目、目が…  (2006.3.29)

 突然、左目に激痛が走った。何か固い異物が入ったらしい。こすっても取れないし、カガミの前で目を動かしたりまぶたをひっくりがえしたり、あれこれしても、どうにもゴミが見つからない。普通にゴミが入って痛いのではなく、目かまぶたを刺してるようにチクチクゴロゴロと痛い。目を見開くと何とか大丈夫だが、まぶたを閉じたり目を動かすと刺激されて痛い。眼球上やまぶたの裏をひっかいてるような感じもする。少し冷静になってみると、なんだか目の動きに合わせて痛いところが移動しているように感じる。
 その時、中学2年の時の担任の話を思い出した。その先生はある時、目に痛みを感じた。何かが入ってるようだが、どうにもゴミが取れないし、痛い。眼科に行って診てもらうと、医者はピンセットで角膜の表面から何かをつまみ出した。角膜の表面に微少な鉄片が刺さっていたのだった。眼科医はまったく角膜に触ることなく、器用に鉄片をピンセットでつまみ出したという。

 んな~、自分もそれか?と思い、そもそも異物そのものが見えないので自分ではどうにもできないし、急いで眼科医に向かった。こういうときはたいてい、目的とする医者が休みの日や診療終了後の時間だったりする。幸いに月曜日から休みの医者というのはないもんで、思い当たる駅前の眼科医に向かった。この近辺には、歯医者は無数にあるのだが、そのほかの医院はめぼしいのがほとんど無い。まぁ、それなりにそれぞれの分野の医院はあることはあるのだが当たりハズレが。。

 眼科までは人通りの多い商店街を行くのが近いのだが、普段からその辺りは好きでなくて避けて通るし、片目を開けられない状態でしかめっ面で行くのを見られるのも嫌なので、踏切を二つ超えなければならない裏道から行った。
 眼科に入ると、先客が4人ほどいた。受付に保険証を出すと、しばらくしてから「どうしました?」と聞いてくる。もう入ったときから左目を押さえて痛そうにしていた。その体勢で「なにか左目の角膜に刺さってるんじゃないかって感じで、痛いんですが」というと「ゴロゴロしますか」と素っ気なく言う。ゴロゴロじゃなくて痛いんだよ!本当なら、順番を飛ばして先に診てもらいたいくらい痛くて、いても立ってもいられないのだ。でも、何事もないようにそのまんま。他の待っている患者も知らんぷりだし、時々出てきて前を通る受付の二人の女も、こちらがひどく痛そうに眼を押さえているのに、完全シカトである。んなろ~~、おまえら鬼か!? と憤ってくる。奥の診療室から出入りする看護婦も、通るときにこちらを見るのだが、全然気にしていない様子。

 順番は遅々として進まない感じがする。この痛さと違和感は尋常ではない、何か眼に異常が起こったのかも知れん。それを見て知っているのにほっといて良いと思ってるのか?先生に診てもらったときに異常事態が発覚し、緊急に順番を飛ばして診せなかったお前らが責められることになるやも知れんぞ。
「○○さん!××さん!なんで先に診せなかったの!!手遅れになるところだったのよ!」(ちなみに女医である)という事態になるやもしれんぞ!などと、これから迫り来る事態が頭の中を駆けめぐる。

 ようやく呼ばれて入ると、まだ前の患者を診ている最中で、とりあえず部屋の隅で視力の検査などを行う。機械を覗くのだが、瞬きを止められないので、まともに検査が出来るはずはない。「瞬きを止めてください」と言われるが、お前、さっきから痛がってるのを見てて、よくそんな機械的に言えるな!と憤り「痛くて無理です」。そのアホ女助手は「先生、瞬きが止められなくて○○が測れません」と告げ、ようやく普通に診療が始まることに。

 光を当ててレンズを通して眼球上やまぶたの裏などを見るが、異物が見つからない。次に、何かの液体を眼に入れてからまた診る。
「あ、透明な異物が!」と言い、ピンセットでそれを取りだした。やはり眼球やまぶたに一切触れることはなかった。その瞬間に痛みは取れた。
「あ、もう痛くないです」と言うと、先生は「魔法のようね」と答える。自分で言うな^^;。「染料で染めなかったら見えなかったわ」
 異物は取れたモノの、かなりこすっていたので角膜が傷ついたようだった。数日、抗生物質の入った目薬をさすことで回復するだろうと。

 帰りの支払いの時も受付の女どもは、なにやらものすごく機械的で冷たい。おつりを返すときに目薬をくれたのだが、ひと言もない。なにか言われるのだろうと一瞬とまどってしまった。普通、目薬の説明とか1日に何回注せとか「お大事に」とか何か言うでしょう。診療代を告げるとき以外は一切言葉を発しなかった。腹が立つと同時に不気味でさえあった。クソ!もうこんなところくるか!とは思うものの先生自体は良い先生だし、他に思い当たる眼科はその近くにあるのだが、レディスクリニックをかねてるのでなんか行きにくいし………。

 ちなみに目に入った異物はアクリルの破片と思われる。その日、アクリル板を削っていた部屋で眼に入ったので^^;;;。眼科医の使ってたあのピンセットも欲しいな^^;。

禁煙車?  (2006.3.31)

 レンタカーを借りる予約をしに行った。年に数回借りるのだが、いつも同じ近所のレンタカー屋。
 いつもの通り、時間や車種の指定などをする。予約の時に免許証の提示を求められるときもあるし、そうでない時もあり、そんときの気分なのか?という感じも。

 最後に受付の兄ちゃんが聞いた。
「禁煙車と喫煙車のどちらになさいますか?」
「・・・・、、は? 吸いませんけど、どうちがうんですか?」
「おタバコを吸えるのと吸えないのとです」
んなこたわかってる!言葉の意味を聞いてるんじゃないわぃ。
「灰皿がついてるかついてないかが違うんですか?」
と、聞くと「はい」と答える。

 公共車じゃないんだから、吸うか吸わないかは、借りた人が勝手にすれば良いことなんだし、なんで分けてんだ?と思ったが、完全禁煙車にしないとニオイがついているのを嫌がる客も多いだろうな。
 しかし、レンタカーでそんなこと初めて聞いた。禁煙車を借りたら、何が何でも車内で吸わないように釘を刺されるんだろか?と思って当日店内を見ていたら、禁煙車と喫煙車のサービスを始めた旨の張り紙があった。そして、車内には「禁煙マーク」があった。車内には確かに灰皿はなく、普通なら灰皿がある辺りは、いかにも車の生産段階から完全別仕様の内装になっているかのようだった。

 車を返したとき、車内で喫煙はしなかったか?と問われることはなかった。

お前なぁ…  (2006.4.5)

 ドトールコーヒー某店で280円のドリンクを頼んだ。細かいのがないので一万円札を出した。接客のアホ面男は、レジから5千円1枚と千円4枚を出して、奥の女性店員の方へ歩み寄り「一緒に確認お願いします」と言い、数えていた。

 ほぅ、ドトールも確認に確認を重ねてミスをなくすように教育しているのか、と感心した。
 当然今度はこちらにお札を見せながら数えるのかと思いきや、そのまま「9720円のお返しです」と手渡した。

おまえらアホか!?

主題歌が違う!!  (2006.4.10)

 子供の頃はアニメソングマニアだったというのは、どこかに書いたと思う。カセットテープが家庭に普及しだした頃だったので、テレビから主題歌を録音したりはしょっちゅうだった。もちろんCDならぬ、当時はレコードもたくさん買ったわけだが、気に入らないことが結構あった。
 テレビのアニメ(ヒーローモノなどの実写も含む)を見て、主題歌が気に入るわけである。おそらく主題歌そのものが良いと言うよりは、そのアニメの主題歌だと言うことが重要で好きになるのだ。
 それでまず、出来るときはテレビから主題歌やエンディングテーマを録音する。そして買うことが出来ればレコードを買ったりする。主題歌そのものはテレビで流れているモノが絶対なのだ。ところがレコードを買ってきて聴いてみると、テレビで聴いたものとはかなり違うというケースが多い。いやほとんどと言っても良い。
 ここでいう「かなり違う」という感覚は、他の人にとっては「同じじゃん」なのだと思う。でも自分はテレビで聴いたのと同じモノが欲しかったのだ。

 何が言いたいかというと、現在のドラマやアニメのテーマソングは、CDに収録されているモノよりも短く編集されているのは当たり前としても、アレンジや歌い方等々はほぼ同じだと思う。
 ところが当時のアニメソングはかなり違うのだ。まず使っている楽器(シンセを含む)の音が違う。テレビだと丸っこい特殊音なのに、レコードではするどいキレの音になってたり、間奏のアレンジが違ったり。
 一番気に入らなかったのは「天才バカボン」のテーマソング。「元祖」ではなく、最初にアニメ化された方の「天才バカボン」で

西からのぼったお日様が 東~へ沈ぅ~~むぅ~~

という名曲である。

西からのぼったお日様が 東へ沈む
「あ!たいへ~ん!!」
これでいいのだぁ これでいいのだぁ
ボンボンバカボン バカボンボン
天才一家だ バ~カボンボン

というのが一番目の歌詞だけど、テレビ版では「これでいいのだぁ これでいいのだぁ」の部分はそれだけしか言葉はない。しかしレコード版では、

これでいいのだぁ 「いいのだぁ~」
これでいいのだぁ 「い~いのだぁ~」

と合いの手が入る。これではいかんのだ!これが激しく気に入らなくて頭に来たのだった。よけいな合いの手は入れずに、テレビと同じように歌え!と憤っていた^^;。確かその時は、ドラマ入りバージョンのも後から売られていて、そっちはテレビ通りかも知れないと思って、またドラマ入りも欲しくて買った。でもやはり(当たり前だが)同じく合いの手は入っていた。^^;。

 そういえば「帰ってきたウルトラマン」のレコードを買ったときも愕然とした。テレビではメインは大人の男性歌手が歌っていて、バックで少年合唱隊が一緒にコーラスしていた。でもレコードでは少年合唱隊だけが歌っていたのだ。「ガキの歌う歌を買ったんじゃねえよ!」の気分だったのだ。

 ん~~ こだわりってやつですかねぇ?(違うって?)

新人研修  (2006.4.17)

 これでも社会出たての頃は、普通のサラリーマンをしておったのでした。何が普通かって問題もあるけど、無難なスーツに身を固めてサラリーマンをしていたこともあった。

 大学を出て、学科の建築とはまったく関係なく、しかもまったく知識も経験もないコンピューターソフトウエアの会社に入ったのだった。結構大きな会社だったので、同期は122名。研修期間は4、5月の2ヶ月間だった。ほとんどがコンピューターとは無縁の学生だったので、初歩のコンピューターの研修もあったのだが、それとは別に通信教育というのをやらされた。確か産業能率大学の通信講座だったと思うが、新人社会人として身につけるべき事柄の通信講座だった。研修が始まる前、つまり入社の4月以前からだったような。研修の一巻で、形だけでもマジでやらねばならないと思ってやったのだけど、テキストを読んでの課題提出をちゃんとやっていなかった者も結構いたようで、いちいち会社もチェックしていなかったと見える。

 内容はハッキリ言って笑ってしまうもの。アホくさいので、物持ちの良い自分でもそれらはもう処分してしまっている。(と、思う)
 確かテキストのタイトルが「新人として身につけておくべき事」「社会人として身につけておくべき事」などだったと思うが、社会人のマナーと言うよりも「会社勤めのサラリーマン(同じことか)の処世術」といった方が当たっている。
 提出物(簡単なレポートのようなもの)も、どういう答えを求めているか見え見えなので、思っていなくてもテキストの内容を中心に「らしい」ことを書いておけば高評価となる。アホやなぁ…という感じで。別にウケ狙いをするメリットも理由もないので、期待される記述をして送ると「とても内面の豊かさを感じる内容です」云々、などと高得点で送り返してくれる。
 マナーに関するものでは、サラリーマンのマナーの中で良く例に出されるものに、名刺の出し方や受け取り方、宴の席などでの座る位置、タクシーの乗る順番(何人か一緒に乗る場合、誰が先に乗り込むか)などがある。これらにしても、今までに役に立ったことは一度としてない。そのような形式的なマナーを要求する場に立ち会わなかったわけではないが、大事なのは「決められた」所作などに沿っているかどうかではなく、基本は当たり前の常識的な振る舞いなのだから。

 その当時は、まだ学校を卒業したての世間知らずなわけで、それほどの違和感を感じなかったのだけど、やらせている方の会社の人間はそれなりに社会生活を営んできた人なのだから、あんなものをやらせるのをどう思っていたんだろ?122人分の通信教育費というのはバカにならないから、自分が新卒者を教育する立場だったら、「やめようよ、こんなアホなモノにお金かけんの」と言っているだろう^^; コンビニやファストフードのマニュアル教育の方が、まだ実用価値はある。

馬頭琴 (1/3)  (2006.4.19)

 何となく気になってはいた。いつも収納の中で眠っていた楽器、モンゴルの馬頭琴である。10年以上前に馬頭琴に出会い、楽器はまったく出来ず譜面も読めないのだが、とても弾いてみたかった。

 モンゴルは、独立国としてのモンゴル国と、現在は中国領になっている内蒙古自治区がある。馬頭琴も、モンゴル国型と内モンゴル型がある。モンゴル国では、共産時代にロシアの音楽の影響を受けて改良され、内モンゴルでは中国の影響もあり、世界的な馬頭琴奏者のチ・ボラグ氏が改良した。
 自分が最初に入手したのは内モンゴル型。とにかく当時は馬頭琴の入手ということ自体が難関だったのだ。モンゴル国型を入手することは、一般ではかなり不可能に近く、内モンゴル型がなんとか文化交流会などを通じて入手できた。今ではネットを通じてでも、どちらもかなりたやすく入手できる。

 10年以上前に始めたときは、日本モンゴル文化交流協会を通じて入手し、そこにも関係していて日本に在住していた内モンゴルの奏者に手ほどきを受けた。習ったのは月一回を3回ほどで、楽器の扱いや持ち方、指や弓の運びの基本的な部分で、「赤とんぼ」と簡単なモンゴル民謡の2曲がなんとか「わかる」ように弾ける程度になった。
 そこから後はもうひたすら独学である。手に入るCDを何度も聞き、わずかに習った基本を元に、どうやったらCDで聞こえるような演奏になるのか?を推理して試行錯誤する日々であったのだった。
 その間、何度かモンゴル国も訪問し、現地でモンゴル型の馬頭琴も入手。音的にはモンゴル国型の方が好みなのだが、いかんせん扱いにくい。楽器の形状自体は同じなのだが、弦の高さや幅、左手で音階を押さえるネックが太い。内モンゴル型はその辺りが改良されていて全体的に小振りになっている。こちらの方が扱いやすいのだが、全体に軽薄な高音(高音が綺麗に出るとも言える)という印象で、自分的にはモンゴル国型が好みである。なので、そこからはモンゴル国型馬頭琴に切り替えて、これでひたすら独習となった。

 今は馬頭琴の教室もかなり増えたが、当時は日本に何カ所も無かったと思う。独習での最大の問題は、教えてもらえる人がいないということはもちろんだが、映像が無いというのが何より大きい。耳で聞くだけではやはり限界があり、たまにあるコンサートなどで見て、やっとどうやって目的の演奏時の音を出しているのかがわかったり。
 そして、練習場所も問題なのだった。草原のチェロといわれるほどで、音はチェロに近く音量もかなりある。家なんかでまともにならすと、隣近所にかなり響く。上手ければまだいいが、何しろ初期の試行錯誤の練習なのである。なので、公園などに行くことになるが、楽器禁止の公園も多いし、人が通りかかるところで弾くのも気が引ける。まず見かけることはない怪しい楽器なのである^^;。

  バイオリンなどでは、響板の上で弦を支える駒にクリップのようなモノを挟む「減音器」があり、似たものを作ってみたが、それほど減音するわけでもなく、次の手段として胴体をすっぽり包んで音をあまり出さなくするカバーを自作。そのままではかっこわるそうなので、装飾にもなるやつである。中には薄いスポンジを混入。これはかなり有効だった。前面の音穴を完全にふさぎ、音を響かせる胴体を完全に包んでいるので、音はかなりこもったのだった。まぁ、半分はこの装飾を作ることに熱中していたのであったが^^;。
(つづく)

馬頭琴 (2/3)  (2006.4.21)

 完全な自己流ではあったが、CDなどから覚えた曲目も増え、それなりに人に聴かせられる状態にはなりつつあった。とはいっても、あくまで簡単な曲に限る。それで、旅仲間の友人の披露宴などで何度か弾いたりもしたのだった。

 98年に父親が亡くなり、それまで毎年行っていたモンゴルへは行かなくなった。それと同時に馬頭琴からも離れがちになり、いつの間にかまったく弾かなくなっていた。
 手元には、内モンゴル型1台、モンゴル国型2台の計3台の馬頭琴があった。3台目のモンゴル国型は、楽器としても民芸品としても最高級と思われ、その1台を残して、後の2台は知り合いの大学のモンゴル文化研究会へ寄付した。使われずにしまわれているよりは、意味のある扱われ方をする方が良いように思ったのだ。

  そんなこんなで1台残った馬頭琴も、まったく弾かれることはなく、たまに出して数秒「鳴らす」程度で、音楽を奏でようにも指の運びもすっかり忘れてしまっていた。なんかなぁ、残念だなぁ、と思いながらもそのまま何年も過ぎていくのだった。

 そんなこんなだったのだけど、最近なぜか突然またやってみようと思い立った。かなりいろんな事を忘れているので、最初はとにかく毎日楽器に触ることからである。正しい持ち方や身体の姿勢などは身体が覚えているので、そういう基本部分を注意しながら、何となくいじってみる。そうすると、少しずつ以前やっていた曲のやり方を思い出してきた。そうなってくると面白くなってくる。というわけで、本格的にフッカツしようと思ったのだった。(最近わかったのだが現在手持ちの馬頭琴は、モンゴルの最高級職人バイガルジャブ氏の製作だったのだ。んでも弓の出来はいまいち^^;; 通常バイオリンなんかでも弓製作は別人。)

 まずはネットで馬頭琴について検索してみる。驚いた!今はこんなに検索にヒットするのか。そしてこんなにやっている人がいるのか。自分が始めた当初は、楽器のメンテナンスをやろうにも、必要な部品やノウハウを知っている人は皆無に近く、弦楽器専門店でも扱ってるところはあるわけが無く、西洋楽器の弦楽器職人にはメンテナンスを断られたのである。「扱ったことがないので責任が持てない」と。もっとも多いメンテナンスは、弦のメンテナンス。弦は二弦だけど、各弦はバイオリンなどの弓と同じく、ウマの尻尾を束ねたモノなのである。100本前後のウマの尻尾を束ねてひとつの弦として、それをこすって音を出すのだ。モンゴル国型はほとんどこの状態で、内モンゴル国型は尻尾の代わりにナイロン弦が張られている。モンゴル国の演奏家でも、日本で演奏するときはナイロン弦に張り替えることが多い。日本は湿度が高くその変化も激しいので尻尾を使った弦では伸び縮みが激しく痛みやすく切れやすいのだ。音程も安定しない。
 自分もナイロン弦に張り替えたかったのだが、それをやってくれる人がいない。弦楽器職人は、弦の張り替えはやってくれなかったが、弓の張り替えの仕方を教えてくれた。それをメモして何度も試し、ようやっと自分で張り替えが完璧に出来るようになった。

  今思えば、現在のように馬頭琴が普及していなかったおかげで、自分でメンテナンスする技術を身につけることが出来たのだ。そのために構造も調べたり、分解修理もする事を覚え、弦楽器の基本構造を知り、竹やひょうたんのギターを作って遊ぶことにつながった。駒も自分に合うように無数に作り、キャリングケースも付属のモノがあまりにしょぼいので、それも作ったのだが、なんかその部分はムキになって作っていたようにも…。(すべて手縫いなり)
(もいっかい、つづく)

馬頭琴 (3/3)  (2006.4.24)

  さて、今回のフッカツ計画のまず最初にやったことは、駒の制作である。(駒 : ネックの上や胴体の響板で弦を支えている部分)
 最初の頃から自分に扱いやすいように駒も作っていたのだが、それでもまだ改良の余地はあり、久々に駒を作り直した。今は数々の電動工具や刃物を持っているけど、以前は全部手作業で基本的な工具でやっていたのだから、よくやっていたもんである。
 それが出来たら、今度は「サイレント馬頭琴」である。以前の練習でネックになっていた事のひとつが音量であった。その頃は、木工の技術もそれほど無かったので作ること自体を考えなかったのだが、今回はあっさりと「作っちまおう」と作ることにした。
 バイオリンでは、胴体の響板がなく、胴体が「わく」だけの「ミュートバイオリン」がある。日本の住宅事情が産んだのか、音の響かない練習用である。馬頭琴のミュート版は、作ってる人がいることはいる。ネットで調べたらいた。ただ、自分的には納得の出来るものではない。ネックが鉄パイプで胴体の形状もまったく違う。どちらかというと、指運びを練習するためのモノという感じか。自分的には、楽器を正しくかかえて正しく弾き、音量だけが小さいモノが必要だと思ったのだ。なので、自分で作るしかないか、と。(結局作りたいんだろうと?^^;)
 んで、少しずつ数日かけて完成したのが写真のモノ。実用一点張りなのでウマの彫刻などのよけいなモノは一切無し。胴体の大きさ、弦の長さや駒の位置などは完全に手持ちの馬頭琴と同じにしている。左手で扱うネックの部分は、背中の部分も大事なので、極力同じに。

 で、弾いてみた。驚いた。これでも結構音は大きい。もちろん、本物に比べたらはるかに音は小さいが、弦を張った竿(上下を貫く棒状の部分)自体が結構音を発するのだ。
 ん~~、まぁしょうがない。隣家までハッキリ聞こえる音量ではないし、いくら音が小さい方がいいと言っても、それなりの音量がないと耳で確認はできないし。

 というわけで、とりあえずの練習フッカツの準備は整ったのだった。以前よりはいろんな情報が揃いやすくなったので、その分の条件は良い。ただ、少し気に入らないのは、以前はほとんどこんなモノをやってる人はいなかった。日本全国見ても珍しい部類のやつだったはずなのだ。それが今では教室も多く、演奏活動している人までかなりいる。ん~、そう言う点はちょいつまらんかなぁ^^;;
(やっとおわり)

あのこはたあれ  (2006.4.26)

  物持ちがよいので、小さい頃のモノも結構残っている。幼稚園から小学校にかけての頃に良く聴いていた童謡のレコードも何枚もある。「ないしょのはなし」「かわいいさかなやさん」などなどの童謡である。これを毎日のように聴いていた記憶がある。好きだから買ってもらったわけではなく、あるから聴いていて、聴いているから好きになっていたのだと思われ。親か知り合いの大人が聴かせようと買ってきたのを聴いていてはまったのだろう。

 先日、ひょんな事からこのレコードを取りだして見てみた。(1966年発売のレコード)
今まで気づかなかったのだが、「あのこはだあれ」の曲。

♪あのこはだあれ だれでしょね?

のスタンダードな童謡である。

 なに気にその曲のタイトルを見たら「あのこはたあれ」になっている?「たあれ」??「だあれ」じゃないのか?あ~、そういえば正確な時代考証で演じている江戸時代のセリフでは「誰かおらぬか?」と言うところは「たれか」と言っていた。あの頃は濁らなかったらしい。すると、それは江戸時代だけではなく、この童謡が作られたころでもそうだったのか?と思い、歌詞を見てみるとたしかに

♪あのこはたあれ たれでしょね

に、なっている。こういうのを歌う機会というのはほとんど無かったと思うが、聴くにしろ歌うにしろ一度たりとも「たあれ」で意識したことはなく「だあれ」だった。

 せっかくなので聴いてみることにした。幸いレコードプレーヤーもある。(昔からあったのではなく、10年ほど前に買ったプレーヤーである)

 あのこはたあれ 
細川雄太郎作詞/海沼 実作曲
歌 小沼紀恵/コロムビアゆりかご会 コロムビアオーケストラ

あの子はたあれ たれでしょね
なんなんなつめの 花の下
おにんぎょうさんと 遊んでる
かわいい みよちゃんじゃ
ないでしょか

これが1番目の歌詞で、歌は4番まである。
ん~・・・
歌詞は「たあれ」でも、歌は 「たあれ」と歌ってるようにも聞こえるし、「だあれ」とも聞こえる。デジタルでないので、その辺の発音はクリアにはわからない。誰か児童合唱団かなんかで歌ったことある人はいないかなぁ?

常識力検定?   (2006.5.1)

 新聞で知ったのだが「常識力検定」ってものがあるらしい。例題がいくつか載っていたのだが、、、、常識っていうより雑学検定だろ…。

 ってので思い出した。最近読んだ本でどの本だったか忘れたけど(確か養老孟司氏の本)、著者とある人との会話。「日本人は「常識」を雑学のことだと思ってるんじゃないか」みたいな内容だった。これは実に的を得ていると思ったし、この常識力検定なんかはその最たるものか。
 常識とはなんなのか?というのを定義するのも難しいけど、やはり日常の当たり前の感覚として、わざわざ説明しなくてもわかること、なんじゃないのかなぁ。こういう場面でこういう事をすると、相手はどう感じるか。こういう場面ではどういう行動を取るべきか、などなどを、自分と相手の立場に立って考え「正しい」と思う事をする。そういう「常識」を持つ者を「常識力」が高いなどとは言わないし、、、。

 「常識力検定」は、そのへんの「常識」というものを勘違いしてるのか、それとも単に検定のタイトルの選び方が適切でなかっただけで、日常のいろんな雑学知識力を検定したいのか。んでも、残念ながら前者なのである。
 検定を始めたきっかけは「基本的なマナーを知らない若者が多い」という事だったとか。
これも良く言われることだが、若者に限らず中高年の「いい大人」でも充分マナーを知らないアホは多いのだ。かえって「いい大人」だけに始末が悪かったり。おまけに「いい大人」は、マナーを知っているのにそれに反することを平気でやるし。

 確かに日常の心遣いとしての「常識」には、日本ならば日本の伝統的なしきたりに沿った振る舞いなどはある。でもそれは「心」が先にあっての振る舞いであって、振る舞いやいろいろな知識を並べ立てたところで意味はない。
 単なる雑学ゲームなら面白いのだが、真剣に「教育に最適」なんてうたい文句でこの検定をやっているところなどは、やはり感覚がずれてるとしか思えないのだった。

雑記帳55< エッセイメニュー >雑記帳57