伊能忠敬

これは2024年「建設技術展関東」にて建築・土木に詳しいイラストレーター5人が出品した中の私の出品物です。
このイラスト展は今年で三回目で今回のテーマは「土木偉人」ということで、偉人候補の中から私は、初めて実測による日本地図を作成した伊能忠敬を取り上げました。
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『200年前に“実測”による正確な日本地図を作った伊能忠敬』

伊能忠敬(いのう・ただたか:1745-1818)
17歳で伊能家の婿養子となった忠敬は伊能家の家業を発展させ、飢餓の際は困窮者に食料を無料配布するなどして佐原地区から飢餓者を出さなかった。
それにより領主から名字帯刀を許され、後には村方後見にまでなる。
幼少より学問が好きで家業を長男に譲り50歳で江戸に悲願の学問修業に出る。
19歳年下の天文学者高橋至時の弟子となり、星の観測や暦学を身につける。
当時地球が球体であることは知られていたが正確な大きさが不明で、それを知るには緯度一度の数値を知ることが必要だった。
その頃(鎖国期)蝦夷地に外国船が頻繁に現れるようになったため、蝦夷の地図が必要となり、忠敬が蝦夷地測量を行うことになった。
その時の測量(歩測)で、フランスの著名な天文学者の数値と一致する緯度1度を算出した。
そこから始まって何回にも分けて日本全国の測量が行われて、後の実測による「大日本沿海輿地全図」が作られることになる。
伊能忠敬自身の一番の目的は地球の大きさを知ることであった。


●地図の完成3年前に伊能は亡くなっていた●
地図の完成を見ることも無く、伊能忠敬は地図完成の3年前に73歳で亡くなっている。
全国地図の測量と作成には幕府から莫大な費用を捻出させていたが、伊能の死を隠して高橋至時の息子である高橋景保が先頭に立って弟子達が必死に作り上げた。
高橋たちは「伊能は生きていて測量の旅にも出ている」と偽っていたので、完成した地図を将軍に上納するときは断罪覚悟の上であった。
完成した地図は、より先進的であるとされた海外の国々が驚嘆する正確さで、日本は簡単に侵略できない凄い国だと認識されることに大いに役立っていた。
忠敬の死後、地図を完成させて上納するまでは、映画「大河への道」
(立川志の輔原作・中井貴一主演)で観ることが出来る。

完成した地図は現在の地図と比較しても、東西方向にズレはあるものの沿岸の形はほぼ一致するという精巧さである。
東西方向のズレは緯度が天体観測で比較的容易に調べられたのに対し、経度は地点間の時間の差を測る必要があり、正確な時計がない当時は観測が難しかった。
計算で求めた経線が地図上に引かれたため、実測との間にずれが生じたとみられる。
(グレーが伊能地図・赤が実際の海岸線)



●伊能より42年前に日本地図を作っていた長久保赤水●
長久保赤水(ながくぼ・せきすい:1717-1801)
江戸時代中期の地理学者、儒学者で現在の茨城県高萩市出身。
赤水は一般にはあまり知られていないが、伊能よりも42年も早く日本全土の地図を作成している。(「蝦夷(北海道)は「蝦夷之図」として別版になっている)
「実測」による正確な日本地図を作ったのは伊能忠敬で、外国からの侵略に備えるためにも必要な地形図だが、正確な地形図が国外へ流出しないよう庶民が目にすることは出来なかった。
赤水の日本地図は山や河川等内陸の情報が豊富で、城下町・古戦場などがわかりやすく示され、いわゆる「ガイドマップ」の利便性に加え、火山の記載もあり防災の意識もあったと思われる。
赤水図は広く庶民に普及して江戸末期まで約100年間のベストセラーとなった。精密度においては伊能図と遜色がなく、利便性と携帯性を重要視していた。(吉田松陰も愛用し、伊能忠敬も測量の際に携帯していた)
また茨城大歴史地理学の小野寺淳教授は「赤水図の重要な点は、伊能忠敬よりも前に経線、緯線の中に日本列島を位置付けて地名や河川の名前を詳しく入れていること。欧米に与えた影響も大きい」と語る。
伊能に比べて知名度が低いのは、小説・論文等での露出がほとんど無いことが挙げられる。(図:「改正日本輿地路程全図」《茨城県高萩市歴史民俗資料館所蔵》)
長久保赤水顕彰会