テレビからラジオへ 2012.12.1
母上が西武新宿線の新狭山駅にある介護病院へ入所してもう2年半になる。最初の一年くらいは何とか形の上だけでの会話も少しはできたが、今はたまに「エ~?・・」とか「ホントカィ・・・」という弱々しい反応があるのが珍しいくらい。こちらが誰であるかもほとんどわかっていない感じか。知っている人だというのはわかるようで、こちらの声や顔には他人よりも良く反応はする。
さて、ベッドの脇には小さいテレビを置いていた。何か音や人の声が常にしている方が良いと思ったし、家では良くテレビを見ていたので。最初の頃は好きだった水戸黄門などの安心してみられるドラマが夕方に再放送していたので良かったが、今や高齢者が見られるようなドラマは皆無。頭がハッキリしていないと内容もわからないドラマも多いし。しかももう半年以上も前から、母上は寝ていることが多い。面会に行ったときには無理矢理起こすのである^^;
ずっと前から、懐かしい曲や好きだったクラシックを聴いてもらうのは良いのではないかとは思っていた。それで数ヶ月前からiPodにつないで簡易的に音楽を聴けるモノを買って試してみた。枕元に置けるもので音も良い。懐かしい歌謡曲なんかをかけると、音がするので反応するという事もあるが、明らかにその曲を懐かしんでプレイヤーの方へ顔を向けたりもする。特に「上を向いて歩こう」や好きだったブルーコメッツなどで、一番良く反応したのはスパイダースの「夕焼け」だった^^;(聴いているというより「反応」と書くのも寂しいが)
面会には毎週木曜日に行っている(連れ合いのサロンの定休日が月木なので)が、そのときだけそのように音楽を聴いてもらったりしている。面会以外の日に、さすがに看護婦さんやワーカーさんにそこまではお願いできないし手も足りない。つまり普段は意味も無く(?)テレビをつけてもらっているだけ。もちろん全く画面には目を向けないし、何かわからない音が鳴っているだけだろう。
今の病棟は古く、法律改正(詳細は略)に合わせて、すぐ隣に新しい建物も出来上がっている。来月には全移転する模様。現在は「狭山博愛病院」という名称だが、新しい施設は「狭山博愛」になる(博愛といってもキリスト教系ではない)。病院ではなく施設になるのである(特養などでもない)。最期までお世話になるのは変わらないが、一応新たに入所手続きはすることになっている。
そんなタイミングも考え、もうテレビはやめてラジオを置こうかと考えた。大概の場合意識が混沌としてきても耳からの情報の方が良く入るのは知っていた。ラジオなら映像に頼らないので言葉が多いし表現も豊か。それにFMなら音楽も多い。NHK-FMなら音楽も中高年以上が聴けるモノもたくさん流してくれるだろう。
ということで、先週からラジオに変えた。うちで使っていなかったCD+FMラジオプレーヤーで、iPodもつなげる。ボタンがややこしいので、オンオフのスイッチを目立つようにしてワーカーさんに朝晩のオンオフを頼むだけで済む。それでどれだけ本人には良いのかどうかはわからない。こういうのは本人よりもこちらの満足である場合がほとんどだし。
病院からの電話 2013.5.13
母上が狭山の介護病院に入って3年が過ぎた。もうすぐ、すぐ近くに建てられた新しい建物に全員移転するが、病院では無く特別な認可の介護施設になる。やってくれることは今と同じらしい。
病院からは時々携帯に電話がある。単なる事務的な連絡だったり、熱が出たとか、特別な状態の連絡もある。大抵はたいした症状では無く、点滴を打ってもらったり、何らかの処置をしたあとでの事後報告である。
今日の午前、携帯が鳴り発信者が病院だった。病院から電話があったときはいつも
「とうとうきたか・・・」と思う。
電話はすべて、最初は受付の方が電話口で話す。 「それでナースステーションに変わりますね」となることが多い。一番多いのは、必要書類(いろいろな更新)にサインをして欲しいというモノ。電話の相手が顔なじみの方で、笑顔声だったりすると、そういう用件だなとわかる。
でも今回は久々に、受付→ナースステーション→「医師に変わります」と言われた。あぁ、本当にとうとうきたか?と思った。
どうやら二日間熱を出して、点滴などの処置をしたと言うことだった。食事は8割取れているし熱も下がったので問題は無いが、一応そのようなことがあったという連絡である。
高齢者の、とくに介護病院に入っている老人は、いつ状態が急変しても不思議では無い。母も時々熱を出すが、医者も正直言って確かな原因はわからないと。
というのも、寝たきりの状態になると、原因は様々なことが考えられ、よほどの症状で無いと特定が難しいのだとか。
毎週木曜日に面会に行っているが
「今週も面会に行きますが、かまいませんか?」というと、医師は
「あ~、全然問題ないですよ^^」との事だった。
やれやれ^^;;
久々の反応の良さ 2013.8.15
8月頭に今まで入っていた「狭山博愛病院」はなくなり「狭山博愛」となった。それまで特別認可の介護病院だったが、法律の改正なども有り「介護療養型老人保健施設」となったのである。新しい建物は今までの病院の隣に建てられた。パンフレットによると「医療行為の出来る新しいタイプの老人保健施設」ということである。
通常、老健(老人保健施設)というと、家に帰って生活できるための療養所で3ヶ月しか入れない。この狭山博愛の場合は、今まで通り最期までお世話をしてくれる。
前々回に、母上のベッド脇のテレビをラジオに変えたと書いた。ヤマハ製で音質も良く、ラジオはFMのみ、そのほかにはCDとiPodを聴くことも出来る。それで普段はラジオを、面会に行ったときにはiPodで懐メロやクラシックなどを聴いてもらっていた。
このオーディオ機器はFMはテレビアンテナから受信する方式であった。通常のテレビと同じようにアンテナにつなげばFMを受信できたのである。もしくはよくやるように、端子につないだケーブルを室内の高いところにT字型に張って受信する。
新しい建物に移って最初の面会に訪れたとき、ラジオのスイッチは入っていなかった。バタバタして以前のような態勢になっていないのかな?と思っていたが、スイッチを入れてもウンともスンとも言わない。表示部を見ると作動はしているようだが、スピーカーからは何も聞こえない。思い切りボリュームを上げたら「ザ~~~~~」という雑音だけが出てきた。ちゃんと受信できてないようだ。
原因はわからないけど、とりあえずその日はiPodで音楽を流し、後で調べてみることにした。
帰ってネットで検索して見たら、理由はすぐにわかった。同じような現象で質問をしている人が無数にいた。
要するに、いままでの地上波アンテナではFMを受信できたのだが、地デジアンテナにはFM電波は含まれていないのである。そのため同じ機器を使おうとすると、前述のように室内にケーブルを張るか、FM専用のアンテナを設置するしかない。でも症状や患者の兼ね合いなどによって部屋を移ることは日常茶飯事なので、そんなことは出来ない。これはもう普通に受信できるラジオを持ってくるしかないのであった。
都合の良いことに、ヤマハの機器を持ってくる前に母上用に病院で使っていたiPodをつないで鳴らすスピーカーと、ほとんど使っていないFMが受信できるラジオがあったので、それと交換することにした。
今回交換してみて何の支障もなかった。ラジオもキンキンするやつではなく落ち着いた音のでるやつだし、こんなちゃっちく見えてiPodプレーヤーも良い音が出るのである。
また、この日驚いたことは、母上が久々に反応が良いのである。
もう1年近く、ほとんど起きることもなく、起きても意識がハッキリしているのかいないのかわからない感じで、話しかけても何をしても何かしらの返事が返ってくることも希だった。唯一反応があったのは、寝ているのだが完全に寝入っているわけではないときに話しかけると、うわごとのような返事をするときくらいであった。目を開けると返事をすることはない。たぶん目を開けてモノが見えてしまうと、自分がどこにいて何をして何が起こっているのか、というギャップがあるからなのではないか、という感じもする。まぁ母上本人が自分が誰だかわかっているかどうかも怪しいのだが^^;;
で、この日は面会に行っている間はほとんど起きていた。話しかけるとそれまでに比べたらきびきびと顔をそちらに向けていた。通常の話では全く意思疎通はできないので、聴いてもらっている懐メロの曲に対して「ほら、〇〇だよ」とかいうと「そうかい」のような返事をする。連れ合いが話しかけても、なんかしらの返事らしき言葉を返すことも少なくなかった。
2年くらい前、もっとそれなりに話が出来たときは、熱を出して点滴をしてもらった直後に非常に反応が良いときがあった。今回も何か特別な点滴したのか?などど連れ合いと話していた^^;
まぁとりあえず、久々にこのコーナーに書くようなネタがあった日だったのだった。
認知症の理解 2014.2.22
母上の在宅介護が不可能になって、現在の施設(介護病院:狭山博愛)に入って4年目を迎えようとしている。もうほとんど目を覚ますことがなく、たまに目を覚ましてもボーッとして、おそらくこちらが誰だかわかっていないと思われる。顔を見たり声を聞いたりするとちょっと反応は違うので、記憶の琴線に触れるのかもしれないが。
目を覚ましても声を発しなくなって(その力がないのかも)、もう1年以上になるのかなぁ。それでも毎日の食事(完全流動食)はほぼ完食なので、底力はあるなぁ、、と^^;
最近、どんどん認知症についての新しい話題を聞くようになってきた。認知症の方はどのような事を考えてるのか、どのような世界を築いているのか、どういう状態なのか、またどのように接するのが良いのか。
自分も9年弱、認知症の母上を介護してきたので、介護する家族の気苦労は痛いほどわかる。その当時でもそれなりに言われてきた対応の仕方も、第三者なら出来てもなかなか介護する家族では出来そうで出来なかったりもした。今なら他の認知症の方に適切な対応が出来ても、当時は頭ではわかっていてもなかなか出来るものではなかった。
それでも最近のいろいろな認知症に対する発見や対応を聞くと、もっと自分が介護しているときに知りたかったということは多い。それは母上ともっと上手く接して、良い時間を過ごさせてあげられたんじゃないかと思う部分と、自分も精神的にもう少し楽になれていたかもしれないと思うからである。
自分の家にいるのに「家に帰りたがる」というのは良くある症状である。うちもご多分に漏れずそんな事は少なくなかった。急に「〇〇へ行く」と言い出す人も少なくない。昔良く行っていたところや職場だったり。
なぜそのようになるのかはもちろんそれぞれなのだが、多くは不安感が原因になっているようだ。不安というのはもちろん精神的な不安だが、純粋な精神的な不安の場合もあれば、身体の不調による場合もある。
その多くが「脱水症状」と「便秘」によるものであるというのがわかってきたが、これは本当に自分が介護中に知っておきたかった。
どうしても水分を摂取する量が減りがちになり、人間は意外にちょっと身体の水分量が減るだけでも精神的な問題を起こす。最悪の場合は意識混濁や意識不明に。
また水分不足は便秘にもつながるが、便秘によるちょっとした身体の不調が「家に帰りたい」につながることがあるなんて思いもよらなかった。頭がしっかりしていれば体調不良を自覚できるが、認知症の方はそれが上手く自覚できず、身体のちょっとした不調が気持ちの不安に表出したりするようで、そういう別の行動に出たりする。
認知症になると呆けて鈍くなると思われがちだが、感情的には敏感になっていることが多い。介護する家族のイライラや不安感、もっと進むと被介護者への敵対心などを敏感に察知して精神的な不安感を大きくする。「自分にこんな辛い思いをさせるのは息子(娘)のはずがない」という強い不安が、急に「あんたは誰?」という事になったり。その場合は本当に自分の肉親とは認識していない。
自分が介護していた頃、と言っても4年以上前だが、徘徊や「家に帰りたい」などの介護者を「困らせる言動」は「問題行動」と呼ばれたりした。そのうちにそういう呼び方はされなくなったが、それは認知症の方の立場で考えていない見方だったからである。
普通の人が意味もなく散歩に出かけるのは良くて、認知症の方が表へ出て行くのを「徘徊」と決めつけるのはなぜなのか。そこにはどんな違いがあるのか。あえて言えば、徘徊の場合は自分でちゃんと帰ってくることが出来ないケースが多いということかと。そういう点を踏まえて対応する考え方が主流になってきているようである。「対応」という言い方も介護側優先なのだが。つまり認知症を普通の状態ではない、病気と同じモノとみてしまうかどうかなのかと。
じゃぁ、介護のプロ側でそういうのがきちんと出来ているのか?というと、必ずしもそうではないだろう。相変わらず人手不足で対応する側もテンパって感情的になってしまうことはあるかと思う。
でもそれでも、認知症の方(認知症患者と呼ぶのは違う気がするので)の事をよりよく知り、どのようなお世話が必要なのか、どのような対応(“対応”という単語は適切ではないと思うが適当な単語が見当たらない)をするかについて、よりよい考えが出てきているのはとても喜ばしい。
繰り返すが、そのような考えが自分が介護しているときにもっとわかっていたらきちんと対応できていたかどうかはわからない。介護家族の一番の気苦労は「介護がいつまで続くのかわからない」という点が一番大きいからである。際限なく続くと思っても、いつまでも優しく適切にお世話が出来るほど悟っているなら別だが。ただ当時困っていたりこちらも不安だったことの原因が現在のようにわかっているだけでもかなり違っていただろうとは思うのであった。
旅立ち 2015.4.3
2015年になって、母上の容態は一層低空飛行になっていった。昨年から口を通しての食事ができなくなり(嚥下力が無くなり)、点滴や鼻から胃へと管を通しての栄養補給となっていた。流し込まれる流動食でも口から摂れている状態から上記状態や胃瘻になると、極端に体力も無くなっていくのは良く聞くのだが、その割には目に見えた変化はあまり感じなかった。
それも2015年になると身体が衰弱していると医師からの連絡を受けるようになった。施設へ行ってみると言われるほどの悪い変化には感じず、ワーカーさんや看護師さんも「ちょっと調子が悪いわね」と言う^^; 医師は数値を重視して看て、お世話をしているワーカーさん達は状態を見ている違いなのか? それで「かなり衰弱しています」「お住まいは?下北沢?・・・、いざというときは間に合わない可能性が高いですね」という連絡をもらうようになった。
1月下旬頃だったか、ヘモグロビン値が非常に低いというので輸血をすることに。そのとき初めて輸血も「移植」という概念なのだと知った。輸血の場合は事前に承諾が必要なので急いで施設へ行くことに。そのときは顔色も悪く足もとは真っ白になっていた。
次の週に行ってみると顔色も元に戻り、足も赤みを帯びており全体の状態として完全に復活していた^^ 看護師さんも「この年代の人は強いわねえ^^」と。それでも急変していつ逝ってもおかしくはない状態になったので、通常のケアプランから「ターミナルケアプラン」に移行していた。最期をその施設で迎えるためのプラン(お世話)である。規則により毎週「看取りは狭山博愛(施設の名前)で良いですか?」と電話での確認がある。
そんなこんなで、少しは落ち着いた状態が続いていたところに急遽施設の医師から電話が入った。呼吸の状態が悪くなりレントゲンの結果肺炎と思われる。おそらく今から施設に向かっても間に合わないだろう、と。
とにかくすぐに向かうことになり、自宅でのエステサロンの予約が終わった連れ合いと急いで小田急線に乗った。そして家を出てから20分も経たない車中で「今、こちらへ向かっておられると思いますが、先ほど(3月18日)14:48に和歌子様の死亡を確認いたしました」との携帯電話が。
お世話をできる体勢を考えても家で看取ることは不可能だったし、急な知らせだったので泊まり込むという事もできなかった。今年に入って何度も連絡を受けている状態からして、看取りに間に合わないだろう事はほぼ予想はできてはいた。規約にも明記されているが、狭山博愛では自発呼吸ができなくなったらご臨終で延命は行わない。自分もそれで良いと思っていたし、旅立つときが来たら自然に旅立つのが良いと思っている。
2001年6月に小脳梗塞になって母上の介護が始まり、2010年に状態が急変して在宅での介護が不可能になり4月16日に狭山の「狭山博愛(当時名称「狭山博愛病院」)」に入所した。あと1ヶ月で丸5年になるところだった。正直、入所時はもっても数年だろうと予想していた。良く5年ももってくれたと思う。約9年の在宅介護と5年の介護病院での生活。母上は14年ぶりに自由な身体になったのであった。
在宅での9年弱、介護病院での5年と、その方面でお世話になった多くの方々には改めて感謝いたします。そしてそれ以前には他人事だった介護に関して多くのことを学びました。
最期というのは、他の感覚器官が働かなくなっても耳は機能している場合が多いと聞いたことある。看取りの場面ではいろいろな思いを込めて言葉をかける方が多いでしょう。自分もそれについて考えたことがあった。今回母上の看取りには間に合わなかったが、もし間に合っていたら「元気で行ってきなよ」と言ってあげようかと思っていた^^ 享年八十八歳。