日記  (2005.10.26)

 今まで日記というのは、ほとんど書いたことがない。記憶では二度ほど挑戦したことがあったと思う。一度目は何か普通のノートに書いたのだと思う。もちろん、文字通りの三日坊主である。
 その次は小学校5年か6年の頃。小学校向かいの文房具屋で、カギ付きの日記帳を買って「書くぞ~~」と張り切って、やはり文字通り三日でやめたのでした。

 なんちゅうんだろ、やっぱり力んでいたのだと思う。なんだか毎日きちっとしたテーマの元に書き続けるものだという強迫観念でもあったような。んな気迫で始めたら続くわけはないのだ。

 さて、そのカギ付きの日記帳というのは、豪華な表紙で厚さ3cmくらいの製本だった。そして本の開く部分、要するにめくるところの裏表紙から表表紙にかけて帯がかかるのである。その帯の端の金具が、表表紙の留め金具に留まり、小さな鍵をかけることができる。当時で千円くらいしたのではなかったか。そんな豪華な日記帳も、数ページだけを使ってお蔵入りの運命と相成った。

 しかしそれではあまりにもったいない。そんなある時、小学校の6年だったが、有志(?)の男女3人ずつでクリスマスのプレゼント交換会をやることになった。ランダムの交換ではなく、気に入っている同士の交換なので相手は最初から決められている。
 自分は、手描きのオリジナル漫画カレンダーと日記帳だった。そう、前述のカギ付き日記帳である。日記帳は数ページ、つまり1~2枚しか使っていない。そこで、その部分を破り去るのだけど、本というのは「折り」によって閉じられている。一枚破ると、本の中央でそこにつながっている他のページが半端になるのだ。なので、その相棒のページもきれいに取り去る。
 そういう作業を丁寧にやって、いかにも最初からそんなページは存在しなかったような新品の日記帳がフッカツしたのであった。もちろん、小学校当時のガキの自分が「完璧」と思った作業なので、今見たらバレバレなのかも知れぬが^^;;。

 その日記帳が使われたのかどうかは知らない。カレンダーを見たあちらの親御さんが「絶対に漫画家になれる!」って言ってくれていたらしいことだけは、その彼女から聞いたのだった。

靴音  (2005.10.28)

 “コツッコツッコツッ・・”
という、革靴のかかとの音。子供の頃、この音がとても好きだった。

 アスファルトやタイルの上を小気味よく歩き響く音。わずかに砂や土のジャリッという音がノイズに入るのも良い。この音にとてもあこがれたのだった。音も心地よかったのだが、おそらくあのビジネスシューズの革靴を履くというのもかっこよく見えたのだと思う。

 かかとに金具を打ち付けた靴で、“カツン カツン・・”と金属音を響かせる音もあるが、あれはちといただけない。
“コツッコツッコツッ・・・”は格調高いけど、金具の音は、少々卑しく聞こえたのだった。(履いてる人には申し訳ないが^^;)

 今は革靴は、カジュアルな革靴以外は履かないし、いわゆるビジネスシューズはまったく履かないし履きたいとも思わない。でも、今でもあのかかとの音は好きだったりする。

基準の違い  (2005.11.7)

 ようやく治まったのだけど、背中がひどくかぶれていた。きっかけは整骨院でマッサージの時に塗る消炎剤で、以前は平気だったのだ。体調の問題か体質の変化かはわからないけど、過敏に反応してしまったらしい。元々アレルギー体質なのだけど、もしかしたらアトピーの気もあるかも知れないと。
 今回もいったん治まったのに、再びちょっとしたことで同じ部位がひどくかぶれた。皮膚科に言わせると、皮膚というのは脳と同じようなものだそうだ。一度そう言うモノを皮膚が記憶してしまったので、同じ症状がぶり返すようになったりすると。

 さて、ご多分に漏れず、今回はステロイドの軟膏をもらっての治療となった。「これを多めに背中に塗ってください」と言われていたので、多めに塗った。
 3日後に皮膚科に行って背中を見せると「あぁ、全然駄目だ。あの薬を塗ってたらもうほとんど治ってないといかん。薬が合わないのかな?」と。薬の残量を聞かれたので、8割くらいはまだあると答えた。小さい5gの軟膏チューブの薬である。
「あぁ、そりゃ少なすぎる。背中全体だから、3日だったら一本なくなるくらい塗らんと」なに?そんなに塗るのか?ステロイド剤は強力だから、使い方を気をつけないといけないと巷では流布されていたから、本来は少しずつ薄く塗るものだと思っていた。今回、少し多めに塗れと言われたので、それよりは多めに塗ったのだけど、全然その量の感覚が違っていたのだ。
 こういうとき、お互いが前提としている基準がまったく異なっていたから「多めに」などと言われても、こちらの基準でやってしまったわけで、最初から一度にどれくらいを使うのか、を言ってもらえれば良かったのだ。

 考えたら、医者にかかるとき、同じようなことは結構あるような気がする。症状を告げるときも、こちらの日常の感覚でどれくらいひどいかそうでもないかを言うのだし、医者もその曖昧な問診で診療しているとしか思えない場合もあるし。

 今回は少なすぎたから良いようなものの、薬を多く使いすぎた場合は、ことによったら大変なことになる場合もあるだろうに、もちょっと考えてもいいんではないのかぇ? 

防犯?  (2005.11.9)

ある店のトイレ内の張り紙

こちらのトイレは
防犯上、従業員も
使用しております

ん、まぁ、言いたいことはわかるが
日本語としてはだいぶおかしいぞ^^;;

楽ちん車  (2005.11.14)

 最近、どんどん車のスタイルが変わってきている。スタイルと言ってもデザインのことではなく、未来車というか・・・。
 なかでも最近の目玉は、運転席というか、ボディ上部が180度回転してしまう車。「バックの苦手な人でも安心」なんちゃって、「らくちん車」などと呼ばれているが、どうなんだ?と思う。

 バックや車庫入れが苦手だという人は珍しくない。でも、あくまで得意と威張れるほどではない、というだけで、それが出来ないというわけではなかろう。しかし、本当に出来ない人というのもいるらしく驚かされる。何が驚くって、それでどうして運転するんだ?ということなのだ。運転して良いと思ってるのか?ということである。

 いつだったか、プロのレーサーが言っていた「みんな車の運転を甘く考えすぎてますよ。あれは包丁を振り回しながら表を歩いてるのと同じですから」という言葉が印象的だった。自分も運転する身なので実感するけど、運転は本当はすごく難しい。一見、自転車のように無意識に操縦して、何事もなくやり過ごしているように思うけど、それは幸運の連続なのだと言っても言い過ぎではないような。
 事故を起こしてから、それまで安易に運転していたことを後悔したりする人は多いけど、運転する側も近くを通られる側も、本来は命がけと言っても良いのではないか。

 友人の中には「世のため人のために免許は取らない」と冗談めかして言っているのもいるが、実は本心であって良い心がけだと思う。これほど危険なものを、うまく操れないと自覚していながら運転するというのは考え直した方が良いと思うのだが。

 これを書いた数日後、ラジオで所ジョージ氏が似たようなことを言っていた。簡単に運転できる車なんか作んなよ!と。酒酔い運転がなくならないのも、酒を飲んでも簡単に運転できるような車だからだよ!と冗談で怒っていたが、これはなるほど一理あり^^。

次期携帯電話  (2005.11.16)

 先日、道を歩いていると独り言を言っている女がいた。いかにも普通に誰かと会話をしている風で、なんだかゾッとしたのだけど、よく見たらイヤホーンとマイク式の携帯電話らしかった。運転中の携帯禁止が厳しくなり、そういうタイプの携帯電話アダプターが普及しているのだろうけど、普通の状況ではやはり異常に見える。

 そもそも電車や店内などで携帯を自粛させる方向になったのは、「うるさい」からであろう。でも、普通に話をしているのをうるさいと感じないのは、やはり携帯の場合は相手の声が聞こえず、一方の人間だけの会話なので、ものすごく違和感があるからでしょう。純粋にうるさいという声量ではなく、小声でも違和感を感じるし。 公衆電話などでは、場所というのが固定されていて、そこで電話をするのはみんなが了解しているけど、携帯の場合は場所を選ばないので、神経にさわるのだったり。

 そうすると、このヘッドフォンとマイクのタイプ(こういうのは何と呼ぶのだ?)だとさらに違和感は加速する。なにしろ、一見独り言なのである。携帯の場合は、見るからに携帯電話を持っているからわかるが。マイクとヘッドフォンがさらに軽量で装着しているのもわからない様になったら、それで会話をしているとアブナイ人にしか見えない。時々使っている人を見かけるけど、一瞬アブナイ人に見え、次には私服警官か?と思ったりする。

 これは現在の携帯電話以上に自粛強要が厳しくなるんではないのかなぁ?「他のお客様が気味悪がりますので、電車内でのご使用はご遠慮ください」とか^^。

蝶ネクタイ  (2005.11.21)

 今はネクタイはなるべくしたくないけど、小さい頃はそういうモノにあこがれたりする。自分が最初にあこがれたのは蝶ネクタイだった。ガキがフォーマルなおしゃれをするとすれば、通常のネクタイよりは蝶ネクタイというイメージもあるが、おそらく何かでそういう写真か、実査に蝶ネクタイを付けてるのを見たのだろう。

 後にひとつ買ってもらったのだが、それまでは折り紙で蝶ネクタイを作って、ピンで首元に良く留めていた。紙を折って箸置きを作るのとほとんど同じ行程で、最後に半回転ひねって折り、緩いVの字になるようにするのだ。それをいくつも作って、おそらくは安全ピンで留めていたような。若干4~5歳の頃のことであった。

ウォークマン  (2005.11.26)

 ウォークマンが世に出たのは、自分が高校の頃だったと思う。何でも小さく高性能にしてしまう日本人の真骨頂だったでしょう。「ウォークマン」という名称はソニーの商品名であるが、もちろん英語としてはおかしいらしく、欧米では「サウンド・アバウト」と呼ばれているらしい。今でもそうなのか、それとも今では「ウォークマン」で通用するのかどうかは知らない。
 欧米のミュージシャンにはウォークマンの受けが良かったらしく、ある雑誌に載っていたボブ・ディランの声が印象的だった(たしかボブ・ディランだったと思うが…)。
「この小さなヘッドフォンを通して小さなカセットデッキで聴く音楽はすばらしく楽しい。私はこれのために歌を捧げる」と言って、アルバムにウォークマンのための歌を入れたとか。曲名もそのままずばり「サウンド・アバウト」だった。

 例によって自分は、爆発的に流行したウォークマンには背を向けていた^^;。はじめて手にしたのは、大阪で会社を辞めた後のバイト先で、ゴルフ大会での賞品としてだったと思う。どこのだかわからない、なんちゃってウォークマンという感じで、ちょいとデザインもその頃のにしてはダサいぞというものだったけど。
 その後、デザインがメチャクチャ気に入ったので買ってしまったものがあった。パナソニック製だったけど、買ったからには会社の行き帰りに電車の中で聴いていた。
 使ってみたは良いが、なんだか違和感だったのだ。外部と遮断されて自分の好きな音楽を聴いているという状況は悪くはない。でも、リアルに接している世界(日常)が目からは入ってくるのに、音は無関係であるというのがとても違和感だった。
 視覚と聴覚との情報が一致していない気持ち悪さというか、なんかすっきりしないモノがあって、結局しばらく使ってやめてしまった。それ以降は音楽を楽しむためとしては使ったことがない。

 ある時、語学を勉強したくて今度はワイヤレスを買って使っていたことがあったけど、それは仕事中だけで、表を移動するときなどは使わなかった。フリーの専属で勤めていたので、仕事場でそういうことはやれていたのだけど、通勤はバイクか自転車だったので、ウォークマンを使うことなどは言語道断だったのだ。

 こんな事柄を思い出したのも、先日電車に乗っていたとき、前に座っていた男が、おそらく携帯で音楽を聴きながら、床で軽くステップを踏んでいたからだった。うるさかったのだ。音としてはうるさくないけど、自分の世界に浸って周りの迷惑を考えずに足を踏みならしているのはうるさい。自分は音楽を聴いているから自然にやってるのだろうけど、ヘッドフォンで自分だけの世界なのだし、なんだかその男がとても馬鹿に見えたのだ。自分の世界以外は知らないもんねえ、と言ってるみたいな顔に見えて。

展示会に親族…  (2005.11.28)

 1994年のことだった。初めて展示会なるモノを開催した。初めての展示会は個展ではなく、陶芸とのジョイント展だった。
 旅仲間の友人が、埼玉の福祉作業所に勤めており、そこでは陶芸や織物が作られていた。それまで、展示会なんて遠い未来の、自分には無縁のことだと思っていたのだけど、ひょんなことからギャラリーを紹介され、意外に簡単に展示会を開けることを知ったのだ。そのギャラリーでは現在も毎年個展を続け、毎年新作はそこで出品することにしている。

 親族関係に大々的に案内を出したわけではないが、とりあえず姉夫婦宛くらいには出しておいた。今でこそ普通に個展なんかをやっているが、その頃は一大イベントに思えたのだろう。こちらからは両親、あちらからは姉夫婦やその親族が集まった。当然のことながら、やってくる日取りを決めてやってきたのである。
 とんでもないことになった。いや、トラブルがあったわけではないのだけど、取り立てて広いわけではない会場内に十人以上が集まったのだ。一応作品を観たりはするものの、時間のほとんどはお互いの挨拶や会話である。それもラフな格好で来ているわけではないので、会場内はまるで披露宴の控え室と化したのだった^^;。絵はカベに飾っているモノの、陶芸類は部屋の中央にまとめて並べてあるため、なおさら人のいる空間は狭く、入り口付近で立ち話を始めるのもいる。当然のことながら、そんなことをされては、会場に観に入ろうとする人の精神的な防波堤になってしまうため、注意を促さねばならない。

 それ以来、むやみに親族を呼ぶのはためらったのだった^^;。

切れない電話  (2005.11.30)

 自分から電話をするのが苦手という人は多いのではないだろうか。自分もそのひとりである。完全に明確な連絡用件がある場合ならまだ良いけど、なんちゅうか電話をかけるタイミングと切り出し方が苦手なのだった。

 ところで、電話の切り方も難しいもので、切るのが難しいタイミングの人というのも多い。それでも、かけた方が切るというのが電話のマナーだと思っている。最近はそう言うケースに出会わないが、向こうからかけてきたのに、電話を切ってくれないという人が少なからずいる。自分から電話を切るのを悪いと思っていて、なかなか切るタイミングをつかめないという人もいるのだけど、そう言うことにもまったく無頓着というか、自分の都合でかけてきたので自分は時間が自由でいくら話していても問題はない、というのがいるのだ。相手の迷惑や都合には無頓着と言うことで。なかなか切ってくれないので、「今、手が離せなくて」と言っても「忙しそうだね」と返すだけで、切るという発想のないバカもいたり。

 ある程度の年齢になると、かける相手の状態を気にかける人がほとんどである。「今、話してて大丈夫ですか?」と。もちろん、ある程度の年齢なのに先述のような無頓着な輩も多いけど。
 相手の迷惑を気にかける人で結構多いのが、こちらからかけたのに「今(電話で話してて)いいんですか?」と聞いてくる人。この場合「ちょっと手が離せないからゴメン」とこちらが答えると、危ない人達の会話になってしまうのだけど^^;。

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