セカンドオピニオン  (2005.9.26)

 セカンド・オピニオン。言うまでもなく、複数の医者の診断を受けるケースである。日本人の気質にはなじみにくく、まだまだ浸透していない。
 入院していて、他の病院へ移って検査を受けたいという場合も、セカンドオピニオンというのかどうかはわからないが、友人の家族のお話。

 以前にも書いたが、ある東北の病院に友人の兄が入院していた。筋萎縮性症候群に似た病気らしいのだが、検査してもどうにもはっきりとはわからないらしかった。
 友人は、該当しそうな症例に対応した東京あたりの施設の整った病院へ移って、検査をしなおすことを希望していた。それで、こちらに心当たりなどを尋ねてきた。
 あいにく病院関係の知り合いはないなぁ・・・、と思っていたのだが、大事な人たちを忘れていた。ひょんなことから知り合った、北里大学病院の先生たちがいたのだった。季節の挨拶を送りあったり、時々個展にも来てくれていた。
 それでメールで問い合わせてみると、病院にその方面の症例の日本一の権威がいるという。
紹介するので直接連絡を取ってもらって良いと言うことだった。
 早速友人に連絡。権威と言われる先生は、「私の名前を出してくれればいい。私を知らなかったらもぐりですよ^^」と言っていた。

 さて、友人の兄の入院先の病院だが、それ以前から他の病院でも検査を受けたいので、紹介状や資料の提供などを頼んでいても拒否されていた。「ちゃんと検査も治療もできていないみたいに思われる」の様な言い分だったらしい。こんな言い訳があるだろうか???本当にそんなことを言ったのか、もめてるうちに友人が被害妄想的になっているのかはわからない。でも、他の医療機関へのセカンドオピニオンを拒否しているのは確かなようで、カルテ提供などを拒んでいたのも確からしい。
 こちらからの連絡後、友人は今度はこちらが紹介した「権威」の先生の名前を出したところ、担当医は直立不動で青ざめたという。そして、「(必要な資料やカルテは)なんでもお持ちください!」と態度が急変したと。よほどの権威の先生だったのだろう。しかし、これほど態度を変えるというか、そういう圧力がないと狭い囲いの中だけですまそうという世界なのか………。

 友人の兄は北里大学に転院し、検査の結果世界的にも珍しい症例だったことが判明。転院してから経過は良好になったようだった。
 人脈という言い方は好きではないが、自分の持つ人とのつながりが、とても役に立ったという嬉しさとともに、ちょっと考えさせられる一件でもあった。

国民の幸福とは  (2005.9.28)

 (今枝由郎著 『ブータン・変貌するヒマラヤの仏教王国』 より)

 ブータン唯一の新聞『クェンセル』の1993年5月29日号に、アメリカの大学に留学中のタシ・ワンチュックという学生からの次のような投書が載った。

 「アメリカに着いてから3年になりますが、最近よく考えることは、ブータンが“発展途上国”であるということは、一体どういうことなのか、ということです。“先進国”になるということは、総合技術においてアメリカのようになることを意味するのだろうか?ブータン人も、誰もが車に乗り、冷暖房付の家に住み、ビデオ、冷蔵庫、電話等を持つようになったら、ブータンも“先進国”の仲間入りができるのだろうか?もしそうだとしたら、こうした恩恵を蒙(こうむ)るために、どんな代償を支払わねばならないのだろうか?我々の文化が伝統的に重んじてきた家族とか共同体といった価値体系を捨てて、個人主義的に一人一人が富とか財産の蓄積に腐心するようになることを意味するのだろうか?そうした生き方は、仏教が説く無執着の教えとは、相容れないことではないか?だとしたら、そうすることは、ブータン人がブータン人でなくなることではないのか?
 ブータンを訪れる外国人は、ブータン人は和やかで、生活にはくつろぎが感じられる、と決まって好意的・肯定的な印象を持ち帰ってくる。ブータン人は人生の本当の意義を見つけている、と彼らは言う。それなのに、こうして人間としての幸せを満喫しているブータン人が、自らの生活様式を捨てて、人生の楽しみを失ってしまった人達のようになろうとするとしたら、それはあまりにも皮肉的である。
 アメリカ人の生活は腐敗している、などと言う気は毛頭ない。物質的恩恵は、確かに身体的な面では非常に快適さをもたらしてくれる。しかし、こと情緒面、精神面に関していえば、アメリカ人の多くは、ブータン人の一般庶民に比べて、ずっと貧しい生活を営んでいる。」

 ここに見られるのは、開発途上国に往々にしてみられるアメリカに対する羨望と嫉妬と裏腹な国粋的な煽(あお)りではない。一人のブータン人学生が、3年間アメリカで生活しアメリカ人の生活を見て、偏見もコンプレックスも持たずに、またブータン人としての自尊心を失うことなく、より人間的に充足した生活とはなんであるかを、虚心に自問したままであろう。

 ここで思い出されるのは、ブータン国王が、国のレベルを計るのに一般に基準にされている経済指数であるGDP(国民総生産)ではなく、GNH(国民総幸福量)というまったく新しい指標を提案していることである。1989年にブータン国王に会見し、このことを伝えた『読売新聞』の木佐特派員は、ブータンの発展にとって大切なのは「たとえば5年、10年ごとに自分たちの暮らしを振り返ったとき、少しずつよくなっていると国民の多数が考えるかどうかだ」という国王の言葉を伝えている。国王は、これさえ上がれば、国は繁栄し国民は幸せになれると、盲目的といっていいほどに世界中が躍起になっているGDPには、さしたる重要性を認めていない。GDPは、思っていたような万能の特効薬ではないと幻滅した、他の国のにがい経験を他山の石とした知恵なのであろうか、あるいはブータン人特有の“田舎者”の直感なのだろうか。
 近代化に着手したばかりの世界の最貧国の一つでありながら、こんなことをのほほんと言っているブータンを前に、上引の石田氏(青年海外協力隊員として2年間ブータン派遣)であったなら、「まず、もっと働いてリッチになれ。それから、考えろ」と言うところであろう。
しかし、一世紀以上にわたって“追いつけ、追い越せ”と血眼になって疾走して、少し余裕ができたところでふと振り返ってみて、こんなはずではなかった、と一種の虚しさを感じ、あるいは、これで本当にいいのかと不安がっている日本人には、ブータン人にそう言う資格はないであろう。確かに、日本が達成したものは大きかったが、それで望んでいたものは結局得られなかった。それどころか犠牲は大きかったし、失ったものも多く、それはもはや元には戻らない。この日本の経験を前にすると、ブータン人学生タシ・ワンチュック君の「こうして人間としての幸せを満喫しているブータン人が、自らの生活様式を捨てて、人生の楽しみを失ってしまった人達のようになろうとするとしたら、それはあまりに皮肉的である」という言葉は、改めて重みが感じられるであろうし、そこに一つの英知を感じざるを得ない。

卒業文集  (2005.9.30)

 何気に、本棚に埋もれていた小学校の卒業文集が目にとまった。いやいや、自分を筆頭にみんな字の汚いこと^^;。それでも女の子は、まるで美子ちゃんのペン習字をやったかのようにまとまった字が多い。

 うちらの卒業生は44人、45人の2クラスだった。ほかの学校も同じなのかどうかわからないけど、巻末にはそれぞれの将来の希望(予測)が短く書いてある。うちのクラスの場合は「15年後のぼく・わたし」であった(隣のクラスは「20年後」)。んでもって、自分のところには「漫画家になり、メンバーも見つけ人気も呼び平凡な生活を送る。」と書いてある。当時は熱烈な漫画家志望だったのだけど、今回読み返すまでは、その日本語のおかしさに気づいていなかった。「人気を呼」んで「平凡な生活」は送れないだろうに^^;;。

 うちのクラスの44人中に、意外なことに「警察官」を志望しているものはいなかった。パイロットやスチュワーデスというのは数人いて、スポーツ選手というのも皆無。(スピードレーサーと書いたのはいる)
 最も多かったのが「幼稚園の先生」で、その中には男もいる。「共産党に入党してがんばっている」という者もあり、父親が労組の闘士だったのか?「結婚して、夫の仕事の都合で、アメリカにいると思う」などという予言者みたいなのもいたり。
 友人達のその後はあまり知らないのだが、知っている範囲では、文集に書いた未来の通りになっているのは数人なのではないか。理想を語っている者や、家業を継ぐなどの現実路線の者や、いろいろと実に個性豊かであった。
 年齢的なものか、それとも時代的なものか、大金持ちになってやろうとか、稼ぐための仕事を夢見ている者も皆無だった。(中学の時の文集には、「金で動く医者になってやる!絶対に」という強者がいたのだが^^;。)
 同級生の中には、小泉チルドレンとして政治家になった者もいるが、文集の思い出の方の文章では書いてあることがよくわからない^^;。おおよその言いたいことはわかるのだけど、時系列や言い回しがトンでたりする^^;。

 そういえば、おそらく完全にこのときの予測通りになっているであろうと思われる者もいる。「そのころは、家で気らくな生活を送っている。気らくに…」というのだが、彼女は18で結婚して子供を産み、あの人ならなんだか書いたとおりに生きている気がするのである^^;。

レンタル  (2005.10.3)

 その昔は「貸本屋」なるものも盛んだったようで、過去の遺物かと思っていたら、最近でもたまに見かけることがあって驚いた。今ではレンタルビデオ、レンタルCDがごく普通だけど、まだCDなどが出現する遙か前、駅前に「貸しレコード」屋ができて喜び勇んで借りに行ったもんだった。その割には借りたのは数回で、ビリー・ジョエル、渡辺貞夫、八神純子、松原みき、、あたりを借りただけだったような。

 そして時は流れて、CD屋で借りまくったりしていた。借りるのはもちろん地元のショップで、このあたりだと「DORAMA」という、レンタルCD、ビデオ、古本、などを扱っている店が最初。この店は小田急沿線でしか見ないので、小田急系列かと思っていたらそうではなくて、どうやら発祥の地がここの下北沢だったらしい。
 CDは結構借りまくったのだが、いつの間にかそれもしなくなり、ビデオに至っては、最初からほとんど借りることはなかった。この辺りだと「DORAMA」の他に「TSUTAYA」もあり、両方の会員になったことがある。でも、両方で合計で借りたのはおそらく10本にもなっていないかと。そして、どちらの会員証も利用しないままにどこかへいってしまい、レンタルビデオもレンタルCDも10年は利用してないと思う。^^; 一応VHSデッキはあるのだが、まったく利用することもない。録画をすることさえないのだった。
 なんだろねえ、以前(10年以上前)なら、残しておきたい番組なんかをとりあえず録画しておくと言うことはしたのだけど、今ではとても億劫というか、それほどのことをしなくてもいいや、という感じだったり。撮ってもどうせ見ないというのもわかっているので。「残しておこう」という思いで録画しまくっていた頃もあったのだけど、それをしなくなると、残しても残さなくてもたいした違いはない事柄にも思える。VHSだと、残すだけで膨大な場所をとってしまうということもあったのだけど、なんだかそう言うことに、時間やエネルギーを費やすこともしたくないという思いもあるような。
 記憶にある限りでは、この10年間にテレビ録画したのは「もののけ姫」と、あと何かのドキュメンタリーを数本だったと思う。録画しておいて、後で時間を作って長時間見るというのをしたくなくなったというのもあったり。なのでもちろんDVDデッキなんぞはない。パソで見ようと思えば見ることはできるが。

 とてもみたい映画をテレビでやっていたら、それは見る。でも、それをビデオ録画したとしたら、それはいつでも見ようと思えば見れるので、なんかわざわざ時間を作る気にもならない。録画しないでリアルタイムで見る場合は、時間を作らねばならないので、それに集中するけど。
 そもそも、急に録画しようと思っても、上述のような状態なので急には空きテープもない^^;;。「もののけ姫」を録画しようと思ったときも、新しいテープがなく買いに行ったのだが、1本売りというのがまずない。ほとんどが3本売りで、1本単品のモノがあっても3本売りと大差ない料金だったりする。3本買っても、その後はまず使わないだろうとわかっているので買いたくはない。なので、わざわざ高い1本を買う。3本の方がお得なのはわかっているけど、安い高いの問題ではなく「要らない」のだ。
 それでその後に何かを録画したときは、録画済みテープの中から、もう要らないだろうと言うのを選んで上書き録画したのだった。そんなこんなでますます録画なんぞが面倒になり、ますます使わなくなったり^^;。

口答え  (2005.10.7)

 子供の、親や大人に対する口答えといえば、「うそつけ!」→「だから、うそついてんじゃん^^」。「まったく、口の減らない…」→「口が減ってたまるかよ」。などなどが定番だったと思うけど、今でも似たようなもんなんだろか?今時なら、もっとこざかしい憎たらしいボキャブラリーを持っていそうだけど、所詮ガキの発想することは、本質的には時代を超えてもたいした違いはないような…。

 こんな風に、相手に聞こえるように言う口答えの他に、聞こえないようにつぶやく口答えもありますね。
 自分は、それほど親に怒られたことはなく(しっかりと怒ってしつける親ではなかったので)、怒られても「聞こえる」口答えをした記憶もない。
 はっきり鮮やかに覚えているのは、小学校4~5年生の頃だったと思うけど、父親に「何回言ったらわかるんだ!」と言われて、とっさに瞬時に反射的に「500回…」と聞こえないようにつぶやいたこと^^;。今思い返しても可笑しく、とっさにガキが発想する程度の内容なんだけど、反射的につぶやいた自分にも、その時はなんか可笑しかったりしたのだった^^。

潮の香り  (2005.10.10)

 今年の夏は夜になると、なんだかやけに潮の香りがした。夜、窓からはいる風がかすかに海のニオイがしたのだ。気のせいなのか、それとも本当に毎晩のように海からの風がこんなところにまで届いてくるのか?と不思議だった。
 それがどうやら、本当に海風だったらしい。陸と海の温度差の関係で、通常は日中は海から陸に風が吹き、夜は陸の温度が低くなって、陸から海へ吹くはずが、ヒートアイランド現象のために陸の温度が下がらず、いつまで経っても海からの風が吹いていたらしい。

 先に潮の香りと書いたけど、実際にはそんな良いものではなく、海のニオイもしくは「海臭い」と言った方が雰囲気ですな。本当に海のきれいなところへ行くと、まさしく「潮の香り」なのだけど、東京湾近辺なんかだとどう転んでも「海臭い」という表現がぴったりのような^^;。

 小さい頃、海水浴と言えば東京湾近辺。父親の職場の保養施設「海の家」があったのは、鎌倉や千葉の岩井辺りだったと思う。記憶にある海風はやっぱり「海臭い」。砂浜も白砂なんかではなく、薄汚れた灰色である。
 それでもやっぱり記憶の香りというのは大事なようで、海臭いと言っても決して不愉快なだけではなく、それなりに懐かしさという郷愁を呼び起こす。「海臭い」という表現は、10年ほど前に千葉寄りの東京湾岸に行ったときに浮かんだ言葉なのだけど、我ながらうまい言い回しだと悦に入ったもんだった^^。

切手収集に燃えた日々  (2005.10.12)

 小学校5~6年の頃、切手収集に夢中になっていた。きっかけは、郵政省発行の切手一覧のような本だった。それまでの日本で発行されたすべての切手が実物大の写真で掲載されているもので、この一覧本は毎年発行されていたと思う。なぜかわからないけど、これは同居していたお祖母さんにもらった。プレゼントされたわけではなく、郵便局かどこからかもらったものをこちらにくれたのだと思う。

 その数々の写真を見て、一度で切手に魅了されてしまった。当時は切手収集のブームで、切手収集家のための月刊誌が数誌も発行されていた。代表的な雑誌は「スタンプマガジン」と「切手マガジン」だったと思うが、たしか自分は「スタンプマガジン」を愛読していたと記憶している。この二誌は、それぞれの雑誌が対立していたというか、お互いに内容のパクり疑惑があったような。それぞれの読者が熱烈で、読者同士がライバル心を持っていた。

 自分が切手収集に熱中していた時期以外の時代の、収集の仕方の傾向などはまったく知らないが、当時の収集の仕方には大きく二つあった。純粋に切手そのものを愛して収集している人と、収集したものを売買することで利益を得ようとする人。もちろん株の売買のようなものではなく、切手というのはものによって高価になるので、そうなったときに売るのである。(あ、それならある意味株とおなじか・・・。)なので、そういう目的の人は1枚1枚の単品ではなくシートで買う。通常の切手は1シート100枚だが、記念切手などは20枚が基本。それをシート単位で買うのだが、純粋な収集家は、シート単位で買うのは邪道だとして非難していた。自分は主に、1枚の単品の新品を集めていたが、使用済みを中心に集めている人も多かった。切手そのものを集めるのが本道なので、新品か使用済みかは関係ない場合も多いのだ。それに、実際に使われたモノに意味があるという収集家もいるし。特にお目当ての海外の切手で使用済みだと、なんか感慨深いモノのあるのです。実際に使われて、人と人をつなぐために国境を越えて運ばれてきたのだなぁ、と。
 友人の中には、熱帯魚のグッピーを好きで飼っていて、世界中のグッピーが描かれた切手を集めているのもいたり。

 広く世間に出回るものとしては、切手はもっとも小さい「絵」ではなかろうか。その小さな空間に圧縮された絵の世界に魅了されていたのかもしれない。そういえば知人に、切手の絵描きをしている人もいる。切手用に絵を描く専門の絵描きもいるのです。
 自分が特に魅了されていたのは、浮世絵や古い日本画を切手にしたものや「琉球切手」だった。琉球切手は、返還前の沖縄で使われていた切手で、日本本土の切手とは違う趣がある。

 切手収集熱は数年でさめてしまい、最後は確か池袋にあるスタンプショップに売り払ったのだと思う。当時はあちこちに収集家のためのショップがあり、そこで収集家が売買をしていたのだ。
 自分がもっとも通ったのは、新宿南口にあった「郵趣会館」というビルで、その地下に小さなショップが十数件並んでいた。友人と毎週のように通っていたものだった。(遠い目…)
 今はそのビルもなく、ショップ自体もほとんど見ることはなくなった。ショップがほとんどなくなったのか、自分が興味がないので目に入らないだけなのかわからないけど。 もしまたショップを見かけることがあったら、久しぶりに眺めに行ってみたいものだと思うのだった。

地球温暖化で…  (2005.10.17)

 以前「地球にやさしい」という言い方について批判を書きました。その考えには今も変わりはない。人間が、地球にやさしくするだの、地球を守るだのと言う考え方は、おごり以外のなにものでも無いと思ったりする。
 いや、真剣に環境のことを考える活動を否定するつもりはなく、ただ、それは実は人間が生きるための環境の問題である、ということを認識した方が良いかと。どんなに環境破壊をしたところで、それは人間や生物が住むのに適さなくなるだけで、地球が「瀕死」なのではない。長い地球の歴史の中で見たら、はるかに人間や他の生物にとって環境の酷い時代はいくらでもあったけど、それは地球が瀕死だったという言い方は適さない。

 さてこの環境問題の中でも、トップクラスにやばいのが温暖化効果である。何よりやばいのは、海水面が上がって水没する地域が増えるだろうと言うことでしょう。温暖化で本当に海水面がそんなに上がるのかについては、一部反論もあるようではあるが。(しかし、南の小さい島国で、すでに国土のかなりが水没しかけている所もあるようだし、かなりの国民が、他国へ移住を始めている所もあると聞く。)
 何がやばいって、ほとんどの国の中心都市は、海に近い場所、すなわち水没の危機にある場所だったりするのだ。そして海岸方面から水没していけば、国土が狭くなる。

 ふと、あれ?と思ったのだが、国民が壊滅的ダメージを受けるのは、圧倒的に先進国なのではないか?ひらったくいえば、「経済」のダメージが大きいということなのではないか?
 いろいろな災害がある度に、その災害の「尺度」が出されるが、死傷者の数とともに「経済的ダメージ」がクローズアップされる。「そりゃそうだろ」と思われるだろうが、よく考えると、なんか釈然としない。
 常日頃、現在主流とされている(アメリカ型)経済システムは「無くても良いものを無理矢理作って無理矢理買わせて、無くても良いものを買うために、命を削って働いている。または、買わなくては成り立たない」というシステムだと思っている。何しろ、節制してそれぞれの人間が等身大で分相応の生活をしてしまうと、たちまち行き詰まって暗闇の状態になってしまうという、恐ろしい社会システムなのである(今までに何度も書いたけど、自分は社会主義者でも共産主義者でもない)。みんなが幸せになれる経済システムではなく、小利口な「勝ち組」だけしか報われないシステムといってもいいかも。

 さてさて、何故に圧倒的に先進国の方がダメージが大きいかというのは、経済ダメージが大きいからだけど、それは要するにモノを持ちすぎていると言うことでもある。
 何度もモンゴルなどへ行ったけど、日本で地震などの大災害がある度に、あちらだったらどうだろう?と何度か考えた。日本でそのような災害にあって避難生活を強いられている場合、命が助かって健康であっても災害のダメージはかなり長く残る。被災した人にはこのような言葉は申し訳ないのだけど、それはモノがありすぎたことの裏返しでもあるのではないかと思うのだ。
 失ったモノが多すぎるために、家族がみんな助かっても簡単には精神的に立ち直れない人が多いのかと。モンゴルなどで同じことがあったら、命が助かったのだからやり直せばいいのであって、割合すぐにやり直せるだろう。(ま、最近はどんどん都市部に人工が集中してるし、アメリカ型の資本主義が浸透しつつあるのでその限りではないが。) それは基本的に遊牧民生活が中心であったから、必要最低限以上のモノを持たないのが普通だったからである。遊牧民だったら土地も「不動産」ではないから、災害でどうしようもなくなった場所からは移動すればいいだけなのだ。(かなり単純な話にしてしまっているが)
 あちらでの数年前の大災害で、日本からも援助物資が多数寄せられたとき、取材者が牧民に「困ってることは何ですか?」と聞いても、他の牧民に助けてもらっていたりして、とりあえず用は足りてるから、答えに困っていた。生きるのに何の支障もないし、助け合いでやれているから、困っていることはないということだったのだ。

 ひるがえって、自分はどうなのだ?と考えるが、やはりモノがあるほど、守るものがあるほどダメージは大きいと考えられる。以前ならパソコンなどは持っていなかったが、それをかなり使うようになり、失うと非常に困るデータもあったりする。現在パソを使う上で、データ類はすべて本体とは別のHDDに入れている(通常使うHDDとそれのバックアップ用)。なので、いざとなったらパソ本体は放っておいてHDDだけを持って逃げればいい。なんて考えてみたりする。そういう数々のものが無かったら、非常時には単に逃げればいいのだけど、所有物が多ければ多いほど、普段からそういうことを考えなければならなかったり、いざ逃げるときも持ち出すものが多くて逃げ遅れることだってあるだろうし・・・。

 と、どんどん最初の話題からそれてるし、まとまらないので終了^^;。

ビールおやじ  (2005.10.19)

 ある日、お昼を食べにお店に入った。夜は居酒屋になるであろう店のランチ定食である。
 店内に座ってふと左を見ると、60手前くらいのオッちゃんがジョッキのビールを飲みながら定食を食べていた。ビールなので、おかずだけをおつまみにして、ご飯は後で食べるのだろう。オッちゃんは小柄で、おそらく身長160cmに満たないのではなかったか。
 見る見るオッちゃんはビールを飲み干し、おかわりをした。そのうちにこちらの定食も運ばれてきたのだけど、オッちゃんはなんとまたおかわりした。こちらが入店する以前に、何杯飲んだのか知らないが、自分が見てただけで3杯目の中ジョッキである。

 自分は酒に特別強いわけではないが、弱くはない。ビールもそこそこ飲めるが、量はいらない。ジョッキだったら一杯で充分である。
 でも、ビール好きの人は、どこに入るのだ?というくらいにたくさん飲む。プロレスラーの故・アンドレ・ザ・ジャイアントは、日本のビアガーデンで、30数杯のジョッキビールを飲んだという。
 そのオッちゃんも、その小さな身体のどこにそんなにビールが入るのだ?と驚いてしまったのだが、そんなに飲んで後のご飯が入るのか?さんざん飲んでご飯は要らないのなら、最初から単品で頼めばいいのに。丸ごとご飯残されたら、お店もイヤだろうに、なんて要らぬ心配までしてしまったり^^;。

お褒めの言葉  (2005.10.24)

 個展を中心に展示会を年に数回やっているのだけど、自分が会場に常駐しているのは、毎年11月に東京・飯田橋での一週間の新作個展だけ。それ以外は画廊喫茶で旧作を展示することが多く、その場合は会期も1ヶ月が普通で、会場にはたまに行く程度。なので、会場にはメッセージの残せる記帳ノートを置いている。
 いろいろな人がいろんな感想を残してくれるのでとても楽しく、後から何度も見かえしたりする。

 一度、鎌倉の画廊喫茶でやったことがあるのだが、ある日、家族連れの観覧者がみんなで感想を残していった。そこの男の子が書き残していったメッセージ。

「○○△△ 11才 小学六年生 
絵がうまい!

きょ、恐縮です^^;;。

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