頃は平成元年(1989年)8月13日の日曜日。僕の28回目の誕生日の出来事でした。お天気は忘れたが、あの伝説の「アメリカ横断ウルトラクイズ」初の東京ドームだった。スタートレックのテーマに乗って4週間にわたって放映される、福留功男氏司会進行の夏の風物詩でしたね。
ある日、北海道の旅で知り合った帖佐君から突然の電話。
「伊藤さん、ウルトラクイズ出ませんか?」
なに?ウルトラクイズ?突然なんだ?
なんでも、ウルトラクイズの出場の話を仕入れたのだと。コンビニなんかに応募要綱が置いてあったんです。で、応募はがきを送ると参加資格のハガキと規約書が送られてきた。ハガキは当日参加者として東京ドームへ入るためのもの。規約は結構厳しいんです。
東京ドームで勝ち残った場合、成田からの一切の渡航費用は日本テレビの負担とするが、成田までの一切の費用は本人もち。応募段階で3ヶ月以上(だったかな?)の有効期限の残っているパスポートを所持していること。そして何より、
成田を出発したらいかなる理由があろうと途中棄権は許されない。
(肉親の不幸、その他、緊急の場合はその限りではない)
あの番組はクイズの内容そのものよりも、参加者の人間ドラマ がウリなのだから、棄権なんかされたら番組が成り立たないのですね。
送られてきた参加書には、第一問は当日の全国紙に発表されるから、それを見て○か×かを決めて それぞれのゲートから入場するようにと書かれていた。
で、当日の新聞を見ると、でかでかと問題が載っていた。
(ちなみに↓1989.8.13の読売新聞朝刊)

これはそれっぽいけど違うだろうと、なかば自信満々で我々は「×ゲート」へ。(確か一塁側スタンドだったと思う)
結果、あえなく見事に第一問で沈没。。
その後の問題は9割がた正解だったのだけど、一問も落とすことが許されない世界だったのだった。
番組で見ていると、落ちた側のスタンドは失意のどん底だけど、盛り上がる正解者側のスタンドに比べ、我々のスタンドは本当にお通夜でした。
帖佐君はがっくりして、そのままゲームを見る気がしないというので、とっとと退散しました。僕はせっかくだからと東京ドームの予選すべてを見届けたのでした。
さて、一応成田予選への出場人数は決まったのですが、当然のことながら敗者復活があった。
その条件は
「今朝、みんな新聞を見てやって来たんだろう? なに見てたのよ。
(敗者復活の条件は)そこに書いてあるじゃないの!」
のトメさんの言葉。
どよめく球場内。みんな慌てて新聞をめくる。
そして、あった!!小さな広告が。。
なんと、一人だけ第一回目から今回まで皆勤の人がいたのです。
もちろん日テレは申込者をチェックして、誰だかわかってこの広告を出している。
「○○さん。いらっしゃい。13年間一回も休まずご苦労様でした。」
と、言うことでこの方が敗者復活第一号。
その後は、皆勤賞さんが好きな芸能人男女ひとりずつを指名。自薦他薦問わず、敗者席からその芸能人のソックリさん数名を敗者復活とした。
指名したのは「賀来千賀子」と「山下慎司」だった。この選考はあいまいであまり面白くなかったが「賀来千賀子」のソックリさんに自分で応募したギョロ眼の男が意外性で面白かったくらい。
このウルトラクイズもトメさんがこの回で引退。年齢的なものと、日テレを定年退社するのがその理由。翌年からファイアー福澤アナに替わったが、一回で終わりましたね。トメさんでなければこの人間ドラマを支えられないのと、時代がもう「アメリカ横断」に魅力を見出せなかったのだ。
誰でも気軽にアメリカに行けるようになった昨今、勝ち抜いてアメリカを横断するという番組の重さを時代は必要としなかった。
「君は生きて返れるか?ソビエト横断ウルトラクイズ」なんて方が、面白いんじゃないかという話もあったが。
今ならさしずめ「平壌横断・・」おっとっと。。。
その後、かつて愛読していた「ラジオマガジン」誌上にトメさんのインタビュー記事が載っていた。「ウルトラクイズ」に対する思い入れたっぷりのインタビューだった。その中でトメさんは言った。
「人間が好きですかって?
ほかに何があるのよ、この世の中に。」