以前、旅の途中でのこと。確か冬の北海道で、鈍行列車に乗っていたのだと思う。小学校低学年の子とそのお母さんが、隣のボックス席に座っていた。女の子が「あの山な~に?」と聞いた。お母さんは「○○山じゃない?」と答えた。
 その時、ふっと不思議な感覚に襲われた。○○山とか××山とか言うけど、それはどっからが○○山なんだ?と。相変わらず、そういうどうでも良いことに疑問を持ったりする^^;;。

 何が言いたいのかというと、例えば富士山。雲海の上に、富士山の頂上がポコッと出ていたりすると、その部分を指して「富士山」と言えるのは何の問題もない。
 でも、ずっと麓の方へ降りていくと、どこから富士山は始まっているのだ?と感じたのだ。その辺は定義の問題なので、ここから上が富士山である、という境界があるのかも知れない。
 では、川などはどうなのか。川には必ず川縁がある。いったいどこからを川と決めているのか?動物だったら、一応肉体が独立しているので、これは○○さん、これは××さん、と言える。まぁ、そこでオーラまで検討に入れられた日にゃぁ、もちょっと肉体の周りまで範囲は広がるのかも知れぬが。

 根本的に何を思ったのかというと、名前付けというのは人間が知覚できるように、本来は曖昧に存在しているモノを適当な場所でぶった切ったものである、と言うことなのだ。
 曖昧なのは区切りであって、存在自体はひとつに融合していたモノをわざわざ分離させたことになる。もちろん人間の頭の中でだけの話であるが。こう書くと、なんだか真実を分離する良くない行為だと思われそうだけど、一概にそうとも言えないでしょう。
 サリバン先生にモノの名前を教えてもらうことによって、ひとつずつ世界を広げていったヘレンケラーの例もあるし。

 面白いことに、名前付けというのは、絵を描く上で、特に初心者にとっては障害になるケースも多いと言うことです。
 もちろん、これは自分の勝手な意見ですが。例えば、人を描くのがとても難しいと感じる人は多いですね。自分もそのクチです。
 その原因のひとつには、人間を良く見慣れすぎていて、パターンで見てしまう癖があると言うことがあります。目は「目」であり、鼻は「鼻」です。
 目は、割合その境涯がわかりやすいですが、鼻だとちょっと曖昧になる。手のひらや、手首、足の裏、となっていくと、本当はそういうモノは存在していないと思うのです。
 人間が、この部分を手首、ここを足の裏、と決めたのであって、明快にここからここまでが手首というモノは無い。ここまでが足首で、ここから足になって、ここから裏は足の裏、という境界も存在しない。言葉とパターンで惑わされてしまうと、足首から足へ移る線がはっきり境界を持って描いてしまったりする。
 例えば足首から足へ移る線が、緩やかでなく、角度を持っていたりする。思い切り曲げてみても、そんな角度のある点が現れることはないのは分かると思う。自分の足や手を見て欲しいが、胴に近い部分から手首、足首、そして、手や足に変わっていく「線」は緩やかに変化していて、「ここからが手首だからね!」という境界は無いはずなのだ。
 あるという人は、直ちに名乗り出よ。(^_^)/ ハーイ