスピーカーをベッドの枕元に設置していた。訪問美容の翌日、ヘルパーさんと一緒にやってきた訪問介護部の担当者の方がそれをみて「ここまでしてくれる息子さんっていないですよ」と母上に語っていた。そうなのか?それくらいの工夫は普通かと思ったが、その言葉はうれしかった。 でも、やはりここまで9年もやってこれたのは、支えてくれた介護職関係の方々の助けは大きい。あまり良くない事業所やケアマネに困っている友人もいるが、うちは最高に近いスタッフたちや、デイ、ショートステイのお世話でどれだけ救われたかわからない。本当に感謝である。

 前回も書いたようにさすがに家での介護も限界になってきている。最期まで家で見てあげられなかったのは残念無念だが、「もう今まででも十分やってきたから」と言ってくれる人も多く、我ながら最近の心身のきつさはそれを実感する。 ホームに預けるべく、見学やそれまでのつなぎなどでてんやわんやだが、残り少ない我が家での生活で、思い残すことのないようにするのみである。懸命に真摯に対応してくれた人たちや最期まで見てあげられなかった残念さを思うと、少々ウルウルしそうな感じもあったり。 ま、前回も書いたようにホームに入っても終わりではないのだし、頻繁に面会には行くように努めるつもりではある。次第にこちらが誰だかわからなくなっては行くだろうが。

 

特養申し込み  2010.3.26

 というわけで、一刻も早く特養などの施設入所が必要になった母(というより、自宅での世話が不可能になった自分)だが、本日世田谷区の福祉事業所に、特養の申請書をもらいに行き説明を受けてきた。 もちろんすぐに入れるわけはなく、下手をすると数年の「待ち」になるのでその間を他の方法でやり過ごすのだが、特養以外にもある病院の情報も他のルートから入ってきた。 埼玉にある病院で、通常のように3ヶ月で追い出されることはなく、最期まで看取ってくれるようである。入所ではなく入院になるのだが、もらった資料を見てもただのベッドでの寝たきりになるのではなく、手厚い看護とそれなりのレクリエーションもあり、なかなか良いのではないか?という感じもする。 難点は「遠い」と言うことである。何しろ埼玉である。ここから電車だけでも1時間以上、さらにバスやタクシーを乗り継いで行くのだ。特養の場合は世田谷区内を希望するので週一か悪くても2週に一回は面会などにも行くつもりだったが、埼玉ではそれほどしょっちゅうというわけにもいかないだろう。 でもなんとか2週に一度くらいは行けるだろうし、とにかく病院である。療養には最適だしとっさの時も心強い。ここもありかなぁ?と悩み中。。。。

 

介護食  2010.4.2

 ここ数ヶ月で状態の激変した母上であるが、食事も自分ではとれなくなり、またそれまで普通の食事を食べていたのだが、嚥下や咀嚼にも問題が出てきたことから、いわゆる「介護食」を食べさせる必要に迫られたのだった。
 元々料理は得意で好きだし、特に老人食を作る必要もなく同じものを食べていたので何も問題はなかった。そこへ来て、ただでさえ状態急変で生活のすべてに介助が必要になりてんやわんやどころではないのに、料理にまで気を遣わねばならなくなったのでまいった。介護用品屋などにはレトルトでの介護食というのは売っている。その人の食べられるレベルによって、柔らかくしてあるものから完全なペースト状態のものまで何段階かになっている。一食分の量は非常に少ない。まぁそれほど食べなくなったのでそれでも良いのだが、軽くつまんで食べてみたところ味がめちゃ薄い。おそらく塩分控えめにしたりなどをしているのだろう。うちは今までそんなことは全くせず、毎日の料理に変化やバランスをつけるくらいのものだった。
 しかし、咀嚼が満足に出来ず嚥下にも多少の困難を抱えるようになり、そうも言っていられなくなった。かといっておかゆなどは作ったこともない。おかずにいたっては言わずもがなである。

 おかゆは一旦炊いたご飯を煮ることで簡単にできることがわかったし、混ぜるものでバリエーションも増えた。なんとおかゆでのチャーハンも作ったほどである^^。どう煮るとおかゆチャーハンになるのだ?と思うだろう。チャーハンのポイントは香ばしさにもある。だからまず具材を細かくしてそれをあらかじめ炒めておく(卵も)。そしておかゆが煮上がる頃に混ぜ合わせて調味料で味を調整してみたら、見事に嚥下に支障を及ぼさない、とろみのあるおかゆチャーハンとなった。元々料理が好きだったので、慣れてくると介護食の工夫もそれはそれでおもしろいものである。ただ、自分の食事と介護食の2種類を短時間で作るのが大変なくらいである。
 時々ツレが作って食べさせてくれるのだが、どうもこちらが作ったものの方がよく食べるらしい。それは極力いつも食べていたものと変わらない味のものを作るようにしているからなのだろう。最近は2種類を作るのではなく、同じものを作ってから一方を介護食になるようにしたり、作っている途中で仕上げを分けたりする。なので基本的には同じ具材の同じ味のものを食べている。
 今夜などはなんときんぴらゴボウを食べさせたのだった。一旦普通にできあがったものを刻んで、少々出汁を加えてとろみをつけたもので、味はほとんど変わらない。先日は筑前煮を食べさせた。どちらも自分で食べられたときは好んで食べていたものである。
 ヘルパーさんやツレは、誤嚥が怖いから自分のような冒険は決してしない。ちょっとむせるだけでひやひやものなのである。しかし聞いたところでは、誤嚥というのは胃瘻と言って胃に穴を開けて栄養をとっている人でも起こすらしい。食道まで逆流したものが気管に入ってしまうのだ。また食事をしなくてもつばを飲み込んだときに誤嚥を起こすことだってある。そう考えると食事に気を遣うのはもちろんなのだがきりがなくなってくるような。

 

入院 そして 感謝  2010.4.13

 先日書いた ように、特養か病院かで迷ったが、病院に入所(正しくは病院だから入院だが)させることにした。病院と言っても普通の病院とは違い「指定介護療養型医療施設」といい、通常の病院のように3ヶ月くらいで追い出されることもなく最期まで看取ってくれる病院である。

 当初の予定では、特養待ちのためにとりあえず安い有料ホームでしのぐ計画だったが、有料ホーム入所間際にここの情報を知り、急いで見学に行ったのである。電話応対も、受付も職員さんも看護師さんも、みんな『普通に』良い感じだった。特養には不安もあった。 有料と違い、待遇も不安定なために人員の入れ替わりも激しくパートの職員さんも多い。それに厚労省が24年からヘルパーを国家資格にするという愚行も行われようとしている。今までヘルパーさんでやってた人も、経験は考慮されずに一律に試験を課して、合格しなければヘルパーの資格はとれないというのである。高齢のヘルパーが多い現状からして、そんなことをしたら一気にヘルパーさんの数は減って、現場は地獄の様相になるのは目に見えている。 この病院なら介護してくれるのはすべて看護師さんなのでその心配もないし(実際は看護師+ヘルパー)、何より、ホームを転々としたあげく、そんなに遠くない将来に状態が悪くなって入院し、特養を出なければならないのは目に見えている。(3ヶ月以上の入院で、ホームは強制退所となる)。それならば最初から病院の方がよいような気もしたのだ。 先日ひどい便秘で入院したときも、入院中は実に穏やかな表情をしていた。お世話されることにも慣れきっていたのもあるだろうが、何かしら病院にいることの安心感もあったのかもしれない。部屋も大人数部屋で常に人の気配がしていたのも良かったのだろう。特養などに行ったらまず個室は間違いなく、人手が足りないから、うちのように半ば寝たきりの人はほぼ独房状態になってしまうと言う関係者もいる。

 そういうあれやこれやを考慮の末、狭山にあるその医療施設を選んだのである。見学すると、後日先生との面談(家族のみ)があり、入院についての判断が下される。 先週の土曜日に面談に行った。面談したのは副院長で、親身になってこちらの介護状況や母の状態を聞いてくれた。在宅での介護の大変さを良く理解してくれていた。受け入れはOKとなり、あとはいつになるかということだったが、それははっきりとは言えないと言うことだった。 待ち状態の人はそれほどいないのだが、突然の救急入院がドカッと来ることもあるし、だれがいつ退院(死亡を含む)かははっきりとはわからないから、下手に期待を抱かせることは言わなかったのだろう。でも、先生の口ぶりやその後の職員さんの話しぶりからして、早ければ数週間、遅くとも数ヶ月かと思われた。ちなみに、割合早く入院の順番が回ってくるので、特養待ちの人も多数入院しているとのこと。 で、とりあえず数々の書類を持ち帰り、まずは入院申請書をファックス。そしていろいろな書類を書いていく。いきなり来週や再来週と言うことはないと思っていたけど、目先がみえてきて気持ちにも余裕が出てきた。長くても数ヶ月だろうと思うと、きつい介助や介護などもがんばれる余裕も出てきた。

 と、二日後の月曜の夕方に病院から電話が入った。なにか必要事項の説明かと思った。 するとなんと!「ベッドが空きましたので、すぐに入院ができます。どうされますか?」という。えっえ~~~!!! もう!? もし、もし当初の予定通り、有料ホームで特養の空きを待つのだったら、先週には入所していたはずなのだけど、そのときはかなり心の準備も出来ていた。でも、まさかまさかのいきなりの電話である。実は、面談に行ったことまでの事を書くつもりでいたのだが、それよりも光よりも早く入院許可が下りたのである。入院する人は他の病院や施設からの転院が多く「在宅介護の方が大変なので、院長がそちらを最優先にしました」との有り難いお言葉ではあるが。 「突然のお知らせでお返事にも困ると思いますので、また明日ご連絡いたします。そのときにお返事をお願いいたします」と、いつもの通り『普通に』気遣いのある応対だった。さっきから『普通に』というのは、きわめて良い意味で書いている。 さぁたいへん!まずケアマネに連絡。そして、介護食や口腔内ケアの用品を大量に注文してしまった用品部にもキャンセルの連絡。ケアマネは「断らない方が良い」ということだった。それはそうだろう。ここで断ると、まだ余裕があるのだと思われて、次にいつ順番を回してくれるかわからない。なので、15日に入院させることに決めた。先生の手術などの処置が入ったため、15日ではなく16日にしてくれということで、最終的には16日になったのだが。

 とうとう、これで9年に及んだ介護も終わることになる。何度もこの日を待ちわびた。でも、いざそうなってみると、なんかやり残した感じがする。本当にこれで良かったのか?と言う気もする。亡くなったのならそれはそれで納得して天に送り出すだろう。でも、生きたまま自分がなぜ入院するのかわからない状態で送り出す事に多少の罪悪感もある。最初の予定通り有料ホームへ送り出したのなら、それ相応の準備をしていたので、ある程度吹っ切れていたと思うが、今回は予想だにしないほど急な出来事なので戸惑いが大きい。なんとなく介護を放棄するような感覚まである。 本人には「家にいても良くならないから、今度入院するんだよ。」と言うと「誰が入院するの?あんたかい?」などと言ったりしている^^; 自分のことだとわかっても、それほどの抵抗感もないようである。感情の起伏も少なくなっているのだろう。

 でも自分が今までの事情を知る第三者なら「もうさんざん出来る限り以上の事をしてあげたんだし、これ以上は限界だから後はプロにまかせなよ」と言うだろう。確かに、今はなんとか世話が出来ても、この後は下り坂を転げ落ちるように介護が困難になっていくのは医者も認めていた。おそらく、16日に連れて行って帰ると、それなりに自分は落ち着きを取り戻していると思う。 病院に捨ててきたわけではなく、これからはほぼ毎週くらいは面会に行くことになるだろうし。場合によっては最期はうちに連れ帰って看取るかもしれない。(それ以外でうちへ再び戻ってくることはないだろう) ちろん点滴などの最低限の処置は行うが。

 なんとなく中途半端な気持ちで送り出す事も心残りではあるが、それと同じくらいに、今までうちのために親身になって協力してくれた介護事業所の方たちとのおつきあいがなくなるのも寂しい思いがある。他の事業所を利用している人の話を聞いても、これだけうちのために細かいところまで無理を利かせて仕事以上の思いでやっていただいたという話は聞かない。昨日は急な注文キャンセルで電話をした用品部の方が「私などほんとに力にもなれなくて」というので「いえいえ、本当に今まで助かりました」とお礼を言いながら目がウルウルしてしまった。本当に目一杯無理を通してでも走り回ってくれた人なのである。 突然で、お礼も言えぬままに終わってしまうヘルパーさんや職員の方も多い。この場を借りて(読んでないと思うが^^;)お礼を申し上げまする。 介護は自分なりに大変で長かったけど、いろんな人に協力をしてもらった自分はきわめて恵まれた境遇だったと思う。と言うわけで、入院した後の話はまた、つづく・・・

 

在宅介護が終わって…  2010.4.16

 本日《2010年4月16日(金)》、約9年に及んだ介護生活が終わった。と言っても母上が亡くなったわけではない。母の状態がこれ以上の素人による自宅介護が不可能な状態となり、施設に入ってもらったのである。通常は特養を申し込んで入れるのが多いパターンで、入所待ちの人数が膨大なため、なかなか順番が回ってこない。
 うちも特養を申請するつもりでいた。順番が回ってくるまで数ヶ月ならかなり運が良く、数年というのはざらである。それではこちらがもたないので、順番が回ってくるまで安い有料ホームでしのぐという手で行くつもりであったが、そちらの入所が決まって契約寸前のところで、指定介護療養型医療施設の情報を知った(狭山博愛病院)。平たく言えば看取り型病院である。通常の病院と違い、数ヶ月で追い出されることはなく、特養のようなお世話を受けつつ最期までいることの出来る病院である。介護度1~5の患者が対象で、介護保険での利用になる。医者による治療ももちろんあるが、医療報酬ではなく介護保険である(残念ながら徘徊が顕著な方には向かない)。もちろん病院なので、ホームのような部屋ではなく病室である。でもうちの母親の場合は、その方が良いのではないかと感じた。厚労省の机上の論理によるお達しにより、特養などのホームは個室が原則になった。プライバシーの問題を一番に考慮しているらしい。でも少なくとも寝たきりに近い状態になった母では、特養で個室では独房暮らし同然になってしまう。それに、有料→特養と移っても、じきに入院しなければならない状態になるのは目に見えており、それなら最初から病院でいいのではないか、とも思ったのである。有料や特養ホームの場合、3ヶ月以上の入院だと退所となる。この博愛病院の場合、別の病院への入院が必要になっても、戻ってくるつもりがあれば何ヶ月後であろうが受け入れてくれる。一旦受け入れたら最期までお世話をするのである。

 とにかく見学に行ってみた。入り口を見て一瞬閉鎖寸前の病院なのか?と引いてしまった。余計な廊下の電気などを消しているから、全体に暗いのである。そして外来患者が待っていないので寂しく感じる。基本的に入院施設なので、外来患者はほとんど来ないからなのだが。
 でも見学の申し込みの電話から始まって、当日の見学、そして働いている看護師や職員、ヘルパーさん等々が皆とても普通に良い感じなのだった。病院は決して新しくきれいとは言い難い。でもここなら大丈夫だろうという感じがした。それで入院申し込みをし、後日先生との面談(家族のみ)となった。
 料ホームは入所と同時に契約することになっていた。ここはごまかしてもしょうがないので、ホームをドタキャンすることにした。(病院に入院できる確証はなかったが)
 紹介してくれた業者の方とホームの営業の方に丁寧にわびの電話を入れた。どちらも全く気にしないで欲しいという、暖かい言葉をいただいた。ホームにキャンセル料を払うと言っても「そのようなシステム(キャンセル料など)はありませんし、お母様に良いように選択していただければその方が良いので、一切気にしないでください」とのことだった。

 さて、その次の土曜日に面談に行った。副院長に懇切丁寧に状況を聞いていただいた。感触としては早ければ数週間、遅くても数ヶ月以内と思われたが、あまりに不意を突かれたことに二日後の月曜に入院OKの電話が来た。目先がみえてきたので、長くても数ヶ月でもがんばれそうな気がしたところだったので、本当に面食らった。それまでは一日でも早く終わって欲しい介護生活だったが、がんばろうと思った矢先だっただけに、寂しい気持ちもあった。
 でも断る理由はないし、断るべきでもない。それにケアマネに何度も言われたことだが、どこかで吹っ切らなければいけない。今でもギリギリの状態だから、それ以上は下手をすると行く先は介護殺人とかの犯罪になりかねない。自分が事情をよく知った第三者なら「もう十分看たんだしこれ以上は無理だから、後はプロにまかせなよ。」と言うだろう。それはよくわかっているのだけど、あまりに突然で心の準備がまるっきり出来ていないので、なんだか介護放棄して逃げるような一種の罪悪感さえ感じたのである。
 ま、でもそんなことは言っていられないので、急いで入院の準備である。ホームへ入るのとは違って、あくまで入院なので荷物は最小限。テレビは必要な人のみ持ち込み可なので、ネットで適当なサイズのものを買って置いたのがうまい具合に届いた。パジャマの下はTシャツだったが、病院では前開き式が良いのでそれも急いで注文したら前日に届いた。いつもお世話になっている介護タクシーさん(「世田谷区代田の「とのいけタクシー」さん。必要な方は是非おすすめします。)にも、難しい時間調整をしていただいて予約も取れた。

 いよいよ16日朝になった。いつもより30分ほど早く行動を起こし、朝食や着替えをさせ、ちょうど上着を着せているところでタクシーが来た。隣に住む叔母も見送りに来て8時半に出発となった。リクライニング式の車イスでないと座れないため、タクシーのとのいけさんにリクライニング式を借り、やや倒さないと車に入らないので、後ろ向きでの乗り込みとなった。僕の座るところも後ろ向きにしなければならず、二人して後ろ向きでの出発となった。

 練馬インターから川越インターまで高速を使い、家から都合1時間半弱での到着となった。母はすぐにストレッチに乗せられ、レントゲンを撮ったり簡単な検査に連れて行かれた。その間に必要書類などの手続き。そして入る部屋の4階で、看護師や栄養士、医師などとの話し合いが行われ、一通りのことが終わって、母の昼食となった。
 部屋は3人部屋でナースステーションの前。基本的に必要なとき以外はカーテンで区切ることをしないし、人の気配も常にあるし、個室ではないし良かったと思う。
 最近は感情の起伏も平坦になってきて、以前のような妙に不安そうな感覚もなくなっていた母だったが、さすがにこの日はみんなの様子も微妙に違っていたし、ベッドに落ち着いてからも(もちろんいきなり知らないところに連れて来られたこともあって)少々不安げな表情であった。前日までは「家にいても良くならないから、明後日から入院するんだよ」と言っても「誰が?あんたが入院するのかぃ?」などと言い、自分のことだとわかっても「あぁそうかい」という表情だったが。

 とりあえずテレビも設置して、必要なものもすべて置き、ベッド脇のみえるところに「忘れないように」僕らの写真(母と僕と妻)を合成して一緒に写っているようにして名前も入れて貼っておいた。
 「じゃまた来週くるからね」という言葉になんと言ったか忘れたが、やはり不安げな表情だった。

 これで9年に及んだ介護生活が終わった。何年もこの日を待ちわびた。ただ、介護が終わるのは母が亡くなるときだと思っていた。二ヶ月前までは施設に預ける状態を想像も想定もしていなかった。だから、お互いのために早く穏やかに逝ってほしいと思っていた。介護ストレスのためもあったし、ニュースで介護殺人などの報道があると、いつ自分がそうなってもおかしくないと実感もしていたからでもある。でも預けることが決まってからは、穏やかに天寿を全うして欲しいと思うようになった。もう自分が毎日介護しなくて済むから、という短絡的な気持ちからではない。
 特にこの数ヶ月は怒濤の展開と激変だったので、ポッカリと穴が空いた感覚がある。これはケアマネや訪問介護部(ヘルパーさんを派遣する部門)の方も言っていた。寂しい気持ちもあるが、やはり母がかわいそうという気持ちの方が強いかな。これからは看護師さんたちがやさしくお世話をしてくれるのを願うばかりである。場所は西武線の新狭山駅からすぐで、家から一時間半はかからない。なので毎週くらいは会いに行ってあげられそうである。
 寂しい気持ちの1つには、いままでさんざんお世話になった、特にこの数ヶ月には本当に親身に一生懸命関わって協力してくれた福祉事務所(「やさしい手」)の方々との関わりが終わってしまうことの名残惜しさや、急に入院になったために、電話でしかお礼を言えなかったヘルパーさんと会えなくなる寂しさもある。最初から9年、最後まで通ってくれたヘルパーさんである。
 昨年末からはショートステイに、最後の数ヶ月はデイに通っていたが、そこでも細やかにお世話をしてもらい感謝に堪えない。

 ヘルパーさんをやっている人の中には、自分の親をちゃんと介護してやれなかったとか、介護中にたくさんの方のお世話になってその恩返しをしたい、という人も多かった。その気持ちは今の自分にはとてもよくわかる。
 ヘルパーの資格を取って福祉の仕事をしてみようとかいう考えはないが、何か出来ることがあったら是非協力をしたいという気持ちである。

 自宅介護は終わっても、まだ母との関わりが終わったわけではなく、またいろんなことがあるだろう。でもとりあえず、今までお世話になった方々にはこの場を借りてお礼を申し上げたい。

 病院へ無事入所したことをケアマネにメールすると、その夜に返信が来た。本当に賢明に親身に協力していただいたケアマネで、こちらの状況をよく知っていただけにこのときのケアマネの言葉はなによりのねぎらいのメールだった。



 

最初の面会  2010.4.23

 というわけで昨日、母の入所後初めての面会に行ってきました。何度もくどく書いているが、一応病院なので入院なのだが、一時的な入院ではなく特養に入ったと同じ感覚なので入所と書く方がしっくり来るのである。 冬に逆戻りしたような天候の中、新狭山の駅はこちらよりもちょっと寒かったような感じがする。「狭山」の病院に入ったというと皆、相当遠くの病院で周りは自然でいっぱいだろうと言う人が多い。ところが狭山も広ぅござんして、新狭山の駅周辺はロッテやホンダの工場もあり、マンションや民家もある普通の市街なのである。距離も高田馬場で西武新宿線に乗り換えて行っているが、高田馬場から50分程度。

 さて、受付で面会の署名を書き、バッジをもらってつける。母の居る4階のナースステーションに署名を書いた紙の写しを出して病室へ。先週入ったベッドの辺りからおじさんのうめき声がする!「へ?」と思っていると、ナースさんが「あ、奥へ移ったわよ」と同じ部屋の窓際へ移ったことを知った。部屋はナースステーションの真ん前なので、重篤な患者や救急で入った人などが入ることが多く、うちはステーションからは死角になる部屋の隅のベッドに移っていた。 一週間ぶりに会った母はぐっすり寝ていた。呼びかけても全く起きないほど寝ている。重症の患者ではないので揺り起こすと、それなりの反応は示すが、ちゃんと起きることもなく重度の呆けのような感じだった。生活場所を変えたのだから、また一気かそれなりに認知症が進むのはわかっていた。でもこれほどに?とやや呆然としてしまった。 しかしナースさんによると、最近昼はあまり反応が良くなく、夜になるとよくしゃべるという。すこし昼夜逆転しているようなのだ。それに後になって腑に落ちたが、うちでも入所前は、食事途中から眠気を催してその後はしばらく寝ていた。自分が面会に行ったのは昼食が終わった直後なので、なおさら眠かったのだろう。家ではコーヒー牛乳が好きだったので、新狭山の駅前のコンビニでブリックパックのコーヒー牛乳を買って飲ませようと思っていた。しかし起きないのでストローをくわえさせても、ほとんど飲むことがなかった。本当にほとんど起きることを拒否している感じの状態であった。

 2時になると5階の大食堂ホールでボランティアの音楽会があるということだった。「連れて行かれますか?」ということで、是非行かせることに。ただあいにくリクライニング車イスが空いていなくて普通の車イスしかないので、なんと寝ている電動ベッドでそのまま行くことに。写真の右下に写っているのがベッドの端である。

 音楽会は「コーラス虹」という女性コーラスグループで、歌に会わせて手話も駆使したりする。ハンドベルによる演奏も行われた。唱歌や誰でも知っている懐かしい曲や、新しいところでは「涙そうそう」などが歌われたり演奏されたりした。母上はほとんど寝ている。おそらく聞こえてはいるのだろうけど、寝ている。拍手の時に起こしてみるが「え~!?」と素っ頓狂な声をあげるだけであった^^; コンサートは三時に終わり、部屋に戻ってのおやつタイムである。うちは桃ゼリーが配られた。当然寝ているので食べようとはしない。ひとくちひとくちゼリーをとっては、まず下唇に押し当てて口に入れば、条件反射のようにすすり飲み込む。スプーンを下唇にあてると口を開くというのは、介護食の本で知ったやり方だった。どうにかこうにか無理矢理に完食をさせて、もうこれ以上は起きる気配もないので帰ることに。やはりいっそうひどくぼけてしまったというよりは、ひどく眠かったのだろうという印象。もちろん生活環境が変わったので、入院してから認知症は進んだとは思うが。

 音楽会が始まる前、ナースステーションに寄っていると、面談してくれた副院長(女医)が来た。あまりに入院許可が早かったので驚いたという話しをすると、待機している人は何人もいるがすべて他の病院からの転院希望で、在宅はうちだけだったようだ。在宅が一番大変だというので、ベッドが空いたときにうちを優先してくれたという。母の状態などに関しても「長い目で見てあげてね」と。 初めての面会でどうなっているかがとても不安だった。「帰りたい」とか病院にいることに否定的な感情を持つことはないとは思っていたが、もしそう表現されたらどうしようと。どうしようもないのだが。特養よりもこの病院でお世話してもらう方が母上にとって良いと自分一人で判断したのだが、それが正解かどうかはこの先もわからないだろう。両方に入れて比較することは出来ないのだから。でも、9年看てきて最後にさんざん考えてこれがよかれと思って判断したので、それで良かったと思うしかないのである。まだ面会は1回だけなので、これから毎週行くことにしているが、それこそ長い目で見てつきあっていくしかないのであった。

 病院には先生が点在している他に、看護師やヘルパーさんのような方たちがお世話のために働き回っていた。誰もが必ず挨拶をしてくれる。話すときは笑顔で話し、お世話も愛情を持ってやっているのがよくわかる。それを見ただけでも、今はやはりこれで良かったのだろうと思っている。

 

在宅介護が終わって…2  2010.4.24

 在宅介護が終わって、多くの人に「顔が穏やかになった」と言われた。そんなに険しい顔してたんか?^^;;
 利用していた介護事業所でもそのような話しがあったらしい。というか、母上の状態が激変して一気に在宅介護の大変さが増して、担当者たちがかなり心配してくれていたようである。

 変わったことと言えば一番感じるのは、とにかく時間があるということ。よくあるように、急に楽になったので何をして良いのかわからないくらいに拍子抜けしているということはない。やりたいことややらねばならないことはたくさんある。でも、外出する時間や家での作業時間の限られていた頃や、またこの数ヶ月は全く母や母に関することにかかりきりだったので、介護が終わったらものすごく時間があるのである。何かをやっていて、かなりやった感じなのに時計を見たらまだ午前の早い時間だったりしていつも驚く。外出しても、以前はだいたい2時前には家に帰っていなくてはならなかったので、ものすごく時間にゆとりを感じる。長年、そしてこの数ヶ月の疲れがたまっているのか、眠い時間が多い。以前なら寝付きも悪かったし、喫茶などで一服するときもほとんど本を読んでいた。今は割合すぐに寝付くし、本を読んでもそれほどは読めず眠くなって寝てしまうことが多い。もちろんうたた寝程度だけど。
 先日、介護病院へ入院後初めての面会へ行ったときは、母は寝ていた。起こしてもすぐに寝てしまうほどほとんど寝ていた。認知症が一層ひどくなったのかと思ったほど寝ていた。今はどちらも眠い時期だったりして^^。

 

2度目の面会・安堵  2010.4.29

 今日は2度目の面会に出向いたのだった。先週ほとんど寝たような状態だったので、病院へ移ってどんな状態になったのかがまだよくわからなかった。たまたま本当に眠すぎただけだったのか、やはり環境を大きく変えられて認知症が進んだのか、先週に会ったことを覚えてないはずだから、2週間ぶりになりもしやこちらの顔も覚えてない状態かもしれない。特養など他の施設ではなく病院へ入れたことが正しかったのか、よかれと思って判断したことではあっても、本当に良かったのか?全く自信はなかったので、意外に9年間の介護中はなかったことだが、やや胃が痛いような一週間だった。

 本日は黄金週間の初日。病院は休みである。先生はすべて休みで職員などもかなりが休んでいる。でも面会は年中無休だし、もちろん看護師さんたちもそれなりにいる。受付の部屋にいたのは、一番最初に電話の問い合わせをしたときに応対して、見学の時にも連れ回ってくれた女性だった。「こんにちは~、面会ご苦労様です」と相変わらずの笑顔で迎えてくれた。 面会受付をすませて病室へ行くと、意外にも母上は起きていた。ちなみに先週は昼食直後の時間に行ったために眠かったのも重なってたのかもしれないので、今回は2時頃に行った。昼食からはだいぶ経っていておやつは1時間後である。寝ていたとしても、起こせばそれなりに起きると思ったのだ。それにどの時間帯に行くとどういう状態なのかも試してみたかったのだった。 「おや、起きてたかぃ。先週来たときは大イビキかいてたんだよ。」と言うと、こちらの顔を見て「はっは」と柔らかく笑った。「は」か「ふ」か「ほ」か、どれで表現したらよいのかわからない発音での「はっは」である。どうやらこちらが誰だか認識できているようだ。会話のようなそうでないような話しをしてみると、かなりリラックスしている。入院に連れて行った日は不安そうだったし、先週はあんな状態だったが、それ以前の家でリラックスしている状態とほぼ同じである。意識レベル(?)も。 看護師さんに聞いてリクライニング車イスを貸してもらい、ナースステーションで外出許可を書いて散歩に連れ出した。入院以来の野外だからほぼ2週間ぶりの娑婆の空気である。ナースステーションで年長の看護師さんにどこまで連れて行くのか聞かれ、出来れば病院の敷地内にして欲しいように言われた。病院前の通りは歩道が狭く、大型車の通行が多くて危険だからだ。それでも、「もうちょっと前だったら○○あたりで桜が満開だったんだけどねぇ。」と言う。「あぁ、その頃はまだ病院に入ってませんでしたから」(皆、小爆笑) ベッドから車イスに移すのは家でも慣れていたが、看護師さんが心配して休日で人手がないのに二人も手伝いに来てくれた。

 結局通りからすぐに病院の裏側に折れて畑の方へ行くことを伝えて旅立った。昨日までの寒くて不安定な天気から一転、午前は天気雨で風も強かったが、その頃には穏やかに晴れて暖かかった。畑は作付け前の状態でそれほど大きなものではなく、すぐに古い人家がいくつかあった。その中に満開の八重桜があった。ややイスを倒して見上げやすくして見せてみる。 そのほかにも小さな神社や静かな住宅地があり、やがて大通りに出た。結局歩道が車イスやっと一台が通れる歩道の通りをずっと病院まで進み、病院の周りを大きく一周してきた。久々の表で暖かかったので本人も気持ちよかったようである。

 病院から出るときはナースステーションからも受付のおねいさんからも「行ってらっしゃ~い」の声がかかり、帰ってくると「おかえりなさ~い。気持ちよかったでしょう。」と声がかかる。ベッドへ戻るとしばらくしてから紙おむつの交換で、看護師二人が笑顔で話しかけながら交換をしている。「お散歩よかったわねえ」とかいろいろ笑いながら話しかけて、家に居たときのようにリラックスして安心した顔でベッドに居た理由がよくわかった。

 今日の様子を見て、本当に安堵した。やっぱり自分の選択は間違ってはいなかったと納得できたし、自分の安心のことよりも母上が納得して暮らしているようなのが確認できたのがなによりだった。これで次回から、もし調子の悪そうなときでも「今日は調子がわるいんだな」とこちらも落ち着いて判断ができる。 病院を出たのが4時過ぎだったので、新宿辺りへ戻ったのは6時過ぎだった。結構疲れた感じはするのだが、それよりも1月から始まった母上の状態激変からのてんやわんやの日々から始まって、ようやく良い状態での一区切りがつけられた気がした。 これから先、何年病院での生活が続くかはわからないが、少なくとも安心してお任せして、自分は自分の生活のペースをすこしずつでも立て直すことができる精神的なゆとりもできたのだった。

 「また来週来るからね」と言うと「そんなにしょっちゅう来るのかぃ?」と母上はのたまわった^^;。でも、自分は家に居るのではなく入院していて、家族である僕が時々面会にやってきているというのは十分認識できている(のかな?)。それでも病院で暮らしていることに対して不安感はもっておらず、それなりに満足しているということなんだな、と帰ってから改めて思った。

母上の介護の日々4< エッセイメニュー >母上の介護の日々6