●今の人は、物マネをしてすぐに芸術家になりたがる。
ちょっと人と変わったもんつくったら、自分は芸術家だと言いますわな。
昔は芸術家みたいなものはおまへんで。みんな職人でんな。
職人のなかで達した人が、後世になって芸術家と言われるんで、
生きているうちに芸術家と言われる人はおらんわ。
(西岡常一著「木に学べ」)

●学校と違って、百点を取ったら偉いというのとは違いますのや、仕事は。
百点を取るのが当たり前なんです。
      (中略)
一人前というたら百点の仕事をこなすことですわ。
それが八十点だったり、五十点ではいかんのです。一人前とはいえないんです。
学校なら八十点なら、まあ合格だし、
クラスでは平均よりいいから自分でも、まあいいかと思いますでしょうし、
先生も親も「八十点だからいいやろ」といいますな。ところが、仕事は結果に出るんです。
「この寺は八十点の出来ですから合格です」
というて一人前のお金をもらうのは間違っておりますな。
そないなわけで褒めるということはないですな。
(西岡常一著「木の命木の心(天)」)

●優れた芸術は才能によって成るのではない。すぐれた芸術をなした凡俗を、人が才能と呼ぶのである。そして芸術は、本来自分とどこも変わらぬすべての凡俗のためにのみ価値ある、普遍の娯楽の異名である。すなわち、「先生」の称号に甘んじて特権を供されることは、とても恥ずかしいと私は思った。
(浅田次郎著『ま、いっか。』)

●(前略)そうやって書き出したころ、池上義一という人を紹介されたんです。知り合いに「同人誌を主宰してて、才能ある若手を探してる。会うてみいひんか」と言われて。ちょうど、還暦ぐらいでした。原稿を預かって帰られたら、すぐ電話がかかってきて「君は天才や。すぐ、ぼくの家に来なさい」って言うんですよ。そのときは(持病の)パニック障害が起こらなかったですね。いくら電車乗っても。
  そしたら、書き出しの1ページを鉛筆でガガガッと消したんです。「これなしで、次のページのここから書き出せるようになったら、君は天才になれる」って言うわけ。腹立ちましてね、「そこが、いちばん気に入ってるんです」と言ったら、「そう言ってる間は君は永遠にアマチュアなんや」って言うんです。「あんなおっさんに何がわかるか」思うてね。帰りは発作が起こるし。
  3時間ぐらいたって気持ちが落ち着いてきて、最初の1ページなかったものとして読んでみたんです。そっちの方がいい。この1ページ、何を書いてるんやろと思ったら名文を書こうとしてるんですね。つまり声の悪いやつが高らかに歌ってる。自分は気持ちいいけど、聞いてる方はたまったもんやない。「こういう文章を全部とったらいいんだ」と思って、電話しましたよ。そしたら「3時間でわかるとは偉い」と言われた。全部で20枚分くらいありました。自分が気持ちよく書いている文章をとっていったのが、『螢川』なんです。
  池上さんは「長いこと便所にいると、においがわからなくなってしまうのと同じで、いっぺん出た方がいい。『螢川』は少し置いておこう。気づいたことをすべて生かして別の小説を書きなさい。すぐ書ける人間でないと、プロにはなれない」と言われた。それで『泥の河』を書いたんです。『泥の河』を書いて得たもので、『螢川』を手直しした。(『螢川』で芥川賞受賞)
(作家宮本輝 朝日新聞2009年4月6日「人生の贈りもの」より)

●ドアを静かに叩いた。中年の女性が顔を出した。そのやさしい顔を見た瞬間、突然、この女性にはどんな”ホラ話”をしたらいいかが霊感のように頭に浮かんだ。おわかりと思うが、物乞いが成功するかどうかはうまい話をでっちあげられるかどうかの才能にかかっている。まず最初に、その場で、相手がどういう人間か”見抜く”必要がある。そのあとで、目の前のカモの性格、資質に訴えかけるようなウソを並べたてなければならない。ここのところが非常に難しい。カモがどういう人間かを見抜いた瞬間に、ホラ話を始めなければならない。準備の時間は1分たりとも許されない。稲光のように瞬間的に、カモの性格を見きわめ、相手の心にぐっと来る話を考え出さなければならない。放浪者として成功するには芸術家にならなければならない。
  ごく自然に、その場で瞬間的に話を作り出さなければならない。―――話の内容も、自分の想像力から選び出すのではなく、ドアを開けた人間の顔から判断してこの相手にはどういう話がいいか考える必要がある。男か女か子どもか、やさしいか気難しいか、寛大なのか狭量なのか、善良かねじくれているか、人種偏見の持ち主か友愛にあふれた人間か、田舎者か都会者か、相手が誰であれ、このやり方は変わらない。
  私が作家として成功したのは、若いころあちこち放浪していた時代に経験したこの訓練のおかげではないかとよく思う。生きるための食べものを手に入れるために、私はさも本当らしく聞こえるホラ話をしなければならなかったのだ。短編小説の名手に必要な説得力と誠実さは、やむにやまれぬ必要から他人の家の裏口に立つことで習得されていく。それにまた、私がリアリストになれたのは、若いころの放浪の経験のおかげだとも確信している。食べものをもらおうと台所のドアに立ったとき唯一使える手段は、真実に近い話をするというリアリズムの精神なのである。結局、芸術とは完璧な巧妙さでしかなく、巧妙さこそが”ホラ話”を作るのだ。
(ジャック・ロンドン著『ジャック・ロンドン放浪記』)

●感受性と感傷癖とを混同してはならない。
(アルマン・ドゥルーアン著『絵画教室』)

●まだ駆け出しの頃の志ん朝さんが、
「お父ちゃん!!!噺てぇのァどうやったら面白くできるの?」と、父子の間だから、さぞ秘訣を伝授してくれるだろうと思ったのだろう、
「ツマリソレハ、面白くやろうと思わないことだよ」
  と志ん生師が答えた。
「落語はもともと面白くできてるんだから、素直にそのままやればいいのだ。それを無理に笑わせようとしたり、わざと面白くやろうとするからつまらなくなっちゃう」
  志ん生師は我が子に、こういうことを言いたかったらしい。
(中略)
  それ以来、この話はボクの座右の教訓である。近頃お客さんに受けないなァとか、自分でも納得がどうしてもいかないとういうときに、志ん生師父子のやりとりを自分にぶつけて点検してみると、きっとそれだった。本来の噺の本意をそっちのけ、くすぐりに重点を置いて受けたがっていたり、ギャグや入れごとばかりにとらわれていたり等々にきっと思い当たった。
  そういってみれば、若手ベテランに限らず仲間の話を聞いても、ギャグや入れごとがいのちという人の噺には心の底からボクは幸せになれない。笑うことは笑っても、笑わせられたという疲労感が残るし、多くの場合は笑えない。
  それとは逆に、演者の姿がいつのまにか消えて、登場人物が見えてくる人の芸を聞くと、わかりきっている噺でもついつい引き込まれて笑ってしまう。感動してしまう。
(中略)
  まともにやって面白い、それを芸というのだ。
(柳家小三治著「落語家論」)

●最初の旅ではカメラの代わりにスケッチ・ブックを持っていった。今あらためて当時のスケッチ・ブックを見るとなかなかいい。稚拙だが、そこに「見る」営みの集積がしっかり表れているからである。
  スケッチでなくても、すべての絵画が「私」というフィルターを通して表現されることを疑う者はいないだろう。それは写真も同じことで、異なるのは絵というものが対象を見つめる時間と感情の集積によって成り立つのに対し、写真は十分熟成した理解のあとに、数百分の一秒の現実を切り取るという行為によって成立していることだ。「私」というしっかりしたフィルターなくしては、絵も写真も表現手段になりえない。画家から写真家へ転向した人は多いが、それは写真に美的感覚が要求されるというだけでなく、写真が、対象を深く見つめるという画家の習性を歓迎するからだと思う。
(日比野宏ほか著「写真家はインドをめざす」より 山田和氏の項)

●あの頃(中世)の彫刻を作った人たちは、今でいう彫刻家ではない、芸術家ではないんですね。あれは彫刻を作る石工、石の職人なんです。その作品に、たとえば千野茂とか舟越保武とかいう署名がないんです。作家ではなく、石工として仕事してるんです。そこのところに、大きな違いがあると思います。
  ルネッサンス以降はミケランジェロでも、作者の自分というものを押し出して、世間に見せようとする、そういう意識がつづいているんです。
  中世以前は、自分の名前など問題じゃない、作品さえよく出来ていればいい、とそういう態度の仕事です。このところに、現代との大きな違いがあると思うのです。私は、いまそのことを強く考えさせられます。
  個性というものを必死になって強調して、世に訴えようとする現代。作品はあとまわしで、まず名前を出して行こうという現代。そういう時代に私は、疑いを持ちます。
  私は彫刻をやるんだったら、13、4世紀あるいは、もっと前に生まれたかった。
(舟越保武「巨石と花びら」)

●平凡なものを平凡に描いて、しかもその画面が、高い品格を持って人の心に深く沁み込むことこそが、作家の本来の姿勢でなければならない、と私は思う。
(舟越保武「巨石と花びら」)

●「苦労の跡がなくなるところまで推敲(すいこう)する」(トルストイ)

●絵がうまくなる、というのは、尺度の問題もあるけどまあ、技術的な面を言います。
写実的で上手な絵というのがある。
しかし、「いい絵」というのは別ですね。
技術に加えて人生的なあきらめやなんかが入ってきて、「枯れる」としか説明できないようなね。
「いい絵」は、技術的な修練だけでは到達出来ないでしょう。
ただ、これには尺度がないから、偽物が入り込む余地もいっぱいあって、絵に見まがう絵が幅を利かせたりする。
困ったもんだけれども、私はやっぱり、いい絵を目ざしたいです。
(絵本作家・安野光雅)

●弦楽器製作者、そして演奏家の中には、「天然もの」にこだわる人が多くいます。
例えば「機械を使わない、手作りの楽器」、「天然樹脂だけを使ったニス」……。
このような本質的でないことにこだわる人がいかに多いことか。
大切なのは、できあがった楽器そのものなのです。
 例えば、楽器を作るときに機械を使って何が悪いのでしょうか?
大木を切り倒すときに、斧で切り倒している人が今の時代に何人いるでしょう?
私自身も、各所で機械を利用しています。
 大切なのは、最高の楽器を制作する上で、どのような方法で行ったら良いものができるかどうかなのです。
機械で作った方が良い部分はそれでよいし、手で作った方が良い部分は、そうすればよいのです。
すなわち、できあがった楽器の質が全てです。
 現在における木工技術では、技術のある職人の精密作業に勝る機械はありません。
従って、結果的に「手作り」となるのです。
例えば将来、私の技術を上回り、そして値段の安い機械が登場したのなら、レーザー光線であろうが原子力エネルギーであろうが、私は迷わずそれを利用します。
(「弦楽器のしくみとメンテナンス2」佐々木朗 音楽之友社)

●子どもという存在を、僕は「幼い人々」、あるいは「新人」ととらえています。
ついこの間、僕らの仲間に入ったばかり。
彼らは見たり、触ったり、かじったりするのが仕事なんだな。
そうやって世の中の情報を集めている。
見るっていうのはものすごく力になるから、彼らには不足感はないんだよ。
充足している連中に、大人が何かを「与える」というのはとても失礼です。
 僕の仕事も「見る」こと。
僕が見て、感じて、考えたことを「僕にはこう見えたんだけど、君たちはどう思う?」って差し出したのが、僕の作品です。
『みんなうんち』(福音館書店)もそうだね。
よく遠足で動物園に来た先生が「みんなでゾウを観察しましょう」と言う。
でも、みんな別々に好きなものを見てるよね。
うんちに見とれている子もいれば、ゾウの背中の毛に驚いたり、空の鳥をながめてる子もいる。
見るっていうのは実に個人的な作業なんです。
 ところが、世間には『子どものために読みきかせを』とか言って、彼らの世界にズケズケ介入する大人が多い。
僕の『たべたのだあれ』(文化出版局)を広げて「だれかな?」と聞いて、彼らが答えると「はい、そうね、じゃ次」って。
あれやってる人、文字は読めてるけど絵は読めてない。
「あの絵はおいしそうだったなあ」ってじっくり味わってるのに、どんどん進んじゃう。
見せかけの読み方だよね。
 「子どものために」という旗印はかなりアブナイと思います。
「子どものための本」というのもおかしな話。
「本」を「公園」に置き換えるとわかるけど、「児童公園」と称し、大人の管理感覚で作った公園ほど規則が多くてだれも遊べないでしょう。
そうじゃなくて、本当に質の高い公園を作れば、居心地がいいから子どもも大人も自然に集まってくるよね。
 本もまったく同じだね。
「子どものため」感覚で、いいものができるはずがないんです。
本作りも、読みきかせも、「子どものために」とうい大義名分に、まっさらな連中を巻き込むなよと言いたいね。
 少なくとも僕は、だれもがくつろげる、居心地のいいフィールドを作ろうと思ってます。
(絵本作家 五味太郎)

●「要は、本人が描いていて楽しければいいんですよ。
 『自分は下手だから』といって描かないのは、喋るのが下手だからといって、だれとも話さずに黙ったまま口をきかないのと似ていますよね。
 『上手な人は絵が描けて楽しいだろうな』という観念的な呪縛は断ち切るべきだと思います。
 “ 上手な絵 ” とか “下手な絵 ” などという評価はどうでもいいじゃないですか。
 大事なことは、“ 楽しく自由に描くこと ” で、ぼく自身、そう思って描いています。」
(イラストレーター 黒田征太郎)

●「偉そうなことをいっているように聞こえると困るけど、いまの絵の世界は、文化勲章や、芸術院会員とかを頂点とした権威主義によって構成されていることに、すごく抵抗を感じているんです。
 一号幾らとか、ナントカ賞受賞とかいうのを、ありがたがる風潮は、ウサン臭いじゃないですか。
 そんなところで絵を描くよりも、漁師の人が魚をとるように、お百姓さんがお米をつくるように、絵を描いていけたらいいなと思っています。
 ぼくは、普通の小父さんや小母さんに、キレイやな、オモロイ絵やな、と思ってもらえれば十分です。」
 (イラストレーター 黒田征太郎)

●「絵は筆先で描いたらいかん。
描く絵画から建築し、彫刻し組立てる絵画に向かわないと駄目だ。
そのためにはまず自分の精神が自由でないと駄目! 
自由な人間が自分の目で見つめることからしか絵は生まれん。
人間に対しても、一個のリンゴに対しても同じ。
権威や権力を欲しがるような人間の目は、濁っててものが見えんようになっとるし、自由に考えることもできん。
皮肉なことにそんな奴が偉うなっとるけどね。」 (画家・須田剋太(こくた))

●デジタル録音で明確な音を求めるのが、最近の一般的な傾向になってきていますね。
例えば、ヨーロッパの教会の鐘の音を録音するとなると、
ハンマーが鐘に触れる瞬間の音や、歯車のきしむ音まで、ハッキリ収録しようとします。
まるですぐ目の前で鐘が鳴っているいるみたいに。
その音をヘッドフォーンで耳に直接くっつけて聞く聴き方をしますね。
自分の体を音の空間の中において、包まれるような聞き方をしなくなってきています。
明確な録音があっていいし、そんな聞き方もあっていいんだけれど、
あまりに近視眼的な音だけを、いい音だと思ってほしくない。
3キロメートルも離れた山間の教会の鐘の音が、風に乗って聞こえてくるのもすばらしいですよ。
そんな音も大事にしたいと思うんです。
(シンセサイザー奏者 冨田勲)

●「きみの仕事は沢山の人からすぐには認められないかもしれない。
しかし、きみに注目し、きみを認め、きみに期待している人が
日本全国に一人か二人はいる。きみを認めない人のことは気にかけず、
きみを認めるほんの一人か二人のためにと思って、もっと頑張りつづけなさい。」
(立花隆「青春漂流」より、宮崎学への今江祥智の言葉)

●完全に模写をしたつもりでも、わずかに原画と違う部分が残る。それが個性である。
(横尾忠則)

●何ものかを表さずにおくところに、見る者はその考えを完成する機会を与えられる。
かようにして大傑作は人の心を強くひきつけて
ついには人が実際にその作品の一部分となるように思われる。
虚は美的感情の極致までも入って満たせとばかりに人を待っている。
(岡倉覚三「茶の本」)

●「それに美術館やギャラリーって、何となく堅苦しいでしょう。
精神を解放するために絵があるのに、それじゃあまるっきり逆だもの。」
(「看板物語」 平林則好・ささめやゆき)

●芸術は一番わかりやすい美しい形で大衆の中にあるのが正しいと信じます。
(やなせたかし)

●「彼の言葉は今でも覚えてるよ。
記者会見で『あなたの演奏している音楽はジャズといわれた方がいいか、
それともただの音楽といわれた方がいいか。』という質問が出たんだ。
その時、コルトレーンは何て言ったと思う?」
「ただ一言、『MUSIC!』さ。プレイヤーは、評論家とは違うんだ。
分類なんかには興味がないんだ。
フリージャズとか前衛ジャズというのも、みんな評論家が勝手に名づけただけだ。
彼らにとっては、音楽、ただそれだけだよ。」
(「看板物語」 平林則好・ささめやゆき)

●子供や素人は絵を見て「デッサンが狂っている」というようなたわごとは決して言わない。
「おもしろい絵だ」「楽しい」「おっかない」という感覚的ないい方をする。

●デッサンと絵のすばらしさは関係ない。(出典不明)

●昔、上田秋成は、貧乏なときに、歌を教えてはどうかと友人にいわれたところ、即座に、
そういうものは教えるものではない」
といって教えなかったというが、私も同感だ。
そういうものに限らず、なんでも自分でやるものだと思う。
絵を習うなどということも実にバカげたことだ。習わなくてもかけば自然にわかることだ。
なぜ自分でかかずに、習うのだろう。
        (中略)
まあ、いちがいに習うというのがいけないことだとは思わないが、
自分でなにもせずに、なんでも習っちゃうというのはおかしいと思う。
        (中略)
自分の好きなことは、自分でやればいいのだ。
それがどんなにつまらないものでも、
人はそれぞれ自分の本当に好きなものをもっているはずだと思う。
それは、つまらないことだとか、そんなものが好きだと人に笑われるとかいった、
つまらぬ価値観をもたされるからおかしくなるので、
そういうものから自由になって、各自が自分のなかに本当に好きなものを発見し、
それを自分なりに工夫してのばせば、
いろいろなおもしろいものがたくさん発見できると思う。
(水木しげる「妖怪天国」)

●本当の作家というものは、自分の作品を愛さなくてはならぬ。
愛するということは、一人でも多くの人に読んでもらうことだ。
真民よ、お前の態度は、ほめたものではない。
自分の作品を愛するなら、やはり広場に出してやることだ。
それが本当の愛だ。 (坂村真民「念じてください」)

●「陶芸でも絵画でも文章でも 続けていればその人は作家です」
(出典不明)

●教えるのは役に立つためであって、奴隷にするためではない。
(「絵画教室」アルマン・デゥルーアン)

●”絵本には何ができるか”っていうことをかならずいう人がいるけれども、
ぼくはテーマも内容も持たない絵本が理想なんです。
初めから一つのテーマを持ったおはなしほどつまらない。
読み手によって独自のテーマがでてくるというような存在が好きなのね。
俳句にしても五七五の中で意味ができちゃうわけですよね。
その意味論みたいなものを越えられたらなあと思う。
ぼくには絵本風景論というのがあって、
初めて乗った電車の車窓を流れる風景を味わっている感じが好きで、
絵本の中にしかない風景の流れっていうものが感じられたらいいなと思う。
叙情という意味だけではなく、独特のリズムとか香りが出てきたらベストだなと。
文章だけの場合には、逆に明解に絵が見えてくるような。
(サンリオ「イラストレ」vol.10 より五味太郎)

●他人がそれを絵と思おうが思うまいが、そんなことはどうでもいい。
描けば実に楽しい。それだけで充分だ。
(ヘンリー・ミラー)

● 写真がこれだけ発達すると、絵というのはやはり”目に見えないもの”を見せるのが一つの目的ではないかと思う。
        (中略)
多少誇大妄想的な言い方をすると、絵画は、ルネッサンスあたりから奇妙な方向にいってしまったのだ。
いろいろな美しいものを見るというのは決して悪いことではないと思う。
しかしいまの絵画は、人間がみることもふれることもできない世界を見せるという本来の目的をそれてしまっている。
(水木しげる「妖怪天国」)

●「そうですねえ、絵というのはつきつめればバランスでしょうねえ。」
          (中略)
「バランスというのは、精神的な心の表現であり、それは愛のかたまり、
というようなことでもあるのじゃないかな。
          (中略)
バランスの崩れたものは説得力がない、オドロキがない、
そして何か心を打つものがない。
音楽でいうとバランスの崩れたものは”不協和音”となって人を不愉快にさせますね。
あれと同じです。バランスのこわれた絵は人をいやな気持ちにさせます。」
(「いま この人が好きだ」椎名誠 より 猪熊弦一郎の言葉)

●芸術作品には、声を張り上げまくし立てるかのように過剰な説明をするものがある。
西洋の近世の歴史画や説話画がそれである。
写実的な肖像画は、一見して静けさを保っているように見えるものでも、作者は一から十までを説明しようと多弁を弄しているのである。
それらは、見るものが問いかける余地もない。
これに対して、表現が控えめなもの、素朴なもの、あるいは多少とも観念的なものは、一般に、作品としては寡黙であるとしても、問いかけに対しての答え方は静かであり、語りかける言葉は深さと拡がりをもつことが多い。
 そのような作品との対話は、多少の時間を要するとしても、学ぶことが多くて楽しいものである。
(柳 宗玄「かたちとの対話」)

●ピアノをひく才能にはテクニックと音楽性の二つがあるのだが、肝心なのは音楽性の方。
つまり自分の感情が素直に音に出てくるということ。
それがないと、いくらテクニックを身につけても単に音が鳴っているというだけで、音楽ではない。
(出典不明)

●「いいなぁ。ぼくにはどうしたって、こんなに下手に描けないよ。
どっかでとらわれているんだなぁ、やっぱり。
この人には何物にもとらわれていないんだ。
上手くとか、売れるとか、有名になりたいとか、そんなものが何ひとつない。
それがスゴイよ、まっさらだもの」
「ぼくは、まだ頭で描いてるんだな。ショックだけど、そう思うよ。
これはさ、知識とか教養じゃあなくて、筋肉が直接動いて線を作ってるんだ。
それが本当の表現だよ。絵描きには、知識なんていらないんだ」
「だってね、どうやったって自然には勝てないよ。
描いてるとさぁ、気が狂いそうになってくる時があるんだ。
一木一草の美しさには、逆立ちしたって追いつけないんだから」
「だけど、それをやらなきゃあ、生きていけないんだ。
今のオレにはさ、それしかやることがないんだもの。
ひとつの花と向かい合えるような、そんな絵を描きたいんだよ」
「対象を見てるだけじゃあダメなんだ。心の中にグワーッと沸いてくる、その一瞬だよね。
雲散霧消するものをぐっとつかまえる、それだけを考えてるんだけど。
それが出来たら、生命なんかいくら差し出しても惜しくないよ」
(「看板物語」 平林則好・ささめやゆき)

●すぐれた彫刻は、たとえ一部分だけをとりあげても作品たりえる
(「看板物語」 平林則好・ささめやゆき)