「お約束」の笑い  (2009.7.1)

 もちろん世代的な感覚のずれはあると思う。自分たちがおもしろがっていたお笑いを、数世代上の人たちは「くだらん」で片付けてたのとは少しちがうと思うが。
 近年のいわゆる芸人のお笑いやお笑いバラエティーの質の低下は目を覆うモノがあるが、漫才や漫談などに奇妙に違和感を感じるのは、自分はもう「いま」の世代のお笑いが理解できなくなってるからなのか?と思ったりもした。
 本当にメジャーな舞台で、大衆の面前に出るだけのモノを持っていないのに、使い捨てで出されている芸人が多いのは誰もがご承知のはず。それでも、何が変なのだろうと思ったら、「笑わせ方」がちがうのではないのか?と思ったのだった。もちろんそんなのばかりではなく、ちゃんとしたお笑い芸人の方が多いのも付け加えておくが。

 自分が良くテレビを見てお笑いを楽しんでいたのは、せいぜい二十代くらいまで。その後はテレビ自体をそれほど見なくなっているし。
 で、何がちがうかと感じるかというと、昔のお笑い芸人は、しっかりと作り込まれている。ネタにしてもキャラにしても。本当のプロと言っていいと思うのだが、それを壊してしまったのは、やっぱり「おれたちひょうきん族」あたりかと。その場しのぎとアドリブが混同されていたり。
 ドリフのコントに出たことのある郷ひろみ氏によると、コントの練習はしっかりやらされて、しっかり作り込まれていた。一見アドリブに見える事を郷やドリフが言ったりするが、アドリブは一切無かったのだそうだ。全てそのように作っていたのだとか。
 ま、作り込まれたお笑いと、アドリブのお笑いのどちらが優れているというのは決められないが。

 話がそれたが、今時のお笑い芸人の漫才・漫談をたまたまテレビで見た。ははぁ、と思ったことがある。一回見ただけでは笑う「ポイント」がわかりにくいものが結構あるのだ。
 何度も繰り返しその芸人達のお笑いを見て、見る方も「ここがギャグなんだ」「ここがみんなで笑うポイントなんだ」という了解の元で成り立っているお笑いの気がしたのだった。具体例を出して申し訳ないが、ダンディの「ゲッツ」もあれはギャグなのか?と思ったし、なんだか悲壮感の漂う漫談で見ていられなかった。ただの決めポーズであり、それが流行るのはわかるけど、自分的には「笑える」というモノとはちがうのではないかと思ったり。
 勘違いしているボケ役も多くなったのではないのか?ボケ役やただうなずいているだけに見える漫才も、あれは相当難しいはず。そういえば、ブレイクする前のたけしのツービートは、ビートきよしがしゃべくり突っ込みで、たけしがボケ役だったらしい。その役を取り替えて成功したのだとか。でも、たけしのボケ役でも十分通用していたのが想像できる。

 落語でも漫才でも芝居でも何でも、本来は一期一会で、その場限りもう二度とは見ない芸であると、やる方も見る方も了解していたはず。
 でも、今のお笑いは「つづき」や「繰り返し」(何度も同じギャグを見てもらって、みんなで笑ってもらう)が了解済みになっている点が、全体のレベルをおとしめている元凶の一つなのではないかと思ったり。

懐かしい買い物  (2009.7.17)

 物心ついたときから、我が家から坂を下った所に小さな八百屋がある。昔は兄弟二人でやっていたようだが、いつの間にか兄らしき人がいなくなって、女性(奥さんか娘か?)と二人でやっているので、お兄さんは亡くなったのだろう。お兄さんはいつも青果市場でかぶるナンバープレートのついたような帽子をかぶっていたっけ。

 先日夕方、買い忘れた果物があったのでその八百屋さんに買いに行った。やっぱり高い。スーパーとは一線を画しているくらい高い感じはした。でも、品物はとても良い。駅前にしかスーパーはないとはいえ、良く未だにお店をやっているなぁと思っていたのだけど、買ってみてなんとなくそれがよくわかった気がしたり。
店のおっちゃんは一見渋い顔をしているのだけど、話しかけるとむちゃくちゃ愛想が良く、話し方もいい。梨を一個買っただけなのだけど、なんだかまたこの店で買い物がしたいものだと思ったのだった。
 とはいうものの、普段はあれこれ一度に買うのにはやはりスーパーの方が便利なので、そちらで買ってしまう。
 ヘルパーさんに買い物を頼むときは、多少その八百屋の方が値がはるとはいえ、駅前のスーパーまで行く時間と、近くのその八百屋で済ます時間を考えると、はるかに後者の方がいいので(時間あたりの人件費の問題)、買い物は野菜関係だけを頼んでその店に行ってもらっている。ん~、しかし卵まで売ってるとはしらなんだ。「○○円と、ちょっと値は高いんだけどね、○○のとても良い卵なんだよ」とのこと。

 そう言えば、今はセブンイレブンになっているが、子供の頃はその八百屋のはす向かいは魚屋で結構繁盛していて、家族でやっていてお店もお客も元気が良かった。八百屋さんを曲がると果物屋があり、その間には昔懐かしいおばあさんがじっと座っている窓口の小さいたばこ屋があったのだった。よくじいさんに頼まれて、「しんせい」や「ハイライト」を買いに行っていた。豆腐屋も数件あったし、結構いろいろあったんだよねえ。今みたいなどうでもよい、ない方が良い店ばかりでなく。

水で薄めたTV番組  (2009.8.17)

 だいたい地上波テレビの番組改編期は、年に2度ある。タイミングは国民的娯楽番組のプロ野球の放映が始まる3~4月と日本シリーズの秋あたりだったか。つまりはプロ野球に合わせていたと言うことで。真実は知らないけど、多分それで間違いは無いのでしょう。
 しかし、ここ数年はプロ野球の放映自体が少なくなり、一般の番組に影響を与えなくなってきていたりする。何しろ昔だったら、優勝の可能性が無くなっても巨人戦を放映し続けていたテレビ業界だったのに、今はシーズン真っ最中や天王山であってもほとんど放映している様子がない。ま、衛星でやってたりするのだろうけど。(我が家は衛星は観ない)
 今、巨人戦が全試合観られるのは韓国だけではないのだろうか?日本の読売ジャイアンツの巨人の事である。巨人には韓国の国民的4番打者・李スンヨプがいるからで、巨人が李に実力以上の法外な年俸を払ってまでチームに引き留めているのは、韓国のテレビ放映権による利益が莫大だからという。噂では放映権で年俸を払ってもおつりが来るとか。しかしここ数年は活躍が半端なので、ゲームに出られずに、従ってプレーする姿をテレビで見ることができない事が多いが。

 さてさて、何度も言うように自分はほとんどテレビを観ない。でもこの春の番組改編は実に異常な印象を受けた。いつものように改変時期は特番の長時間番組ばかりでうんざりなのだが、今年はいつまで経ってもその時期が終わらない。通常ならプロ野球が始まれば、いつも通りの1時間枠の番組は1時間枠に戻り、新番組に変わってもおおよそ長くても1時間番組が普通だったでしょう。それがいつまで経っても連日の特番や、通常でも2時間番組ばかりで、「なんのつもりなんだ?」と首をかしげざるを得なかった。
 不況による経費節減で、みのもんたを始めとする高額ギャラのタレントは姿を消し、安物のタレント(本来なら一人前にテレビに出られる実力もないタレント)オンパレードになったのは予想通りでも、長時間番組が多すぎるだろ。おまけに開始時間が実に半端。普通8時からの番組なら7:50頃から始まってみたり。これは、本内容はもちょっと後からなのだけど、その時間からチャンネルを合わさせといて、CMを見せるという、せこい手法だと聞いたことがある。
 番組内容もいくら経費節減とはいえ、あまりにも酷いものばかり。安物タレントや某学会芸術部ばかりのバラエティや。ターゲットの視聴者も、若者ばかりで高齢者はテレビからも閉め出そうというのか、高齢者が観てもわからない番組ばかり。

 そんな折、精神科医でコメンテーターとしても有名な香山リカ氏の本を読んだ。特に香山氏に興味は無かったのだけど、新聞の本の広告で、思わず買ってしまった。
 買って読んだのは『しがみつかない生き方』。別に自分がそういう内容の本を求めていたわけではない。ただ、いくつかの項目がおもしろそうだと感じたのと「勝間和代を目指さない」のキャッチフレーズに思わず笑って、興味を引かれたのだ。
 実は勝間和代氏のことも全然知らない。かなりのベストセラーを出しまくってて、最近では、『ことわる力』という本が話題になっているのを知っているだけである(内容は知らない)。どの本の広告にも、勝間氏の暑苦しいくらいの自信に満ちた顔が出ていて、それを「めざさない」というのに大いに興味を持ったのである。

 その香山氏の本の中に、今回の雑記に書いてあることを納得させてくれる事が書いてあったので抜粋させていただく。

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香山リカ『しがみつかない生き方』より

視聴率調査会社が用いる集計区分のうち、20歳から34歳までの女性を「F1層」と呼ぶのだという。
この世代の女性は最も商品購買力があるとされるので、スポンサー企業は制作サイドに「F1に見てもらえる番組を作れ」と要求する。彼女たちにその番組がウケるということは当選、CMもみてもらえるということなので、結果的に商品が売れる。スポンサー企業にとってみれば、「70代以上の9割が見るオバケ番組」などあまり魅力的ではないのである。
だから、多くのF1層がテレビを見る夜の時間帯には、その世代の女性が好むタレントやお笑い芸人が多く起用される。報道番組や文学的なドラマではなくて、いわゆるトレンディドラマやヒットソングのショー、クイズ番組などがメインになってしまうのも、ひとえにスポンサーの「20代女性に見てもらえる番組を」という意向ゆえだ。
実は、ここで見逃されている大きな問題がある。まずは、本当にF1層の購買力がそんなに高いのか、ということだ。(中略)
また、「F1だからドラマやお笑いが好き」という固定観念も正しくないかも知れない。とくに最近は、若い女性に人気の俳優を主役に起用しても視聴率を上げられないドラマが増えているとも聞く。(中略)
このように、そもそもF1層が高い購買力を持つかどうかもはっきりしなくなってきており、さらにそのF1層をターゲットとした番組作りのあり方も以前とは変わりつつある。しかし、それにもかかわらず、スポンサーもテレビやラジオの制作者も新しいターゲットを絞ることができず、購買力のある層に訴求力を持つ新しい番組作りの方法も見つけることができずにいる。その上、不況の波は放送業界にも押し寄せ、制作費も人員もどんどん削減される。
その結果として、新しい工夫や冒険をする余裕も策もないまま、これまでF1層で当たった番組をより中身を薄くしながら反復して提供していくしかない、ということになるのだ。だからどのチャンネルを見ても、ごく一部の若い人たち以外にはとても受け入れられないような浅薄なお笑い、いやゆる"オバカキャラ"の登場するバラエティ、目まぐるしく変わるヒットチャートだけを追った音楽番組などが並ぶことになる。
しかし、こういったカラクリを知らされていなければ、ミドルからシニア層の人たちは、テレビを見ながら「これについて行けないのは、私が時代から取り残されたからだ」と思うのではないだろうか。
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 この本によると、F1層が最もよく見る番組は、実は「ニュース」なのだとか。結局制作者側は的外れの魅力も中身もない番組を作り続けているわけか。

 自分が学生時代くらいまでは、2時間番組というのはよほどの長い番組だった。長くて1時間で、30分や15分間の番組だってゴールデンタイムに放映されていた。
 どれも粒ぞろいでいい番組が多かった記憶がある。考えてみれば今の1時間番組だって、内容的には30分にも劣るものだろう。山場CMと言う手法で、「さぁ~どうなるんでしょう?」という盛り上がりでCMに入り、CM後はまたそこまで行く以前の数十秒前から繰り返し映すので、かなりの内容は時間がダブっている。中身だって薄めに薄めたものばかりだから、2時間番組でもしっかりきっちり作ってまともに視聴者に見せれば、45分も要らないものばかりのように感じる。
 おそらく15分や30分間の番組をきちんと作るのは、だらだらとした2時間番組を作るよりもお金がかかるのだろう。でも、そういうきちんとしたものを復活させたら、視聴者は制作者が思うほどバカではないので、良い番組は見てくれるものだ。5分足らずの番組である『世界の車窓から』(テレ朝系)などは名番組になっているではないか。今の放送業界が作っている番組は、『世界の車窓から』に無駄なタレントを出して無駄なカットを詰め込んで30分番組にしているようなものだろう。
 自分だったら、15分~30分間くらいの良質の短時間番組が増えたら、テレビを見る機会は増えると思う。だらだら作られた中身の薄い番組を何時間も見ているほど酔狂ではないのでテレビを見ない、という面もあったりするし、忙しくても短時間なら何とか確保して見てみようと思うだろう。
 ちなみに以前やっていたNHKの『手仕事にっぽん』という5分間の番組が好きだった。ゲリラ的でいつやるのかよくわからなかったのだが。

実の腐り方  (2009.8.22)

 先日、某コンビニで買った梨を半分に切ったところ、中心部が腐りかかっていた。腐ると言うよりは傷んでいた程度だけど、範囲が広くとても食べられる状態ではなく、でも突っ返しに行くのもめんどくさくそもそもレシートなど捨てているので、そこだけを切り取って廻りを食べた。全然甘くはなかった。そういや梨は熟しすぎて甘いというのは経験がないな。
 そこで思い出したのだけど、ここ数年、内部が傷んでいる野菜や果物がやけに多いと言うこと。今回は梨だったけど、桃の実は全く問題なく甘くておいしい時でも、種が酷く傷んでいるというのは良く出くわす。縦半分に包丁を入れると簡単に種ごと真っ二つになってしまうほどに。
 それからジャガイモである。ジャガイモ自体は何も問題なく見えるのだけど、半分に切ると中心部が傷んで小さな空洞ができているものにやたらに出くわす。

 そんなある日、新聞の投書欄に、同じような投書があった。果物は周囲から傷んでいくと思っていたのに、最近のは中心部から傷んでいるのが多い。なにかおかしな事が起きてる(変な農薬を使っているとか)のか?というもの。
 自分も気になって調べてみたら、ジャガイモは大きくなると中心に空洞ができやすいらしい。薄い茶褐色で十字型に空洞ができているのに良くあたるのだけど、生育の後期に高温をともなう水分不足で細胞が枯死してそうなるらしい。最近のはそんな収穫の仕方ばかりしているのか? ジャガイモが過剰に大きくなってしまったときは、中心部が黒い空洞になるのだが、保存中に密閉にしてしまって酸素不足になっても中心部が黒くなるとか。

 桃の種が傷んでいるのは、生育途中で種にひびが入ったり割れてしまって(核割れ)、カビが生えたり傷んだりすることがあるらしい。普通は出荷時に選別するのだけど、外見だけからはわかりにくいのでそのまま売られるのでしょう。いずれにしろ、傷んでいるのは種だけで取り除けば問題はないらしい。
 でもどちらにしろ、数年前まではほとんど経験は無かったけどなぁ。

 なんかなぁ、中国の毒餃子事件以来(結局どーなったんだ?)、国産のものでさえ偽装でなくても大丈夫か?といぶかるものがあったりするからなぁ。以前に比べたら異常に長持ちする大葉なんかも気になってたり。

ハンズよお前もか  (2009.8.27)

 手持ちの傘(折りたたみでないジャンプ傘)が、イマイチの状態になったので、先日新宿の東急ハンズで70cmのを買った。チェック柄の傘だった。
 それから実際に使ったのは3~4回程度だったと思うがある雨の日に、傘の柄(Jの字になっているところ)を何気に見ると、ひっかき傷が無数にある。なんじゃ?と思ってよく見ると、塗装が激しくハゲているのだ。
 この柄は、薄茶のプラスティックに薄くJの方向に沿って木目のように塗装が施してあったようだ。指で強くこすったり握ったりする程度だとそれほどハゲないが(それでも少しハゲる)、どこかに引っかけて置いておいたり、爪でこすったりするといとも簡単に塗装がとれてしまう。そんなに何度も使っていないのに、見るも無惨にJの曲線部分を中心に塗装が落ちているのである。まるでプラスティックに水性塗料で塗装したんじゃないのか?と疑いたくなるようなひどさだった。

 別件で新宿ハンズへ行ったとき、傘売り場に店員を呼んで事情を説明した。全く同じ傘がおいてあるので、店員が柄の部分のビニールを少しはがしてこすると、やはり塗装が落ちた。その傘は長さが2種類あって、自分のがどちらだったかよく覚えていなかった。そしてタグもレシートなどもとっくにない。でもその店員さんは、自分で同じ商品の不具合を確認したので、現物を持ってくるか、着払いで送ってもらえれば、直ちに返金または同等品と交換するという。そして、そのための書類を作ってくれた。うむ、さすがはハンズじゃ、と感心してその日は帰った。

 3日後に新宿へ行く用事があったので、その傘と書類を持って、相談カウンターで返金してもらった。3,045円全額である。気になって傘売り場の方向を見ると、上の方に飾ってある見本に、明らかに同じ傘が展示してある。「これはまだ売ってるんですか?」とやんわり聞いた。不良品だとわかってて売り続けてるのか?と聞いたのだ。
 ベテランらしい女性店員は、「いえ、これと同じ社の傘は、撤去しました。あ、まだ上には飾ってありましたね・・・」と言った。やはり中国で製造されたモノらしかった。
 他の男性店員が、同等の傘が無いかどうか、一緒に傘売り場に同行してくれた。すると、同じ傘は堂々とまだ陳列されていた。
 「これ、不良品だとわかってるのに、そのまま売り続けてるんですか?」と口調は穏やかに責めた。店員は「納入業者様との話し合いによっては、、」と、業者を呼んで不良品の具合を話し合うらしいことを言った。そんなことは当たり前で、不良品だと知ってるのに撤去せずに、お客が買おうとしたら買える状態にしているのか?と聞いているのだ、こちらは。ハンズ新宿店の良識を問うているのだ。

 もともとハンズは、渋谷が一号店舗だった。
店員は、店員と言うよりは職人が集まって接客している感じだった。いや、べらんめえなのではなく、今までの店の常識を覆すほどに、それぞれの道具や商品を深く専門的に知っていて、本当に良いモノを客に売っていたのだ。買いたいものを相談した結果、家にあるモノで間に合う場合は「それならこんなの買わないで、それで充分ですよ」と、客の立場に立った商売のできる店員さんが集まっていた。本当に最適なモノを売るために客を諭している明らかに職人だったであろう店員さんもいた^^。

 あるとき、意外な場所が壊れかかった電動工具を持ち込んだ。渋谷ハンズで買ったものだった。ベテランの店員の男性は一目見るなり、「これはメーカーの作りが悪い。私が直接抗議しておきます」と、書類も何も作ることなしに、同じモノの新品と交換してくれた。作りが悪いというのは、製造段階の不良品ということではなく、工具を設計する段階からその部分が壊れる可能性があるものだったのだ。長く使わないと意外にわからない部分で、自分は半年以上使い込んだ末に、相談に持って行ったのだ。交換してくれたモノをまた相当使い込んで同じところが壊れたら、おそらくまたその場で新品と交換してくれただろう。その店員さんは確かそんなようなことも言っていた。
 ただ売るだけではない、お客さんがやろうとしていることに適切なモノを責任を持って提供したい、という心意気の職人店員のあつまりみたいなものだったのだ。もちろんその人たちは今でもお店にいる。

 でも、何年も前から商品が変わってきた。以前なら、誰が買うんだろう?という希少品までおいてあったりしておもしろかったのだが、最近はやはり売れるものを中心に余計なモノは置かない傾向が見られる。
 そして今回の新宿の件である。以前の、すくなくとも渋谷ハンズだったら、自分が傘のそういう不良品の説明をして、店員が確認した段階でただちに撤去しただろうと思う。「こんなものを他のお客さんがうっかり買ったら大変だ。お天道様に顔向けできねえ。」と。
 なので、今回の件、こちらが「売り続けるつもりなのか?」と問いただしたのに、他のお客が買って、同じような悲しい目に遭うことを案ずるよりも、店の営業の話しか返ってこなかったのは、ハンズも焼きが回ったかな、と少々悲しくなったのだった。

 《追伸》
 2週間後に行ったときに「どうなったかな?」と傘売り場を見たら、同じメーカーの同じ柄の傘は置いていたが、ハンドルの部分は塗装されていない黒い素材のモノに変わっていた。

政治屋の本質  (2009.9.3)

 日本から政治家が消えて、政治屋ばかりになって久しい。
「今の日本は政治屋ばかりでしょ!本当の政治家がおらん!」とTVで息巻いていた元国会議員がいたが、お前も政治屋だったと思うぞ。

 8月16日の朝日新聞(夕刊)を読んでいて、なるほどと思ったことがある。
東京駅で26年間占いを続けている小島永福さん(79)の言葉が載っていた。

 そうそう、政治家の方々もよくお見えです。「来年、自分の立場はどうなっているだろう」「次の選挙は当選するだろうか」。お聞きになるのは自分のことばかり。私は「ちゃんと足元を見つめないと、良い未来はやってきませんよ」と忠告するんです。
 政治家のみなさんはどれだけ庶民の声に耳を傾けていますか。駅前や街中に立っても本音は聞けないでしょう。専門の相談所など、もっと庶民と向き合う場を作ってはいかかですか。それが世間を知る何よりの方策だとおもいます。

自分との折り合い  (2009.9.18)

 自分も二十歳ちょっとの頃までは、実際の自分より良く見せよう、良く評価してもらおう、良く思ってもらおう、としている方だった。自意識過剰の状態でもある。そのためには莫大な精神的エネルギーを浪費する。一種の自転車操業みたいなモノなのだ。

 常に自分を等身大以上に見せようというのは、要するに自分自身との折り合いがついていないことなのか、と腑に落ちたのは相当後になってから。
 常に自分は正しい、自分の考えの方がよい、とがんばっている姿は、見ていて卑屈であるし、こちらまで苦しくなる。
 自分との折り合いがついていないと言うことは、自分自身が自分の味方になっていない状態であり、ある意味もっとも辛い状態なのだが…。(精神的な病は別にして)

「~いい?」  (2009.10.3)

 割合普通に使われる日本語のフレーズで、よく考えるとかなりおかしなモノが多い、というのは何度か書いたと思う。目の前に来ている人に向かって「来たの?」などはその代表でしょう^^。「ううん、来てないよ」という返事は成り立たない。

 同じようによく言われるけど、おかしな日本語には、質問系が多い気がする。よくあるのは、外出先などで、たとえば喫茶店で会話していた途中や、商業施設などに入ったときに、「トイレ行ってきて良い?」というもの。聞かれた方は「うん」としか言えないでしょう。なのでもちろん、本人も許可を求めているわけではなく、「トイレへ行ってくる」という意志を示しているのである。
 自分の行動の意志を告げるのに許可を求めるような言い方が日本語に多いのは、相手の顔色をうかがう日本人の国民性から根付いた言い方なのかなぁ?

 「トイレ行ってきても良い?」と聞かれたとき、「うん」というのもつまらないので、ツレなどに聞かれたときは「ダメ!」と言う事にしている。^^ もちろん本人はそんな不許可は無視してトイレに行く。

幸福度  (2009.10.31)

 以前「雑記帳」で、『ブータン国王が、国のレベルを計るのに一般に基準にされている経済指数であるGDP(国民総生産)ではなく、GNH(国民総幸福量)というまったく新しい指標を提案している」と書いた。またリチャード・ラヤード神父は『国内総生産量(GDP)は幸福を計る最悪の尺度である 』と言っている。自分も社会に出てから、経済成長を続けなければいけない社会って間違ってるんじゃないのか?という疑問を持った。

 朝日新聞(2009/10/31)を読んでいたら、オランダ・エラスムス大学のルート・ビーンホベン教授が40年間「幸福」とは何かを研究し続けている記事があった。氏の尺度では、幸福の度合いは、その国に住む人の『人生への満足度』で測るとのこと。
  様々な世論調査によって点数化し「世界幸福データベース」を主宰しているのだが、集計を始めた30年前以来、日本は60位前後で、ほとんどの国が点数を上げているのに、日本は点数が変わらないのだそうだ。つまりどんどん順位を下げているのであろう。
 教授曰く「幸福の条件はまず、富、民主主義、良い政府。日本はこの3条件を満たすが、人生における選択肢が狭い」。とのことで、「集団主義が強い日本では、常に他人の目を意識するため、点数が下がるのだ」と分析している。
 「富」はともかく「民主主義」と「良い政府」は満たしてんのか?と疑問だったが、世界的に見ればきわめて民主的な国であり、世界にはもっと酷い政府が多いから、比較すれば良い方に入るのかなと。

 サルコジ仏大統領も「国内総生産」の計算法に「幸福度」を加えるべきだ」と言っているという。いずれにしろ「数値化」せねばならないのだろうから、そこでまた偏った幸福度というものが生まれそうな危惧もあるが、いい加減に経済成長オンリーの考え方はやめなければならないのは当然のことかと。
 でも、そのためにはその過渡期として、まず経済を安定させて新たな社会ポリシーなりを構築して、と段階が要るだろうから、やっぱりまだ数十年以上は国内総生産が基準になるのだろうな。でなければ、世界的な革命か今回の不況が落ちるところまで落ちて、もう今の世界の状態では維持不可能という所まで行かないと駄目なのかも。
 「人間は結局、後戻りできない所まで突っ走って、どうにもならないところまでやってしまいますよ」と予言した科学者もいたしなぁ。

郵政民営化の影響?  (2009.12.5)

 というわけでもないとは思うのだけど、最近似たようなおかしな配達が目立つ。
ある友人に手紙を出したところ、宛先不明(たずねあたりません)で戻ってきた。引っ越したはずはないので、メールで本人に問い合わせると、住所は変わっていないし出した住所で間違っていない。郵便局の窓口へ行って事情を話してもう一度そのまま送ってもらい、今度は着いたと本人から連絡が来た。
 しばらくして、同じ友人に出した知人が、やはり同じ理由で戻ってきたという。住所はあっている。そして配達(?)担当者が同じである。ま、区域があるから当然か。
 出した知人に変わって郵便局へ持って行って、自分も知人も同じ理由で同じ宛先への郵便物が戻ってきたことを説明した。
 自分が最初に出し直しに行ったのとは別の郵便局なのだが、窓口のおねいさんは最初言っている意味が飲み込めないようだった。普通繰り返し起きることはあり得ないことだし、差し出した本人でない者が持ってきているのだから、余計に混乱したようだ。奥へ行って局長らしき人と相談かなんかして戻ってきて、不備をわびて出し直されることとなった。

 どちらも同じ担当者が間違ったから、その担当者の問題なのだろうけど、どちらも同じ担当者であるのは受け持ち区域が同じならおかしくはない。問題はなぜ二度も、あるいはおそらく他の差出人へも戻っているのだろうか。

 先日の秋の個展案内を発送したとき、引っ越し通知を受けていない人からのハガキが戻ってきた。住所が違っているということである。よく見ると確かに間違っている。たとえば集合住宅住まいの場合「1-2-3-103」と書くところを「1-2-3103」で書いていたのである。これは住所録の打ち間違いなのだが、少なくとも何年も同じ状態であったはずで、今までに戻ってきたことはなかった。担当区域の配達人は、「あぁ、これは"-"が抜けてるだけで、あそこの家だな、といつもは配達してくれていたのだろう。良くあることだと思う。それが今回は担当者が変わったから分からなかったのか、正しく書かないと届けない事になったのか?

 この二つの出来事は民営化されてからの事で、偶然なのかどうかは不明だが、他にも同じような目にあった人、その他の今までに無かったような事で配達されなかったなどの事例が増えたのではないか?
 職員が融通が利かなくなったとか怠慢になったとか、そういうのではなく、無理矢理の民営化や分社化、はたまた元に戻そうなどの政治に翻弄されている郵便局が混乱しているのかも。

 そういえば郵便振替の件で、少々驚いたことがあった。購入したものを郵便振替で振り込んだのだが、一ヶ月以上してから、先方から金額が振り込まれていないという通知が来た。定期購入しているもので、詐欺を働くような会社ではない。コンビニでも郵便局でも振り込めるのだが、振り込んだ半券はすでに捨ててしまっていたので、証拠が全くないのだ。でも、払いに行ったときに振り込み用紙に印刷された、その会社名を眺めていた光景をハッキリと覚えていた。ただ、振り込んだ日がかなり大まかにしか覚えていないし、コンビニなのか郵便局なのかがわからない。
 とりあえずまず、振り込むときにいつも利用するコンビニで調べてもらった。何月何日から何日までの間で、どこへいくら払ったのか?で、プリントアウトされた記録から肉眼で確認するという。だから、数日は待ってくれと。
 そして次に郵便局へ。同じく期間を決めて、その範囲で調べるというのだが、倉庫にしまってある『書類』の束から該当するものを探すため、一週間はかかるという。え~!、コンビニはともかく郵便局がコンピューターで管理していないとは思わなかった。倉庫の鍵を開けるのにも手続きがいるとか。
 結局、コンビニからは一時間で電話がかかってきて、該当なしということだった。郵便局からは、本当に一週間近くしてから該当なしの連絡があった。同じ振り込みでも、郵便局は町の小さな郵便局とはいえ、一日に百件は軽く超える。コンビニより時間がかかるのは当然だが・・・。
 仕方ないので、もう一度支払いをした。

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