お出口は… (2004.12.29)
これも、小学校時代に疑問に思っていた事。
電車に乗っていると、
「次は~、○○でございます。お出口は右側です。」
なんてアナウンスがある。
??右って?
何しろ「進行方向」に向かって左右どちらか、という発想を知らなかったもので、自分にとっての右なのか?と思った^^;。
車掌はこちらがどちらを向いてるのかがわかるのか?他の人はどうなるんだ?
世界はおいらを中心にまわっているのだった^^。
年越しテレビ (2005.1.2)
なんか、去年の正月も似たような事を書いている。もしや、、と思ってそこを読んでみたら、書こうとしていたことがほとんど書かれていたのだった^^;。
今回の年末年始は、例年にも増してテレビを見ない。2台目の木造パソデスクを作るのに没頭していると言うのが大きいのだが、ますます見る気のしない番組だらけになっているのも一因。定時ニュースというのを、普段よく見るのだけど、年末年始はバラエティ番組の超拡大バージョンだらけで、ニュースの類がほとんどないような気がする。それですぐにスイッチを切ってしまうのだが、何か見ようと思うときはNHKかテレビ東京だったりする。テレビ東京は、いつも自分のペースを崩していないところが、さすがというかなんというか^^;;。不祥事に加えて、トップが何としても会長の座にしがみついているエビの介NHKだが、良いものを作っていることは確か。おまけに民法がどんどんろくでもないモノを作り出しているし。全国展開で何としても視聴率競争に負けるわけにはいかぬ!というしがらみのなさそうなテレビ東京のお金をかけない製作方針だが、それだけに独自の良いものも多い。
話はそれたけど、去年も書いたように、子どもの頃は年末年始のテレビというのは楽しみだった。それが楽しみでなくなったのは、年齢的なモノもあるのだろうけど、やはり制作者の姿勢も大いにあると思う。制作者にも出演者にも、本当の意味でのプロがいなくなっているのが一番大きいのだろう。娯楽の選択が増えた、という事も言えそうだけど、どうもそれは二次的な理由のような気がする。
ドビン!チャビン!… (2005.1.6)
これもかなりの人が経験あるだろうと思われる、他愛ない遊び。大勢で輪になり、ひとりひとりが次の人を指さして指名しながら「イチッ!」「ニッ!」「サンッ!」「どびん!」「ちゃびん!」「はげちゃびん!」と言っていくあれです。指された人が、自分の順番にあたる言葉を言えなかったり間違えたらアウトというやつで、だからといって罰ゲームがあったわけでもなく、延々と続けられていたような。
これを初めて知ったのは、かのアイドル輩出の名番組「スター誕生」だった。萩本欽一氏司会(後年はやすしきよし)で、山口百恵、桜田淳子、森昌子の三人娘や、お笑いコーナーからは斉藤清六や西山浩司なども出ましたね。お笑いコーナーは、審査のための谷間時間を埋める企画で、一般人を中心に進行して行った。その中で「どびん、ちゃびん、はげちゃびん」をやっていたときがあり、それで初めて知った。周りの同年代の多くも、それをきっかけに広まって知った人は多かったかと。
遠い目で振り返る昔のこと。中学へ進み、区立だったのでまわりの区立小学校卒業生が集まってきていた。クラス分けで振り分けられた教室へ行くと、同じ小学校からの友人よりも、圧倒的に初対面の面々が多い。他のみんなも同じ状況だったようだ。
何となく教室の後ろに男子が輪になった。机やいすの背もたれにお尻をかけて、挨拶するでもなし、なんだかネコの集会のようでもあった。何がきっかけで誰かが言い出したのかどうかまるで記憶にないが、「どびん!ちゃびん!はげちゃびん!」が始まっていた。
覚えているのは、社会人になったあとにそのスジ方面に関わり、クサイ飯を食っていたらしいという風の噂のあった友人が、なんとなくモジモジしながらゲームに参加したいたことくらいである^^;。みんな、初対面の面々の様子を探ると言うよりも、一生懸命につながりを作ろうという感じだった。淡々とゲームはすすみ、いつどうやって終わったのかも記憶にない。
ちょっと前まで小学生のガキだった面々が詰め襟制服に身を包み、新しい人間関係を築こうという初々しい始動だったのだった。
気遣いの先輩 (2005.1.12)
結構、どこにも必ずひとりはいるんじゃないかという人。とても善人で妙に気遣い。言葉だけで説明すると難しいんだけど、本人を見せてこういう感じの人、と示すと誰もが納得するだろう。学生時代のクラブ活動で、妙に世話見のいい先輩なんかもこれにあたるか?
とても印象に残っているそんな人が、大阪で仕事をしていたときの会社にいた。それはN先輩で、世話見が良いのも良いのだが、何というかとても気づかいがある。
何人かが集まっていて、特に話題がなければ、何とかして場を和まそうといろいろ話を切り出してきた。昼休みに社外で外食をして、そのあとに喫茶でコーヒーなどをしてることが多かったのだが、各人はそれぞれ勝手に雑誌や新聞などを取って読んでいる。それでもN先輩は、その中で話をみんなに振ったりしていた。でもみんなは勝手に読んでいる。けっして無視しているわけでもなく、バカにしていたわけでもない。そういう人だという認識で受け入れているのである。いや、自分もバカにしているのではなく、とてもいい人なのだ。自分は好きだった。N先輩を嫌っていた人はほとんどいなかったろう。2年先輩だったけど、微塵も先輩風を吹かせたことなどはなかった。でも、それだけに苦笑モノの行動も多い^^;。
社内には派遣されてきている外注さんが多かった。N先輩と自分は同じ部署だったのだが、外注さんには何人か「かわった人」もいた。そのひとりHさんは、よくぶつぶつと独り言を言いながら仕事をしていた。コンピューターの出力紙を見ながら、「あ~、これは○○か・・、ん~~、これはムズカシイな・・・」などと独り言をいっている。みんなはそれが独り言だとわかっている。しかし、Hさんの向かいに座っていたN先輩はそれに受け答えをしている。「あ~、ムズカシイですか?・・・。大変ですね・・・」
まわりは笑いをこらえるしかない。独り言を発するHさんと、その独り言に対して返答のあるわけがない愛想を振るN先輩の光景である^^;。もちろんHさんは、Nさんが愛想を振って話しかけていることなど気づかない。二人の空間にだけスポットライトが当たっていた^^;;。
そういう苦笑モノの行動も多かったN先輩でもあるが、彼をバカにしていた人はいなかったと思う。疎ましく思っていた人も聞いたことがない。おそらく社会的な要領の良い人ではないと思うが、正しい魂を持った人であり、そういう人が馬鹿を見る世であっては欲しくない。
会社を辞めてから全くN先輩のことは知らないけど、そういう点は変わっていない気がする。なんとなく笠知衆(りゅうちしゅう=寅さんシリーズの和尚役)のような、いいおじいさんになりそうな気もする。^^
ブリ (2005.1.14)
好き嫌いはそれほどないのだけど、苦手なものは多い。出されれば食べないわけではないけど、苦手、というのは誰でもあるでしょうけど、身体が受け付けないと言うのもある。
ブリなんかはそのひとつ。ブリを食べると、かなりの確率で具合が悪くなる。ウナギも苦手な部類だけど、それなりに食べられるし、食べて身体に変調を来すことはない。
でもブリはあきまへん。それでも、昔はそれほどおいしいと思わないにせよ、食べてもどうと言うことはなかった。それがここ数年来、ブリを食べると胃が気持ち悪くなったり、酷いときは食中毒並の苦痛を味わうこともあった。どうもあの脂がいけないらしい。以前は大丈夫でも、最近ダメになったというのは、年齢的にブリの脂を受け付けなくなったのか?
遺伝は関係ないことは確かで、母親はブリは好物である。んなもので、母親にブリを出すときは、自分は鮭などを食べる。旅番組で、宿で脂ののったブリの刺身をうまそうに食べる役者とともに、いかにも旨そうにアップで映し出された脂ギンギンのブリを見ると、それだけでウェっという感じだったりする。
考えたら、その食中毒並みの苦痛を味わうまで、ブリで身体に変調を来した記憶はない。もしかするとそれがトラウマになって、それ以来身体が極端に受け付けなくなったのかも知れない。
ブリ大根ならうまそうだし、脂もかなり落とすので大丈夫だと思って作ってみても、やはり胃が重くなった。これはやはり精神的なモノかも知れん。
本格的な和食屋で、ブリ料理を食べさせてもらえば、かなり違うのかも知れないけど、こればかりはわざわざ食べようなんて思いませんなぁ。。。
雨… (2005.1.16)
自分の好きな気候は、何と言っても晴れと夏。雨は好きではない。まぁ、降るなら降るでしっかり降るならまだしも、霧雨のように、降ってるんだかそうでもないんだか、またヨコからまとわりつくようなのは最悪である。
雨が好きでない理由の第一は、何といっても傘を持たなくてはならないこと。邪魔なのだ。夏が好きな理由は、夏の生まれで暑い方が好きというのもあるけど、着るモノが少なくていい。身につけるモノが少なくて良いし、着るものが多いと選ぶのが面倒なのだ^^;
サラリーマンなどをやっていて、通勤電車で通っていたときの雨は特に困った。傘という荷物が増えるし、満員電車の中での傘のやり場に困るのは、誰でも経験しているでしょう。
でもあるとき、雨も悪くないな、と思うようにもなった。自分の絵は晴れの絵が多かったのだけど、雨の絵を描いたのがきっかけだったと思う。雨粒が見えるような雨の絵ではなく、しとしと雨特有の薄曇りの絵だった。それまでは曇りの絵さえなかったと思う。
それを描いたときに、なんかいいな、と感じたのだ。自分は日本人だなとも感じた。雨も悪くないな、と感じるようになったのは、自分がそういう絵を描いてからであって、実際の雨が要因ではなかったのだった。
雨の中の紫陽花の絵だったので、紫陽花も良いなと思うようになった。それまでは紫陽花はタダの紫陽花にすぎず、特に興味の対象にはなっていなかった。
なんか良いなと感じ、自分の感性に日本人を感じたのは「しっとりさ」加減だったのだと思う。以来、「しっとり」という感覚にモノ思うようにもなった。晴れの時の絵より、雨の時の方が遙かに奥が深くて、難しいことはムズカシイ。
でもやっぱり外出という事では、雨は好きではない。コソコソと、雨の時の方が都合がいい事があれば、雨は良いと思ったりするかな?^^;; 雨も良いな、と感じるようになるのは、加齢に関係することがあるのだろうか?夏が好きだった人が、暑いのが苦手になり、まだ冬の方が良い、と感じるようになると老化の兆候だと聞いたことはあるが。
北朝鮮の長髪 (2005.1.18)
ニュースなどでよく流されているので、これを見た人は多いだろうけど、北朝鮮では、とんでもないモノが放映されたりしている。
人民カットというのだろうか、男はきれいな短髪が理想とされ、ちょっとでも長めになっていると、その人の姿をテレビで映し、実名を出し非難している。街角インタビューでも、みんなが厳しい非難の声を浴びせている。長いと言っても、北朝鮮以外だったら長いとはとても言えない。むしろ短い方だろう。
あちらの科学では、髪が長いと脳へまわるべき栄養が髪に流れ、その分能力を発揮することができないという。髪を長くすると言うこと自体が、人として恥ずべき事だというのだ。
ウケねらいの番組だったら良くできているが、これがマジだからおもしろい。もちろん女性たちも、その髪を長くした男を酷く非難する。「恥ずかしくないのか!?」などと言う非難である。
画面を見ていて苦笑するしかないのだが、何度かこの北朝鮮の映像を見るたびに不思議に思う。ニュースワイドなどで流れることが多いのだが、誰もこの映像の矛盾点を指摘している人がいないのが不思議なのである。髪が長くすることが生理的にも良くないことである、という理由で長髪を非難しているのであって、男だから短髪にしろ、というのではない。
んだったら、非難している北朝鮮の女はなんなんだ?と。思い切り長髪でパーマをかけている。こいつらは脳にまわる栄養を無駄遣いしていないのか???^^;;;
またまたラーメン屋 (2005.1.20)
ラーメン屋に入った。いや、別に取り立てて「入った」と書くほど、珍しいことではないけど。
ラーメンの中では塩ラーメンが好きなのだけど、昼飯時にそこのラーメン屋を通りかかったら、メニューの中の塩ラーメンの文字が目に入ったのだった。
食券を買って席で待っていると、カウンターの目の前に「心得」という紙が貼ってあった。客としての心得を書いたモノだった。心得なんて言うくらいだから、どちらかというと強制的な雰囲気を漂わせた内容である。こういうおちゃらけたモノは好きだ。もちろん店側も、冗談半分でそのようなモノを貼っている。でも読んでみて、笑えるよりは、疑問を感じたり不快感を感じる内容ではあった。
「心得」の一番最後には
『何度でも食すこと』
と書いてあり、これなどは良い。
でもその他のは、おもしろいとは次元が違うと思ったのだった。
『注文の内容によっては、順番が前後することがある』
『トッピングの内容によっては、ぬるくなることがある』
『・・・(略)・・・ スープは最後まで飲み干すこと』
『食べ終わったら、そっと器を手前にあげて置くこと』
などなどであったが、冗談で書くにもちょっと違うだろ?と、感じながらラーメンが出されるのを待っていた。
『・・・前後することがある』は、通常ならば、『前後することがありますので、ご了承くださいませ』と書かれることで、そんな事で文句を言うなよ、と言われているようだ。
『・・・ぬるくなることがある』は、実際にトッピングによっては、それを乗せることでラーメンが多少ぬるくなることを言っているのだけど、そこを見越して冷めないように作るのがプロだろ??と姿勢に疑問を持ってしまう。
『・・・スープは最後まで』はよけいなお世話。冗談でも書くことか?と思う。
以前、何かで聞いたことだけど、あるラーメン屋のオヤジの話では、ラーメン屋としては麺を全部残されたとしても、スープを全部飲んでくれた方がまだうれしい。ということだった。それはなんかわかる気がする。でも、量や体調によって、旨くても全部飲めないこともあるし、食べ方を指図する書き方に不快感を持った。
『手前にあげておくこと』に至っては、客を教育しているのと同じで、食べ終わった器はあげておいてください、とお願いしている他店とは雲泥の差である。
繰り返すが、これがジョークで書かれているはわかっている。でも、おもしろがるのとはちょっと違うだろ?という内容に思えてならなかった。どうやら人気店ののれん分けか姉妹店、あるいはチェーン店だったようだけど、疑問を大いに感じながらの食事であった。味はまぁまぁで、スープも最後まで飲める感じだったけど、心得が気にくわなかったので少し残しておいたのだった^^;。また今度食べに言ってみよう♪、とは思わなかったな。
努力する姿 (2005.1.22)
基本的に、努力を見せるのは好きではない。自分はこんなにがんばっているんだ、という姿を見せるのは好かない、ということと、努力の結果ではなく元々能力があったのだ、という風に見せたいという、ええかっこしいの部分もあるからだが。
また、自分の本業と呼べる部分に関してだったら、結果だけを見せれば良いのであって、こんなに苦労したんだ、努力したんだ、というのを見せる必要はないと思っている。というか見せるべきでないというか。
まぁ、それでも一般の市井(一般人だから市井なんだけど^^;)ならば、それはそれで別にいいけど、プロの立場にある者だと、努力を見せるというのはちょっと見苦しいと思う。プロなら、技を表すための下積みの苦労を見せて良いとは思わない。
以前、バイト仲間にキックボクサーがいた。一応ライセンスを持ったプロだったらしい。でも、いつも減量の苦しさをうったえて、努力しているのをこれ見よがしにしていた。そして、戦えるはずのない相手(たとえば有名レスラー)を低く見て「あんなのは簡単に倒せる」と息巻いていた。そういう姿を見ながら、こいつはライセンスだけのプロで、心は完全に二流のアマチュアだと思ったもんだった。
演歌というものも、基本的に好きではない。好みの問題で、辛気くさいというのもあるのだが、苦労を売り物にする姿が好きではないというのもある。下積みや人生の苦労を、歌とセットにして売り物にする世界だといえばそれまでだが。
そういうのを微塵も感じさせない、明るい演歌は好きではある。演歌が似合う風景があり、そういう所では演歌が流れているとホッとする、なんてことはある。
加山雄三氏は多才なことで有名だが、彼が手がけるモノはことごとくプロの域に達しているモノばかりである。氏がひどいええかっこしいであることは、以前たまたま見た青春回顧録番組でわかった。ハッキリ言って、見ているこちらが恥ずかしくなるほどのええかっこしいだった。
ただエライと思うのは、そのええかっこしいの自尊心を満足させるために、見えないところで、ものすごい努力をしていると思われる点である。氏が披露するいろいろな才能は、まるで鼻歌を歌ってでもできるんだよ、と言っている感じがする。元から多才なのだ、ということを見せたいための努力なのだと思う。ある意味、プロの姿勢だと思う。
なんかずいぶん偉そうな事を書いてしまったなぁ・・・^^;;;。
仕事しない集団? (2005.1.26)
今は亡き、、あ、いや、もとい、自民党の定年制で引退されられた、中曽根康弘元首相。党の総裁任期に関する規定を変えてまで在任して長期政権を誇ったが、その第二次内閣の時だったと思う。
「今度の組閣は『仕事師内閣』である」という論評(あるいは中曽根氏が自分で言ったのか?)がもっぱらだった。各方面のエキスパートをそろえた、最強の顔ぶれと言うことだったのだろう。
その頃ずっとそれを耳で聞いているだけで文字で見てなかった。なので、しばらくは「仕事しない閣」だと思っていた。野党やなんかが、「知名度だけで、仕事の出来ない『仕事しない』閣だ」と揶揄しているものだとばかり思っていた^^;;。
こういうのも思いこみと聞き違いで、ありがちな勘違いだすなぁ^^;。
「汚職事件」を「お食事券」と思っていた友人を思い出す・・・。
■投稿者:MOTAI 投稿日:2005/01/26(Wed)
聞き違い&思い込み・電車の案内放送編
「次、わかんな~い」・・・えっ?何処に止まるか分からないって?ミステリートレインかよ?んなわけない「次は関内」
「次は聞くな!」・・・ちゃうちゃう「菊名」だよぅ~~
お粗末さまで・・・オヤジギャグ・・・