アリとキリギリス  (2008.11.26)

 漫才コンビの話ではありませぬ。新潮社発行の月刊誌「Foresight」12月号の中の記事に、こんな文があった。

 またしても、たとえ話が頭をよぎる。アリとキリギリスのイソップ寓話の結末が、日本だけ違うことをご存知だろうか。原話と他国では、夏の間に遊びすぎたキリギリスはアリに助けを請うも無残な冬の死を迎える。しかし、日本にはアリがキリギリスを家の中に入れてやる終わり方がある。

 え~!???初めて聞いたぞ、そんなの、、、たぶん。自己責任を強調する他国と、自己責任は自己責任として、死にかかってるやつを見捨てるのは人情的に見過ごせない、という日本独特の感覚なのか。だれかこの日本版を知っている人はいますか?

 他の日本版なら聞いたことがある。冬になってひもじいキリギリスがアリの家を覗くと、そこには働きすぎて過労死したアリたちが横たわっていた。働くのもほどほどに。という結末で、いかにも現代の日本らしいパロディで気に入ってたり^^;

「ですから…」  (2008.12.6)

 とある店で品物をみていたら、お客の女性が店員に品物の選択について質問していた。何気に聞いていたのだが、店員は若い男で、どうにも表情も言葉も硬い。なんだか聞いているこちらまで店員の対応にイライラハラハラしてくる感じも。
 女性がさっき聞いた内容を確認するように聞くと、男の店員は言った。「ですから、~~~」
 おいおい・・・。お客に対して決して言ってはいけない言葉ではないのか?「だから説明したでしょ?わからなかったんですか?」と言ってるに等しい言い方だろに。なんとなく女性客が「プチッ!」っと切れたんじゃないか?という気がした^^;
 もちろんその店員は、見下ろしたような言い方をしたわけではない。あくまで丁寧に少しでもお客さんの質問に答えようとしていた。でも、あのフレーズはダメだろ。

 「ですから、~~」というのは、桝添厚労相もよく発する。テレビに出演して質問されたときに、しょっちゅうこの言葉が出てくるので、なんとなくイラッする。確かに、キャスターやコメンテーターなどの質問がバカで「だからさっき言っただろ」とこちらもTVに向かって言いたくなることもある。でも桝添氏の場合は、そういう時ではなく初めての質問に答えるときでも、頻繁に「ですから」と言うのだ。自分の中では了解済みの話なのでそういう言い方になるのかもしれないが、やっぱり口癖でもあるのだろう。かなり悪い口癖だと思うのだが。

 で、冒頭の若い店員は、一生懸命で誠意を持ってお客さんに対しているのだろうという感じはしたのだけど、誰かが注意してやった方がよいんだけどねえ。今時なら客が切れて怒鳴るかもしれないけど、年配の客あたりが、基本的な人への対し方として正してあげるのが良さそうな。
「ですから」ではなく「だからぁ」なんて言った日にゃ修羅場になるな^^;

本屋の魅力  (2008.12.11)

 東京で本屋街で有名なのは神田神保町でしょう。普通の新刊書店ですべての書店の総フロア面積では、池袋が今や日本最大らしいのだけど、神保町には古本屋がたくさんあるので、その地位は簡単には揺るがないと思われ。
 初めて神保町へ行ったのは高校生の頃だったと思う。神田本屋街という名称で知っていたので、当然のように神田駅へ向かってしまった。駅前で「本屋街はどこなんでしょうか?」と聞いて首をひねられて、一軒の駅前の本屋を教えてもらったりしたのだった^^;
 大学以降は、専門書を探したり好きな本を探したり、ただうろつくのも楽しくて、月に4~5回は行っていた。古本屋などは一軒一軒専門が違ったり、一般書を扱っててもその店独自のこだわりがあったりして、その雰囲気を味わうだけでも楽しい。
 新刊書店も、こんな小さな本屋が大本屋に挟まれてやっていけるのか?と思うようなのも何軒もあり、よく見るとやはり何かしら特色を出して本を置いていたりする。大きな本屋だと三省堂本店や書泉グランデ、東京堂書店などがあるが、それぞれもやはり特色があって結構楽しかったりする。

 ところがジュンク堂書店の登場が契機なのだろう。だんだんどこの大型書店も同じになってきた。ジュンク堂書店が最初に現れたのは池袋かと思う。各フロアにイスと小さなが置いてあり、売っている本をそこに座って読むことが自由なのだった。これはかなり画期的だった。一度に2~3冊を棚から持ってきて読んでいても自由で、その上で気に入ったモノを買えばよいのだった。
 やはり同じことを始める本屋も出てきたけど、それよりも蔵書数で競う傾向が出てきたように感じる。ジュンク堂はとにかく蔵書数の数が自慢で、そこに行って売ってなかったらしょうがないという感じ。
 去年だったか、久々に神保町の三省堂本店に行って驚いた。店内の本棚が一新されて、蔵書が一気に増えた感じだった。明らかにジュンク堂に対抗している。でも、三省堂の魅力がなくなってしまった気がした。同じようにしたと言うことは、わざわざ三省堂に行く魅力がなくなったということなのだ。うちから近い大型書店は、新宿の紀伊国屋とジュンク堂なので、それよりも遠い神保町へ行くのは、わざわざ行く価値があるかブラブラしに行きたい時である。同じような本屋になってしまったら、当然近い方へ行けば済んでしまう。以前の三省堂本店は蔵書は同じでも、本の選定の仕方やお客への勧め方(並べ方)が独特だったりして、何かよい本はないか?と探すときのフィーリングに合いそうなときにわざわざ訪れたりしていた。今はジュンク堂と同じように、なるべく同じフロア面積にたくさんの本を置くために、図書館のように整然と本棚が狭く並んでいる。ちょっと息苦しくさえある。
 本屋業界も競争が熾烈で、戦略として仕方ないのかもしれないけど、ただ行って買うだけが本屋の魅力ではないので、自分的にはなんだかなぁ。。。だったりするのだった。ただ目的の本を買うだけなら、今はネットの方が便利だものなぁ。

クリスマスとは  (2008.12.7)

 以前、(布教目的ではなく)カトリックの友人に誘われて教会のクリスマスに連れてってもらい、そこで会う人ごとに「クリスマスおめでとう!」と言われて面食らった話を書いた。同じように日本人で「メリークリスマス」=「キリストの誕生おめでとう」だと理解している人って少ないのではないか。ま、この場合は誕生というよりは「降臨」を意味するのだそうだ。
 クリスマスパーティで「メリークリスマス!」と言い合う日本人で、その言葉の意味をわかって言っている、あるいは意識している人はほとんどいないでしょう。多くの人は「乾杯!」と同じ感覚で「メリークリスマス!」と言ってるのは間違いない。クリスチャンではない自分も「クリスマスおめでとう」と言われたときに初めて、その意味を意識した。

 ここ数年は、ハロウィーンを無理矢理日本でも流行らせようとして時期が押すためか、以前より事前のクリスマス商戦がおとなしくなった気がする。以前だったらもっと早くクリスマス一色だったような。山下達郎やワムのクリスマスソングオンパレードだったし。なので最近はクリスマスイメージが昔より薄くなった印象がある。もちろん子供の時のように、プレゼントやケーキやイベントの雰囲気にワクワクしているわけではないからでもあるが。そんな中で感じるのは、敬虔なクリスチャンは日本のようなこんなクリスマスイベントの盛り上がり方をどう感じているのだろう?と。冒涜とは感じないのかなぁ?自分も含めて、クリスマスイベントを楽しんでいる日本人のほとんどにとっては、キリストは、おそらく実在したであろう伝説の偉人のひとりにすぎず、キリストを祝うよりもお祭り騒ぎやパートナーと過ごす事がメインになってるし。キリストの降臨を喜び祝う日なのだ、と諭してそのつもりで過ごすべきだ、と言ったら引いてしまうと思う。

 最近ネットでは時々、クリスマスなんてやめよう、という叫んでいる人たちがいるらしい。今のようなクリスマス騒ぎは間違っている、と感じているクリスチャンではなく、クリスマスはパートナーと過ごす日であって、一人でクリスマスを過ごすのを寂しいことだという空気になっている事に反発、あるいはひがんでいる連中のようだ。
 でも確かにおかしい。バレンタインやほかのイベントと同じく、商業的に作られ盛り上げられてしまったのは間違いないのだし。んじゃ、日本人らしく神道か仏教のイベントで盛り上がったらどうだ?と思っても、仏教は年に一度の日を定めてそんなに明るく盛り上がるイベントは少なそう。神道は地域ごとに祭礼があるから、それで十分か。

 日本はとりあえず仏教国という事になっているらしい。神道の方が深く浸透している(あ、ダジャレのつもりではありまへん^^;)のだから、そういってしまっていいのかどうか疑問なのだけど。一応古くからキリスト教の宣教師が布教にきていたのに、他国に比べてほとんどキリスト教が浸透しなかった希有の国なのは、仏教の影響が強かったというよりも、一神教という考え方が日本の風土にはなじまないからなのだと感じる(禁止令などで弾圧された事を差し引いたとしても)。キリスト教が成立した風土や背景とも、あまりにも日本は違いすぎるし。その仏教自体も日本独特すぎて「日本のあれは仏教ではない」というのも何度も聞いた。インドで発祥し、あちこち経由して日本にたどり着くまでに、本来の釈迦の教えにはなかったモノや、不動明王などの他宗教の神様がたくさん付いて日本にやってきて、また日本であれやこれや加わったり変化して、独特の仏教になって、まぁ日本らしいと言えば日本らしい。なので、クリスマスの楽しみ方も日本人らしいと言えば日本人らしいのか、どうなのか??
(う~~む、まとめられん・・・^^;; あとは読んだあなたへの問題提起としておこう。と、丸投げしてみる^^;)

思い込み店名  (2008.12.27)

 誰でも、勘違いして読んでいた固有名詞というのはあると思う。話のネタになるのはやっぱり会社や店の名前。
 有名どころでは、やっぱりなんと言っても「月極駐車場」でしょう。結構多くの人が「げっきょく駐車場」と読んでいて、「月極」という駐車場の大チェーン店だと思っている人もいたり^^。(そうそう、今でも思い込んでいるあんたあんた)
 もちろん正しくは「つきぎめ駐車場」で、いま使っている漢字変換のATOKでは「げっきょく」と打ち込むと、一応「月極」と変換してくれるものの、『月極《「つきぎめ」の誤読》』と出る。試しにネットで検索してみたら、どっかの暇人が「株式会社月極駐車場」なんてサイトを作っているのには笑った。(ん~~、ぬかった…。自分が作りたかった…)

 さて、自分が思い込んでいた誤読店名は、この雑記のどっかに書いたと思うのだけど「村さ来」である。ご存知の通り居酒屋チェーンである。
 大学の時、コンパか何かで「お店は『むらさき』に決まったから」と先輩から言われ、「聞いたこと無いな。『紫』?洋風居酒屋なのか?ムラサキスポーツなら知ってるけど???」と思っていたのだった。「村さ来」を「むらさき」と読むのを知るまでは「村さ来(むらさこ)」だと思っていたのだ。なんか方言っぽくて良いイキな名前だな、と思っていた^^;

 最寄りの商店街には、チェーン店の食事屋「おはち」が何年か前にできた。先日友人に笑われるまで、ずっと「おはら」だと思い込んでいた。普通に冷静に見れば「おはち」と書いてあるのだけど、最初から完全に思い込んでいたようで。

 こんなのは、おそらくまだある、きっとある。たぶん自分でもまだ気づいてないだけかと……
 そういえばガソリンスタンドの「出光」を「でびかる」と読んでいた人の話も聞いたことある。^^

 あ、そうそう、急に思い出した。店名ではなく歌のタイトルだけど。葛飾区に水元公園という巨大な水郷公園がある。行くだけでも価値のある公園で、何度か行ったのだけど、最寄り駅が金町駅なのである。駅を降りてふと昔の歌謡曲が頭をよぎった。「あ、『金町の母』ってここのことなのか??」と。♪母は来まし~た 今日も来た~ この岸壁に今日も来た~♪のあの歌である。でもこの辺に岸壁なんてないだろうに、と思っていたりした。
 その事をホームページに書いたか掲示板に書いたら、あるネット仲間の女性が掲示板に書き込んだ。「それ『花街の母』だろ」。大いなる思い込みなのであった^^;;

サザエさん  (2009.1.6)

 先日、作曲家の故遠藤実氏が国民栄誉賞を受賞し、ちょっと国民栄誉賞が気になって調べてみた。
 そこで知ったのだけど、サザエさんの原作者長谷川町子氏。彼女もサザエさんで国民栄誉賞を受賞している。(受賞した事は記憶になかった)
 サザエさんが国民的マンガなのは疑いがないけど、どうやらそこまでのマンガとして認知されたのはアニメ放映の影響らしい。アニメで人気が出たのであって、それ以前にはサザエさんのコミック自体が絶版になったりして、さほど人気はなかったのだとか。原作のサザエさんは四コマ漫画であり、アニメと漫画の両方を見たことのある人はわかると思うけど、設定は同じでも別物の作品と考えた方が良いでしょう。アニメのサザエさんは、原作よりはるかに家庭的な作品になっている。そうすると、国民的マンガの作者としての受賞はどう考えるべきなのか?って微妙なような。そもそも国民的と言うことならば、手塚治虫氏が受賞していないのはなぜ?国民的レベルを超え世界的な漫画家なのに。まぁ国民栄誉賞自体が、歴代内閣の支持率操作の道具みたいなもんだから、曖昧なのは自明の理だけど。相撲では千代の富士が受賞したけど、外国人力士のはしりである高見山に授与したって良さそうに思ったり。国籍が日本国ではなくても受賞はできるのだから。そもそも国民栄誉賞は王貞治氏に贈るために創設されたようなモノで、知らない人も多いと思うが、初代受賞者の王貞治氏は台湾国籍である。母親は日本人だけど王氏は日本に帰化をしていない。そのため第1回WBC監督を辞退しかかっていたりした。「日本代表の監督は日本人の方が良いんじゃないか?」と。

 と、国民栄誉賞の話を書こうとしていたのではニャイのである。
 高校一年の時の英語教師は「外国人に日本のことを教えようと思ったら、サザエさんを見せるのが一番いいと思うんだよ。」と言っていた。どうなんだろ?かえって誤解を与える部分が多いんじゃないか?という気はした。設定にかなり無理がある部分もあるし。『磯野家の謎』は読んでないから何が書かれていたのか知らないけど、突っ込めばおかしいところがたくさんある。
 タラちゃんがあの年齢であれほど素直で従順で、しかも家庭内で敬語を使うというのは、考えたらかなり気味が悪い。イクラちゃんもまったく言葉がしゃべれないのに、あれだけ会話を理解するのも変だし。磯野家の年齢構成も不自然と言えば不自然なのだけど、まぁそれはおそらく謎本などでは多く指摘されているのでしょう。
 自分がいつも違和感を持つのは、主題歌。「お魚くわえたドラネコ、追っかけて」とか「買い物しようと町まで出かけたが、財布を忘れて愉快なサザエさん」のあたり。後者は別にただのおっちょこちょいであって、特におもしろくも愉快でもないのは、主題歌が作られた当時のユーモアセンスの問題なのか。前者もやはり今ではかなり時代錯誤でしょう。昭和30年~40年代あたりの漫画では、魚を盗んだネコを追いかけるシーンをよく見かけた。こらしめるというよりも取り返そうとしているのである。つまり取り返したら食べると言うことで。もっとも、現実に魚を取り返して食卓に並べると言うことがあったのか、漫画の中だけの話なのかは知らない。どちらにしろ今なら普通にはあり得ないので、お魚くわえたドラネコを追っかけて、サザエさんが裸足で駆けてく状況は、かなり異常であろう。
 う~む、サザエさんは奥が深い漫画なのかもしれぬ^^;


P.S.
アニメのサザエさんの背景画を描いていた友人に聞いた話なのだが、かつては東芝が独占スポンサーだった。今でも主要なスポンサーなのかな? なので、磯野家のテレビ・冷蔵庫などの家電製品は、極力東芝の新製品を描いていたらしい。なるほど、だいぶ前に新製品の冷蔵庫で、扉を開けなくても扉表面にある給水器でコップに水を注げるモノが発売されたときに、すぐに磯野家の冷蔵庫がそれになっていたのに気づいたことがあったっけ。最近見ていないけど、今の磯野家のテレビは大型液晶テレビなのか?

またまた裁判員制度  (2009.1.11)

 裁判員制度施行で昨年11月に最初の候補通知が発送され、うちには来なかった。まぁ来ても、辞退理由に介護しているという項目があるので、辞退だけど。通知が来て、辞退しなければならない理由がなければ、それなりに従うと思うけど、積極的に参加したいわけではない。
 陪審制度が古くから取り入れられているアメリカでは、かなり高率での呼び出し拒否があるらしい。なんでも4割近くにのぼるとか聞いた。いわゆるシカトが多いらしいけど、日本ではそこまでの高率にはならないんじゃないかな。

 さて、今回の制度に関しては、参加したくない人が多く「どうやったら辞退できるのか」「正当な理由なしに拒否したら罰則はどうなるのか」に注目が集まっている。でも視点を変えると、ちょっとゾッとする事態も。辞退を申し出たけど認められず、イヤイヤ裁判員を務める人も多くなるわけでしょう、たぶん。もし自分が裁判を争っている側だったとして、そんな人たちが裁判員をやっているとしたら「ちょっと待ってくれ!」と言いたくなる。もちろん、だれがイヤイヤやっているのかはわからないはずだけど。一生を左右しかねない判断を下される場面で、そんな曖昧な状態の中で審議されるのは誰だってイヤなはず。不都合な部分も多いはずなので、少しずつ修正しながら運用していくのだけど、半ば試験的に裁判されてるような人たちはちゃんと救われるのか?

 ちなみに「おれぁ板前だから、魚はさばくが人は裁かねぇ!すっとこどっこい!。」というのはもちろん認められないが、宗教上の理由で人を裁けないというのはどうなんだ?と思ったが、明確な線引きはなされていない模様。キリスト教国で、いろんな信仰を持っている人も多いアメリカでそれを言ってたら大変だしねえ。

“あゝ人生に涙あり”  (2009.1.21)

 “あゝ人生に涙あり”とは、誰もが知っている名曲(?)『水戸黄門』の主題歌タイトルなのである(作詩:山上路夫 作曲:木下忠司)。ドラマ冒頭では二番までが流れるが、自分もそうだけど、かなりの人はそのほとんどをそらで歌えるのではないだろか。

1.人生楽ありゃ 苦もあるさ~~
2.人生勇気が 必要だ~~

 オリジナルと再放送を合わせたら、何千回も放映されているだろうし必ず主題歌は流れるから、特にこれを観ている人でなくても、イヤでも大量に耳にしているでしょう。
 さてさて、現在は里見浩太朗氏演じる黄門様のシリーズが放映中である。先日何気に、テレビから流れるその冒頭の主題歌を耳にした。歌はそのときのシリーズで助さん格さんを演じている俳優がデュエットしており、現在のは多少アレンジも変わっている。んで、曲が二番に入ったとき「え!?」と耳を疑った。全然違う歌詞になっている。

人生涙と 笑顔あり
そんなに悪くは ないもんだ
なんにもしないで 生きるより
何かを求めて 生きようよ

 え、え~~!! 大違和感!! 今までの歌詞に比べてなんか言葉の表現が軟弱で、まるで現代の若い層にこびている感じがする。ついにこの歌もチェンジしたのか…。と思っていた。

 そんな折、別の事を調べていて、たまたまこの主題歌の全歌詞を眼にした。そして二度目の驚きだった。
 なんと、この歌は三番まであって、昔から歌われていたのは二番までだった。今のシリーズで歌われているのは、一番と三番なのであった。最初からあった歌詞だったのか。あまりになじみがなさ過ぎたから、新しく作った現代向けの歌詞なのかと思い込んでた。そもそも、一・二番は指導的口調なのが、三番では妙に迎合している感じがするからなのだろう。結構、冒頭の歌詞が変わったのを不満に思って苦情を出している人もいるんじゃないかと想像したり^^。

 と、話はここで終わりそうなのだけど、実はこの歌には幻の三番があり、元々のオリジナルは四番までなのだそうだ。Wikiによると作詞者自身もその存在を忘れていたとか。作詞者が意図的に抜いたという説もあるようで、Wikiが間違いかもしれぬ。最近発売された水戸黄門のサウンドトラックCDには、四番までを歌ったモノが収録されているらしい。で、先ほどの三番が実は四番で、次のが三番なのである。

人生ひとつの ものなのさ
あとにはもどれぬ ものなのさ
明日の日の出を いつの日も
めざしてゆこう 顔あげて

 そういえば二番目の歌詞の後半。「あとから来たのに 追い越され」をぼんやり聞いてると、「のに」の解釈を間違えそうな。普通の日常会話だと「オレは後から来たんだけど 追い越された」と耳に入りそう。もちろんそれでは意味が矛盾するから、「来たのに」は「来たヤツに」のはず。

百均の高級品  (2009.2.2)

 すっかり日常に浸透した百均ですが、ずいぶん前から百均で売っていながら100円超のモノも多いのはご存じの通り。中には840円なんてのもあったり。木工工具も百均で買うことがあるのだけど、その840円のモノもいくつか買った。これが結構よい。同じ類のモノで100円だとすぐに壊れてしまうのに、840円のは普通に買うと3000円くらいするモノで、かなり使える。もちろん3000円クラスのモノよりも質は落ちるのだけど。
 百均で210円くらいのモノは珍しくなくなったけど、420円以上のモノをみると妙に高級品に見えてしまうのは自分だけ?^^;

火の用心   (2009.2.7)

 「火のよ~~じん ”カチ・カチッ”」
っていうあれである。先日夜に聞こえた気がした。今どき拍子木持って火の用心を呼びかけて歩いている人はいないだろうから、幻聴かどこかのテレビの音かわからないけど。時代物の漫画などでは、旅館の廊下を番頭がそうやって歩いているシーンがあるが、安眠妨害になりそうにも思うし風情があるようにも思うし。

 そういえば、小学校の頃に一度、夏の夜にそうやって町を廻った記憶がある。小学校の地域活動みたいなモノで。自分が住んでいる所は小学校の地区活動では「5ブロック8班」と言った。5丁目なのでその「5」なのだろうけど、そこを八つの区域に分けるほどに小学生は多くなかったと思うのだが。
 で、確かその活動の義務みたいなモノで、火の用心をやったのだと思う。保護者がついて数人で廻ったようなうろ覚えが。そういう地区活動自体がもう無くなったのか、内容が変わったのかどうかはわからないけど、少なくとも何十年もそんな声は聞いていない。あの呼びかけが防火にどの程度効果があるのかはわからないけど、地域の結びつきやいろいろな効用はもちろん、風物詩としても復活してもおもしろいんだけどなぁ。塾もあるしタクの子供をそんなモノに関わらせないでください、なんてモンスターペアレントもいるかな。

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