サラリーマン  (2003.1.29)

 読売新聞のスポーツ欄に、メジャーリーグ・マリナーズのイチローのインタビュー連載が載っていた。うちでは読売はとっていないので、たまに喫茶店で見るのだが、つい先日の回に次のようなインタビューが載っていた。

 もし野球をやっていなかったら、の質問にイチローは、
 「組織の中で自分を殺しながら生きていくことは出来ないタイプなので、自分で何かをやっていたと思う。何かは分かりませんが。サラリーマンはつとまらないでしょう。」
 と、語っていた。
 いつもは、イチローの一言一句にプロの神髄を感じていたのだが、これはちょっと違うと思ったのだ。これはイチローに限らず、サラリーマンを経験していない人の先入観でもあると思うのだ。

 確かに、サラリーマンというのは、会社の歯車という印象があるのは承知している。でも考えようによっては、野球の選手というのも一種の歯車ではあるし、プロならば一年契約のサラリーマンではないのだろうか?
 実力が全ての世界ではあっても、実力があるからといって出場が出来るわけではないのは、補強天国の巨人で明らかだし。選手の気持ちの持ち方の問題だとは思うが、並のサラリーマン以上に、組織の中で自分を殺している部分はあるだろう。

 自分はかつて二つの会社でサラリーマンを経験した。会社勤めをやめたのは、様々な要因によるものであって、「サラリーマンが嫌だから」とか「つとまらない」という理由ではない。勤め人のメリットというのもあるし、それなりに楽しくやらせていただいた。いま、勤め人になる方が、自分にとっていい状態であるのなら、そうすることに抵抗はない。

 通常「ちゃんとした仕事」というのが、「会社勤めしている」というのと同義語になっている風潮があるのは、常々「ちがうだろ!!」と思っていた。でも、逆に会社勤めすることが、「自分を殺す」「歯車になる」と単純に図式化してしまうのも、考え直した方がいい。

最後のテスト  (2003.1.31)

 学生の人たちは、いよいよ卒業を迎える時期が近づいていて、受験生も最後の期末試験は、もう成績には何にも関係なかったりしますよね。

 中学三年の三学期の期末試験。少々表現は悪いけど、消化試合のような感じだったと思います。受けながら、何の意味があるんだろうとも思ってたし、結果はどうあっても関係ないので、初めて気楽に受けることが出来る試験だったとも言えるような。

 で、先生の側にもそういう遊びの部分が出てきていました。ほとんどの教科が、わざと点数をとりやすい試験内容だったと記憶しています。(ちなみに区立中学)
 中でも「粋」だったのが体育のペーパーテスト。答案用紙の左半分にスポーツ選手の名前が並び、右半分にはスポーツの名前が並んでいる。左側に、王、長嶋、尾崎、ガッツ石松・・・と並んでおり、そして右に、(イ)野球、(ロ)ゴルフ、(ハ)パレーボール・・・の様に並んでいる。解答の仕方は、選手名に関係のあるスポーツを選んで、その記号(イ、ロ、ハ・・・)を当てはめろ、というもの。

 何じゃ?と思って、並べていく。当然、自分は知らないスポーツ選手もあるから、分かるものから埋めていく。そのうちにだんだん、教室内から薄笑いが聞こえるようになった。
 そうなのだ!解答欄を埋めた文字を順番に読んでいくと「卒業おめでとう これからも元気でがんばって・・・」という文章が現れたのだ。
 濁音や拗音などは使えないし、正確にどんな文章だったか覚えていないけど、おおよそそのような意味のことだった。(同じスポーツの選手を何度も使ったりして、同じ字を何度か使えるようにしていたのかもしれない)

 出題した体育の先生は、生徒が筋の通らない事をしたり、手を抜いたようなことをした時はぶん殴ってしまうような、若気の至りを見せる先生だった。
 時々はおどけた表情を見せた事もある先生だったが、一本気で、でもとても信頼できる印象はあった。その先生のめいっぱいの祝福でもあったのだった。

継続定期券  (2003.2.2)

 まだ定期券は窓口でしか買えなかった頃。大阪・梅田で、窓口に並んでいる時の、窓口職員とお客の女性の会話。
 女性は大学生かOLで、定期を「継続」で買おうとしていた。

 「あ~、えっと、、申し訳ありませんが、これですと、新規でのご購入になりますねぇ」
「えー?、、断続(だんぞく)じゃ買えないんですか?・・・」と、小声でポツリ・・・。

ラーメン屋のBGM  (2003.2.5)

 新宿のラーメン屋に入りました。割合新しい店でした。その数週間前にも、新宿の別のわりかし新しい店に入ったとき、なんか変なんだよなぁ、と思ったら、BGMがモダンジャズだったんです。
 で、今回の店も、雰囲気はまあまあなのに違和感があるなぁと思ったら、やっぱりBGMはモダンジャズ。新宿のラーメン屋はジャズの有線がはやってるのかなぁ?

 そのジャズの音楽自体はとてもいいのです。でも、はっきり言ってラーメン屋にジャズは合わない。しかもモダンジャズは。
 やっぱラーメン屋は、歌謡曲か明るい演歌でしょ。そうでなければ、AMラジオの垂れ流しみたいなやつでも。(うちの近所がそうです^^)
バックにジャズじゃぁ、思わずワインでも頼みそうになってしまう。店内が奇妙に落ち着いちゃってるし^^;。

真夜中のサイクリング  (2003.2.7)

 プロフィールの「愛車」にも紹介していますが、今時自転車部でもなければ、ほとんど乗っている人もいないサイクリング車に乗っております。ゆっくり(と言ってもママチャリよりは相当速い)と、長距離を走るのが好きです。

 でも、大阪に3年間いた頃は、いわゆるママチャリに乗っていました。主に買い物用途です。休みや夜に、軽いサイクリングをするのが好きでした。

 アパートから1kmくらい南に淀川が流れていました。東京方面で言えば、多摩川下流の雰囲気によく似ていた。そこの土手にはサイクリングコースがあり、好きでよく走っていました。
 結構好きだったのが、真夜中のサイクリング。別に怪しい目的ではありません(ホントだってば;;;)。でも一度、黒いTシャツに黒ジーンズで出かけかけて、あわてて着替えに帰ったことがある。あれでは覗きに行ってきますと言っているようなもんだ。

 時間にしたらだいたい10時とか11時頃。各家庭とも、食事や団らんが終わって、速い人は就寝、そうでなくても一人で過ごす人が多い時間。静まりかえった住宅街をゆっくり静かに走るのは、何とも言えない雰囲気です。ひと気の無くなったような辺りで、ポツンと部屋の明かりを見つけると、とてもホッとした気持ちになる。そして、夜静かな道で見る青信号の、なんと鮮やかできれいなことか。
 住宅街を抜けて、淀川へと抜けていきます。テレンコテレンコと自転車で走っていきます。遠くに見える明かりや、土手の脇に見える倉庫や工場の常夜灯が、これまた何とも良いのです。昼間、一生懸命働いた工場が、静かに体を休めている感じで。

 ある夜、土手を走っていると二人のお巡りさんが待ちかまえている。懐中電灯をこちらに向け、「何やってるの?今頃」。善良な一市民が自転車で走ってたらあかんのか?と、思ったが午前0時に走っている方も問題か?

「学生さん?」
「あ、いえ、会社員ですが」
「これ、貴方の自転車?」
「はい、同じアパートの同僚と割り勘で買ったんですが」
 お巡りさんは、盗難防止ステッカーを照らすと、あっちゃー、半分はがれて無くなってる。。。
「ちょっと調べさせてね」と言い、ポリさんは無線で盗難自転車を調べる。数分後、疑いは晴れ解放された。

 数ヶ月後、再び土手でお巡りさんに捕まった。でも少々早い午後11時半頃。このときは、お巡りさんも少々きつかった。近くで殺人があったらしく「早く帰んなさい」と追い払われた。このときもお巡りさんは二人だったが、調べるために廻っているときは、一人ではいけないのですね。必ず二人一組になり、捜査の時はお互いがその目撃証人になる。だから、一人で捜査して廻っている刑事ドラマは間違いなんです。

 そして、「関西支店のおもちゃ」と呼ばれていた小生のエピソードがまた語られる。
「おもちゃ、こないだ補導されてんで。アホやん」
「いとう、おまわりにつかまってん」・・・
何故、みんながそんなことを知っているかというと、当然、いちびりたる自分が、自分の失敗をギャグとして語らずにはいられないからであったのだ。

白と黒  (2003.2.9)

 ふっと、おかしな事が頭をよぎった。

 以前、白はとてもきれいな「色」なんだと気づいたことがある。絵を描くとき、普通は白い紙に描くのだから、白は色と言うよりは「何もない(何も塗っていない)」というイメージが強い。でも、それは絵の具で描く場合のことで、光ではどうか?
 光の場合は、全ての周波数の色が混じると白くなる。何もないときは「黒」なのである。テレビを考えれば分かる。

 絵を描いていると、紙の色が基本になり、通常それは白系統である場合が多いから、白が何もしていない状態を意味する。
 そういうイメージが普通になっているので、ちょっと光の問題が心をよぎったとき、不思議な感覚だった。

 だからどうしたと言うことはないのだけど、ただそれだけです。^^

夕暮れのハシブトガラス  (2003.2.11)

今回は何となく夕暮れ時の描写です。何の内容もありません。

 (ナレーション)
冬の東京の夕暮れ時、電柱のてっぺんに一羽のハシブトガラス。
身じろぎもせず、暮れなずむ西の空をただ眺め入っている。

(音楽) ~ヴィヴァルディ「四季」の冬~

 とある世田谷の住宅街。
五キロ離れた新宿では、薄暮に霞むNTTドコモの積み木タワーを背景に、夕方のラッシュアワーが始まるころだ。
 1キロ向こうの環七からは、時速40キロ(!)の制限速度を無視しようにも、なかなか前に進めない車たちの排気音が、軽やかな風の声となって届いてくる。
まるで、空の奥に反響して、デジャブのように届いてくる。

 近くを走る小田急線の踏み切りも
「ルンルンルンルン♪」という、軽薄な警報音をひっきりなしに奏でている。
虎模様の遮断機を上げちゃぁ下げ、上げちゃぁ下げと、開かずの踏み切りの本領を発揮している

 この踏み切りの警報音も昔は、一台一台に取りつけられていた鐘を
 「キャランキャランキャランキャラン」と、素朴な民族楽器のような軽い音色で、点滅する赤いライトのリズムにあわせて鳴らしていたものだ。
遮断機が上がると
 「キャランキャラーン、キャラーーン、、、キャラ、、」
と息絶えていった。
(世田谷線や江ノ電では今でもその警報鐘がある)

 ビニール袋を下げた使用人を従えて、ご主人様の散歩が佳境に入るのもこのころだ。

 小一時間もすれば、ぼやけた夜空があたりを覆うだろう。
物思いにふけるように夕日を眺めていたハシブトガラスもそろそろ家路に発とうかとしている。
都会のカラスは童謡のように七つの子の待つ山へと帰るわけではない。
都会のカラスは都会の中にある森の中に集まって眠るのだ。

(「つづき」はありませんよ^^)

美術品の価値  (2003.2.13)

 もう新聞テレビで騒いでいるので、皆さんもご存じでしょうが、ゴッホの絵。オークションで最初は「ただの平凡な絵」で、1万円程度の落札と思われていたのが、実はゴッホの絵であると言うことが判明して6600万円で落札された「事件」です。
 知人がたまたま、最初の日に絵を買いに行っていたらしく、突然そう言うことが分かって、取材陣が押し寄せたりして混乱したそうです。

 多くの人が同じ事を思ったでしょうが、自分の感想も「なんだかなぁ・・・」です。ゴッホの絵が発見されたというのは良いことでしょう。資料的価値は非常に高いでしょう。ただ、結局は作品としての価値は、誰も評価していないと言うことですね。どんなすばらしい作品か?ではなく、誰が描いたのか?でしか評価していない。特に日本はその傾向が強い。

 以前、上野の何とか展というのに、有名画家が匿名で出品して一次選考で落選した。ところが内部で出品者が判明して、あわてて入選にし直したというケースもある。
 今回のゴッホの絵が、ゴッホだと判明しなかったら数万円程度で売られたんだろうし、同じようにどこかの家の片隅に埋もれているゴッホや、他のお宝級の画家の絵もたくさんあるのだろう。
 元の持ち主だった中川画伯は、ゴッホだと知っていたのか、誰の作品だか分からないけど魅力を見抜いていたのか、それともただ持っていただけなのかは闇の中だ。
 今回も判明したとたんに、その作品のすばらしさを語るコメントがあったが、はっきり言ってうんざりである。あんたは、もしそれが無名の画家の絵だったら、絶対にそんなことは言わなかっただろうに、と。資料的な価値でのすばらしさではなく、絵自体のすばらしさを語っていたのだから。

 自分は美術界のことや、画家のことには疎い方です。券をもらったので見に行ったけど、くだらなかった、と言う展覧会が、実は日本有数の画家のものだったと言うこともある。好みの点でも、作品の質の点でも・・・。

 ゴッホの絵を6600万円で落札したのは、広島の建設会社の社長さんでした。落札の理由は「このまま、また名画が海外に流れるかと思うと、黙っていられなかった」と。これもよく分からない。落札したのが日本の伝統美術であるのなら分かるが、ゴッホである。かつて日本美術が、ヨーロッパへ山のように流れてしまったのとは意味が違う。自分だったら、ゴッホにゆかりのある団体か、それ相応のところに作品が戻った方が良いと思うのだが。
 作品としての質よりも、作品の持つ値打ち(金銭的な意味ではなく)を考えて、特に絵が好きではないけど、保護(?)のために大枚をはたいて絵を買うというのは理解できるが、今回の騒動はやっぱり腑に落ちない。

悪い人  (2003.2.15)

悪い人と、悪いことをした人って、全然別のことなんですよねえ。
当たり前のことだけど、本を読んでいて、ふと新ためて思ってしまった。


何人かの方から、「新ためて」ではなく「改めて」ではないのか?というご指摘をいただきました。 これはもちろん正解は「改めて」なのですが、「気持ちも新たに」という感覚だったので、あえてこういう漢字を使いました。漢字変換も出来ないので、わざわざです。

東京弁と大阪弁  (2003.2.18)

 しょうがないのかも知れないけど、「標準語」という表現って、適切なのか?とずっと思ってきた。いわゆる「東京弁」=「標準語」と言うことになっているけど、本当に元々あった東京弁がそのまま標準語になったのかどうかは知らない。

 自分は東京生まれの東京育ちだが、東京での人間関係がとても苦手だった。うまく自分を表現できないし、相手の真意もよく分からなかった。学校を出て、就職し、配属になったのが関西支店、大阪である。その数年前から大阪のAM放送が好きで良く聴いていたため、大阪弁にはとても親しみがあったし、感覚的にも大阪の方に好感を持っていた。
 で、関西支店で紹介されたわけだが、「東京の大学へ行っていて、就職で大阪に戻ってきた」と思われていたらしい。皆の思うような東京人らしさが無かったらしい。

 暮らし始めると、とても暮らしやすかった。何よりも大阪弁は、自分の気持ちをストレートに表現しやすいと思った。だから、相手の気持ちも感じやすい。自分でそう思っていただけかも知れないが。
 ひるがえって考えてみると、東京弁は、相手がなにを考えているのか、つかみづらい言葉であると感じる。自分で思っていることを、いったん建前の表現に置き換えて言葉にし、相手はそれを受け取ってそれを解析する、というそれぞれ二段階の作業が必要であるように感じるのだ。

 「仲間」という場合でも、大阪では「とにかく入れや♪」と受け入れ、ダメな場合ははっきりと「あかん」という印象。「おまえ、あかん」でも、仕事は仕事でしっかりやろう、という印象であった。東京では、その前に「仲間に入れるかどうするか?」という感じがある。

 もちろんこれらは、わずか3年間大阪に住んだ自分の経験からだけのことであり、偏見も誤解もあるだろう。最近はどうだかわからないけど、自分がいた頃はまだ、東京弁に対する反感はあった。かくいう自分も東京人のくせに、一年後東京から来た後輩に東京弁でしゃべられると「なんや、こいつ・・」なんて思ったものだった。(遠い目・・・)

 ただ、この違いは、言葉の持つ性格の違いと言うよりも、それを操る人間のせいかもしれないとも思う。大阪に比べ、東京の方がいろんな地方からの移入者が多いだろう。
 そのために、自分をすぐには表に出さずに、相手に探りを入れる、という風になっていったとしても仕方ないとも思うからだ。

雑記帳11< エッセイメニュー >雑記帳13