イヌはイヌ  (2005.4.18)

 「うちの○○ちゃんはぁ~」
と、自分ちのペットを完全に人間として扱っている図は、昔はよく漫画なんかで見た。そんなセリフははかなくても、ペットの犬や猫をそのままイヌやネコとして扱っていないというのは、小説やドラマくらいでは遭遇した記憶はある。
 でも、実際にそういう光景に出くわしたことはないから、あれは誇張した図なのだろう、と思っていたら、実際に出くわしたという人に会ったことがある。なんでも、「イヌ」とか「ネコ」という固有名詞を使ったら、すごくいやな顔をされたというのだった。イヌやネコではなく、人間としての家族だと思っているらしい。

 ペットではなく家族と思って飼っている、いや、一緒に住んでいるというのはよく聞くし、それはとても良いと思う。そういう家庭では、イヌならきちんとイヌとして扱っている。
 ペットを動物ではなく人間と「同じ」と考えて飼っているというのは、どう考えても大事にしているとは思えないですよねえ。それは自分の都合で、ペットを擬人化しているだけで、イヌならイヌとしての存在を尊重していないことだし。

 こんなところで、こういうハタ違いの問題を持ってくるのは怒られるかもしれないけど、某女性学の創始者田嶋○子センセィ。あの人の主張を聞いていると、実はあの人が一番、女性の女性としての存在を尊重していないんじゃないか?なんていつも思ったりする。やっぱり話が飛び過ぎか?^^;

腕時計  (2005.4.23)

 腕時計をしない、またはしないことに決めた、という人は時々見かける。自分も過去に一度だけ、腕時計をやめてみたことがある。でも、時間を知るのが必要なときはあるし、そのときは時計を見られるところを探したりして不便で、結局またつけることにした。そもそも、それほどいつもいつも時間にとらわれているわけではなかったので、しないからといって不便になる以上の変化も無かったのだった。

 初めて腕時計をしたのは小学校4年か5年だった。恐ろしく裕福で、腕時計をたくさん持っていた友人にもらったのが最初だったと思う。ミッキーマウスの両腕が針になっているやつだった。もっともそれはすぐにはめるのはやめたと思う。たぶん、ミッキーというデザインが好きではなかったのだったか。そういや、ダイヤの表面のようになっている「カットガラス」の腕時計もしたことがあった。最近は全く見ないと思うが。

 特に小学校の時は、腕時計をするということにとてもあこがれましたねえ。1日に何度も「117」に電話して、秒針を合わせていたりした。もちろんゼンマイ式だった。いまのはクオーツなので、もちろんそんなに狂うこともなく、おそらく数年に一回しか合わせていないと思う。それでも正確だが。
 と、思い立って見てみたら30秒遅れていた。前回時計を合わせたのは、少なくとも半年以上前だったかと。そういや大学1年の時、老ドイツ語講師が、「今は時計というのは狂わないモンなんですよねえ。昔は時計は狂うのが当たり前で、1日に何分も違ってたもんだけどねえ。」と言ってたっけ^^。

 初めて腕時計を着けた時から現在までの30年強、所有した腕時計というのは、現在のモノで7個目くらいだと思う。好きな人は一度に10個くらい持っていて、気分やファッションで換えるのだろうけど、自分はひとつの腕時計を壊れるまでずっと使う方である。信念ではなく、1個で十分というか、一度に2つ以上所有していたことはない。いま使っているのだって、16年前に買ったやつである(!)。まぁもちろん最長記録ですが。買ったのは秋葉原で2万5千円前後だったと思うが、良いものは最初は高くても、結局は長持ちして安くあがるという見本みたいなモンである。
 その16年間、ベルトは10回ほど換えてると思うが、修理に出したことはない。さすがに日付表示が壊れて変わらなくなっているけど、その他はまったく問題はない。デジタルではないので、日付部分が回らなくなっているのである。
 現在のモノはタグ・ホイヤーの200m防水で、デザインと実用性で買ったのだけど、ブランドには疎いのでタグ・ホイヤーという名前も知らなかったし、自分のがそうだというのも知らなかった。
 ある時、友人たちとそれぞれの腕時計の話になり、タグ・ホイヤーとかいうところのが良いという友人がいた。「おまえのはどこの?」と聞かれ、メーカー名をそれまで全く気にしてなくて知らなかったのだけど「TAG HEUER」と刻印されているのを見て「えっと・・・・、タッグ、、ヒュー・・??」。「あ?どれどれ。・・・アホ、これがタグ・ホイヤーじゃん」と^^;;。

 200mも防水が必要なわけはないけど、素潜りはするので非常に重宝した。この時計を着けて、何度も沖縄の珊瑚礁の海を堪能した。そろそろ新しいのを買った方が良いかなぁ?と思いつつも、まだ問題なく動いているので、そんなこんなで数年以上も「買おうかなぁ?」という状態が続いてたりする。
 修理に出したことはないと書いたが、5年ほど前だったか、近所の時計屋に日付部分の修理を頼んだら、ホイヤーに修理に出さないとならないけど、ホイヤーの修理代がむちゃくちゃ高いから、日付機能を使う必要がなかったらこのままの方がいいですよ、とアドバイスしてくれた。それで、そのまんま使っている。割合モノ持ちはいいので、過去に使った腕時計はどこかに取ってあるような気もする。

 さて、これくらいひとつの時計を使い続けるのは、時計屋泣かせか時計屋冥利につきるか?^^


松本零士氏の「銀河鉄道999」の中で、時計コレクターの機械化人のお話があった。ところがそのコレクターはとても時間にルーズ。
メーテルは鉄郎に
「時計が好きなのと、時間に几帳面かどうかというのは全く別のこと」
と語っていた。 ん~~、とても納得できてしまった^^。

自分次第  (2005.4.27)

 昔の友人で、会社が変わるたびに
「どこへ行っても、○○なやつばかりなんだよなぁ」と愚痴ってるのがいた。どこの会社へ行っても、○○なやつが多くて、仕事に△△な支障が出る、と。

 『どこへ行っても』同じような、ってことは、自分自身に問題があるって考えた方が筋が通ってるぞ。^^;

世紀のマジックショー  (2005.5.5)

 さすがに最近ではそんなモノは上演されないが、子供のころには何度かテレビで見たことがある。マジックショーで、寝ている美女のおなかに高速回転する円盤のノコギリが降りてきて、おなかを切り裂く。おなかには布がかぶせてあるのだが、マジックによっては鮮血が飛び散ったりするモノもあったり、ただ切っているだけのモノだったり。もちろんマジックであるから、その後切られたはずの美女は傷ひとつ無く元気で起きあがって来ると言うもの。

 でも、一度だけとんでもないのがあった。おなかを切っていくと、鮮血が流れ、その後に腸などが垂れ出てきた。そしてほかのマジックと違うのは、そのまま美女は寝たまんまで終わったことである。小学校入学前後に見ていたのだと思うが、あれは後で手術して治すのだろう、なんて思っていたりした。でもそれにしても、切った後に切られた美女が元気に起きあがってくるからマジックなのであって、アレはいったいなんだったんだ?と、未だに疑問だったりする。それともどっかで記憶が脚色されたり入れ替わっているのかなぁ、とも思うが。

 あの手のマジックショーが無くなったのは、全くなくなったのか、それともテレビ向けではないという事で、特殊な舞台などでは今でもやられているのか?テレビでやるとやっぱりいくらマジックとはいえ、倫理的に問題あるんだろうし。かつて、鮮血が流れるようなモノをテレビでやっていたときは、きっとそれを見てショック死した老人も何人かいたことであろうし。

パラレルワールド 1/2  (2005.5.7)

 パラレルワールド。一般に「平行宇宙」と呼ばれたりするが、SFではよくこのテーマでお話が作られたりする。たとえば、織物をイメージしてみる。縦糸と横糸が絡み合っているが、縦糸の一本がいま自分がいる世界である。横糸は時間で、過去から現在、そして未来へ続く縦糸を、無数の横糸が時間の目印になって区切っている。
 さて、自分の世界である縦糸の左右の隣にも縦糸がある。そのまた隣にもたくさん縦糸がある。隣通しの縦糸はよく似ているが、離れるに従って、ちょっとずつ違いが際だってくると考えていただきたい。
 このように、無数の平行して存在する別の宇宙がパラレルワールドである。よく似た別の宇宙もあれば、全く様子の違う宇宙もある。

 これは全くの作り事のSFの題材のように思えるが、実は現代物理学では、パラレルワールドは間違いなく存在することがわかっている。きわめて単純なモデルだが、たとえば、ひとつの粒子がある瞬間右へ移動したとする。しかし、この粒子はまっすぐ移動したり左へ移動する可能性もあった。その分岐点で、宇宙はあらゆる可能性に分かれて進んでいく。そして、それぞれ別の宇宙として成長していく。もちろん、宇宙には無数の出来事や粒子があるのだから、分岐点は無数にあり、考えられないほどの平行宇宙に分かれていくのだ。ちょっとばかばかしく思えるだろうが、これは物理学で(量子力学で)認められている。物理学は量子(りょうし)力学の導入によって、ちょっと聞いていると禅問答や哲学、あるいは宗教の趣を感じさせたりするが、その量子力学なしに現代の先端技術はあり得ないのだった。ちなみにアインシュタインは、量子力学を生涯認めなかった。(結果はアインシュタインの負け)

 また、ビッグバンで宇宙が誕生したとされているが(下記注)、ひとつの宇宙が誕生すると、その宇宙からは無数の子宇宙が、またその子宇宙からは無数の孫宇宙が、、と、どんどん宇宙が生まれることがわかっている。ただ、それぞれの宇宙は干渉し合わないので、ほかの宇宙を観測することは不可能である。従って、理論的にはたくさんの宇宙が生まれたり、前述のパラレルワールドが存在していることは間違いないとわかっているが、証明は絶対に不可能なのである。なので、我々の宇宙が大元の宇宙なのか、子宇宙なのか孫宇宙なのかも絶対にわからない。この先どんなに科学が発達しようが、証明は不可能なのだ。物理学にはこのように、絶対に間違いないと理論的にわかっていても、証明の不可能な事象がある。
 我々の宇宙では円周率はπ=3.14159…、であるが、違う値を持つ宇宙も存在しうる。様々な数学の定理などは、我々の宇宙内ではどこへ行っても同じだが、他の宇宙では我々の宇宙とは違うその宇宙での定理があるに違いないと。(物理法則は、同じ宇宙内であっても異なることも考えられる)

 さて、実はここまでは、書こうとしていた話の「フリ」だったりする^^;。でも、長いのでつづく^^;;;。

注 : 宇宙の誕生に関しては、現在ではビッグバン理論より進んだ「インフレーション理論」で説明される。 宇宙は約137億年前に無から生じ、宇宙の開闢(かいびゃく)直後(10の43乗分の1秒後)に、インフレーションと呼ばれる、ビッグバンモデルとはケタ違いに急激な膨張を起こした。その後、10の38乗分の1秒後に高速膨張(ビッグバン)を起こしている。いきなり(誕生と同時に)ビッグバンという大爆発でそのまま膨張したのではないのである。インフレーション理論は、1981年に東大の佐藤勝彦と米のアラン・グースらによって提唱された。

パラレルワールド 2/2  (2005.5.9)

 はじめてパラレルワールドの概念にふれたのは、小学校5年頃だった。当時、NHKで少年向けのドラマをよくやっていて、そのひとつの「タイムトラベラー」というのを見ていた。(ケン・ソゴルという名が懐かしい人は世代がわかる^^)
筒井康隆の「時をかける少女」の続編を他の作家が書き、それをドラマ化したものだった。(あるいは、ドラマの小説化(ノベライズド)か?)
それで、元の「時をかける少女」を読んだのだが、数編の短編も収録されていた。
 その中の短編「果てしなき多元宇宙」というのが、パラレルワールドをあつかったものだった。主人公の少女が軽いめまいを覚えると、次の瞬間に別の世界(パラレルワールド)の「自分自身」に入れ替わっているのだった。元の世界の記憶を持った意識だけが別の平行宇宙の自分の肉体に押し出されてしまい、同じ自分自身の意識だけが、次々に別のパラレルワールドに順繰りに押し出されてしまうのだ。ほとんどは元の世界と同じだが、ちょっとだけ違う部分があり、それに少しずつ気づいて、自分は違う世界に来てしまったのだと気づく。また別の時には、全然違う生活をしている自分自身に押し出されてしまい、途方に暮れたりする。筒井氏得意のドタバタSFではなく、きわめてまじめなSFである。

 これを読んだ時はとても新鮮だった。当時はこういう概念が新鮮だったのだが、後年になって、なんだか全くの架空とも思えない気持ちもあったり。んで、今でも時々このお話が頭に浮かぶ。なんだか、本当に自分がこのお話のように、よく似た平行宇宙に押し出されたんではないのか?と感じる時があるからだ。もちろん、このお話を知っているからそう感じるのであって、この概念を知らなかったら、単なる勘違いですんでいたと思うが。
 何故に、自分が平行宇宙に押し出されたと感じる時があるかと言えば、どう考えても記憶違いにしてはおかしいと思うことが、希にあるからなのだが。ま、それで安易にそのお話を彷彿としてしまうのだが。ただぼけてるだけだったり?^^;
 また、そういう実感でなくても、もしも本当にそのように他の世界に押し出されてしまった場合、とても幸せで充実した世界から、そうでないところへ押し出されてしまったら、そんな所へ飛ばされた「他の自分」がとても忍びなかったり。

 筒井康隆のそのお話の中で、主人公の少女が違う世界に来たと気づくのは電話がきっかけだった。当時はダイヤル式なのだが、電話をしようとすると、ダイヤルの数字が5個しかなかった。とてもとまどったが、電話の修理に来てもらった直後だったので、修理屋が間違えてとんでもないものに変えてしまったと思って笑っていた。笑っているのを不審に思った母親がわけを聞き、少女はダイヤルが5個のモノに間違って直されていると答える。しかし母親は「何をおかしな事を言ってるの?ダイヤルは昔から5個でしょ」と怪訝な顔をする。少女は驚き、最初は冗談を言われていると思ったが、次第にそうではないことに気づく。うろたえながらも、少しずつ少女は気づいていき、新しい世界に慣れようとする。

 人間は誰も正確な記憶を持ってはいない。誰でも過去の記憶は脚色されていく。それで、同じ記憶を共有しているはず同士が、話し合ってみると完全にずれた記憶を持っていたり。そういうのはよくあることで、その点に注目して筒井氏はこのお話を書いたのかもしれない。
 まぁ、このお話のような事が現実に起こったとしたら、順繰りに押し出される自分自身は、すべてがどっかにきちんと押し出されるわけではなく、押し出されようにも自分が(早死にしたとかで)存在しない世界もあるはずで、行き場のない自分自身もたくさんいるはずで。^^;;

おとめ座  (2005.5.13)

 まぁ、並みのガキだったので、星雲や星の写真を目にする機会ができたのは、学校の理科の教科書を見てからだったと思う。
 今時は知らないが、いくつか載っている星雲の写真も途中のページに白黒写真で載っているだけだったかと。
 まじめに授業を聞いている方でもなく、かといって星雲に関して詳しい話などは無かったので、大きさなんかについては全然ピンともこなかったかな。

 教科書などに載っている星雲の写真では、やはりアンドロメダ星雲とおとめ座星雲が定番。
アンドロメダは、やらせとしか思えないナイスアングルだし、ほかにも真上から撮っている写真もある。
 それに比べると、おとめ座星雲(右写真)はほぼ真横からで、上から見た形というのがわからない。なんでいつもこの角度ばかりで、たまには上から撮ってみないのだ?と素朴な疑問を持ったり^^;;;。
 と言うことは、小学生だったのか?中学生でそんなこと思ってたのか?^^;;;

前向き?  (2005.5.16)

 自分は楽観的な方だと自覚しているし、苦労をしてそうにも見えないらしい。ま、たいした苦労はしなかったし、それほど苦労しているわけではないけど^^;。
 ある友人と、一人で介護していることに関して話していた時、前向きに考えているのか?前向きに考えるっていうのも、無理が生じるのではないか?という疑問を呈された。

 こういうのも、前向きという言葉を、それぞれがどういう意味合いをもって考えているかによるけど、自分は正直、「前向き」にモノを考えよう、という意識はないのだった。
 モノは考えようだ、明るく考えなきゃダメだ、とか思っているわけではないし。この雑記にも何度も書いているけど、確かにモノは考えようで、たとえば貯金が10万円だったとしたら「10万円しかない」と「まだ10万円ある」では、天と地の差がある。もちろん、それぞれの生活や状況によるので、あくまで言葉の上での話だけど。
 自分はどっちだろう?と考えると、どっちでもないような。要するに、「こういう風にものごとを考えて生きていこう」という憲章のようなようなものが無いからなのか。

 自分が楽観的だと自覚しているのは、あくまで消去法の問題であって、「悲観的」ではないだろうから「楽観的」だと言っているだけだったり。
 これも何度も書いたと思うけど、自分はあきらめが早いほうである。降参するという事ではなく、よく言えば現状を受け入れるというか。
 二十歳くらいまでは、済んだことをうじうじとよく後悔してたけど、いつの頃からか好まない状況に陥った時、「なんでこうなっちゃったんだろ!?」と考えなくなったような。もちろん、そんな状況で「ま、いいや」と思ってると言うことではなく、その状況がイヤなのはもちろんでも、そういう状況になっちゃってるのはもうしょうがないから、この先どうなるんだ?とは考える。
 原因を考えるというのは、それはそれで大事な事もあるけど、それにとらわれていてもしょうがないという深層心理でもあるのでしょう。はっきり意識してそう考えようとしているわけではないから。

 「前向きですね」というのは「ポジティブシンキング」と同等語で、好ましい有り様みたいだけど、自分の場合はそう見られてもらっても困ったり^^;。

「生」と「死」  (2005.5.18)

 パール・バック(1938年ノーベル文学賞)の名作のひとつに「THE BIG WAVE」(1960年に映画化)というのがある。舞台は、小さな漁村のある小さな日本の島で、つまり「大津波」である。
 パール・バックの和訳書は意外に少なく、この物語も絶版(おそらく出版社の倒産)になったものが最近復刻された。10年ほど前にこの本を知り、そのときは知人のお祝いにプレゼントしたのだけど、すぐに絶版になってしまい、以後まったく手に入らずに残念だった本である。
 自分は色鉛筆で「油ぼかし」という特殊な技法を用いたりするが、その手法を開発したイラストレーターの黒井健さんがこのお話に絵をつけていた。お話も感動的で、絵も実にしっくりと違和感がなかった。
 バックの和訳本は少ない(作品自体が少ないのかも)ので、英語の原書で買ってみたりもした。・・・読まなかった^^;;

 バックは幼少から成人手前までを中国で過ごし、その後日本にも滞在したことがあり、このお話なども、日本人である自分が読んでも違和感無く、むしろ深く日本人の風土に根ざした精神が描かれていると思う。
 このお話の中で、主人公の少年にお父さんが「死」について語るところがとても印象深かった。

 漁村を大津波が襲い小さな村が全滅した、。農家で山の斜面にあった少年の家に、家庭を失った同級生の親友を家族として受け入れることになった。天災と隣り合わせの日本で生き、死の恐怖におびえる少年と父の会話である。(セリフのみ抽出)

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「父ちゃん、日本で生まれて損したと思わんか?」
「なんでそう思うんじゃ?」
「家の後ろには火山があるし、前には海がある。その二つが悪いことしようと、地震や津波を起こしよる時にゃ、だれも何もできん。いつもたくさんの人をなくさにゃあいけん」
「危険の真っ只中で生きるってことはな、生きることがどんだけいいもんかわかるというもんじゃ」
「じゃが、危ない目に会って死んだらどうする?」
「人は死に直面することでたくましくなるんじゃ。だから、わしらは死を恐れんのじゃ。死は珍しいことじゃないから恐れんのじゃ。ちょっとぐらい遅う死のうが、早よう死のうが、大した違いはねえ。だがな、生きる限りはいさましく生きること、命を大事にすること、木や山や、そうじゃ、海でさえどれほど綺麗かわかること、仕事を楽しんですること、生きる為の糧を生み出すんじゃからな。そういう意味では、わしら日本人は幸せじゃ。わしらは危険の中で生きとるから命を大事にするんじゃ。わしらは、死を恐れたりはせん。それは、死があって生があると分かっておるからじゃ。」
「死って何?」
「死とは大きな門のことじゃ。」
「門……どこへの?」
「生まれた時のことを思い出せるか?」
「小さかったし…」
「わしはよう覚えとる。おまえは生まれてくるのがつらそうじゃった。泣きわめいておったのう。」
「生まれとうなかったんじゃろうか?」
「そうじゃ。おまえは母ちゃんのぬくうて暗い腹の中にずっとおりたかったようじゃ。じゃが、時が来て、命の門が開いたわけじゃ。」
「おれ、命の門って知っとったん?」
「いや、おまえは命の門のことを何も知らんかった。じゃから恐れていたんじゃ。馬鹿を見たろう。わしらは可愛いおまえが生まれるのを今日か明日かと待っておったんのに。生まれてからずっと幸せじゃろうが。」
「津波が来るまではな。津波が来て、みんな死んでしもうたから、また怖くなった。」
「おまえは、死について何も知らんから、恐れるんじゃ。じゃが、今日、なんで生まれるのを怖がったのかと不思議に思ったように、いつの日か、なんで死を恐れていたのかと思うようになる。」
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父親が子供に「死とは大きな門のことじゃ。」と語りかける部分がとても印象的で、その先の言葉を忘れていても、その言葉が読みたくて、またこの本を探していたようなもんである。
 絵はついていないのだけど、父ちゃんが両手で空に大きな輪を描いて語る姿が浮かぶ。父親が子供に死を教えるのに、これほどの適切な言葉があるだろうか?と思ったもんである。また、そういうことを教えてもらえる父親というのがとてもいいもんだなと思ったり。生きる哲学をしっかり持って、地に足が着いて生きているという感じで。
 ちなみに、何度読んでもこのお父さんの「声」が星一徹になるのだった^^;;;。

 命を軽んじる昨今、命の大切さを教えることがあれこれ模索されているけど、こういう良い文章を教材にするというのも適切なのではないかと思う。
 この小説のいい点のひとつは、なにかのメッセージを伝えようといううっとうしさが無く、淡々と風土に根ざした生き様が描かれていることかと。

 この本は前回出版時は「THE BIG WAVE」であったが、他社から復刻されるにあたり「つなみ」と改題された。このところの世界的な津波被害に向けて、生きる勇気を伝えたいという思いなのだと思う。装丁などは前回の時のままである。

 『つなみ』 文 パール・バック/絵 黒井健 径書房(こみちしょぼう)

卒論  (2005.5.20)

 一応大学は卒業したので、一応卒論などというものを書いたことがある。建築学科だったので卒業設計なるものもあり、卒論か卒業設計のどちらかを出せばオッケーであった。でも単位数が違うのは、卒業に必要な単位数の問題もあるからか、それとも、一応建築学科だから、設計のほうを単位を多くしているのか??
 単位数の少ない論文でも単位は足りていてどちらかを出せばいいのに、両方をやっている者も結構いた。ご苦労さんな事であった。ま、就職活動へ向けての作戦という者が多かったが。自分は都市計画ゼミにいたので論文であった。
 就職活動といえば、今と違って3年から活動しているものは皆無に近かった。 自分自身は4年の中頃からだったし。

 我ゼミは、国連関係の仕事を主にしている先生が担当で、教授ではなく講師だった(メインの仕事は、国連大学の教授だったかな?^^;)。なので海外や、名古屋の国連センターへ行っていることが多く、指導というのを受けたことはほとんど無かった。たまにゼミにやってきて進行状況を聞くと「うん、しょうかしょうか、よしよし」とニコニコしている先生だった^^。代わりにわれわれを見ていたのは、その弟子のような先生だった。
 我ゼミでは、その代わりの先生のつながりの関係だったのか、神奈川県藤沢市の委託研究という形で卒論を書くということが数年続いていた。藤沢市のどの地域を選んで論文にするかは自由である。
 当時、我ゼミで卒論に着手していたのは9名で、3グループに分かれてやっていた。自分のグループは4人での共同で、「藤沢市の中心市街地の再開発」というテーマであった。その研究対象として、小田急線の長後駅周辺をやったのだが、ぶっちゃけた話、最初からそこをやるのは決まっていて、何ゆえにそこを研究対象に選ぶのか?を後付でこじつけるのであった。

 日本の大学で卒論を書いたことのある人は多くが経験していると思うが、いかに「らしい」体裁にまとめるかなのである。内容は二の次なのだ。そもそも、自分が所属した都市計画ゼミであるが、都市計画に触れたのは3年の週一回の講義が初めてなのだ。それで4年になっていきなり論文を書くなんてのは元々無茶な話。はっきり言って「なめた」行いである。
 都市計画がなんなのか?をじっくり学んで、それから研究して論文を書くならまだしも、いきなり論文を書くことが目的なのだから、何をかいわんやでしょう^^;。それは「学ぶ気」の問題だ、と言われても困る話で、数年間留年してそれを勉強する気が無かったら、そうせざるを得ない構造になっているのだった。
 そんな状態だから、当時も何をどうまとめればいいのか?は泥ナワであるし、いったい何を書いたのか?も、結局わかっちゃいないのだった^^;;。いかに大量の資料を集め、それでページ数を稼ぎ、、、というのに腐心するのは、ほかのゼミの人間も同じだった。

 出来上がった卒論は、4人で分担して書いてA4で300枚くらい。我々の程度の輩に都市計画にかかわる結論を出せるはずは無く、「計画に向けて」という終章で苦し紛れに終わっているものだったのだ。
 提出した卒論は、簡易製本で閉じてあるもので、各人も自分用にコピーしている。例によって自分用のは凝って作り、写真のように豪華ハードカバー+箱つき+帯つきである。(すでにいちびりが・・・・)
 ゼミの担当講師が佐々波先生という方だったので、通称「ナミ研」と呼ばれていた。自分用に作った本の帯の背部分には「波研の卒論・待望の58年度版」と書かれている。(おまえが書いたんだろうって?^^;)
 帯の正面部分はこうだ。

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『われわれ取材班は、衰退しつつあるこの長後をだまって見ていることは出来ない(川口浩水曜スペシャル探検隊隊長)』
ほとんど前年度(昭和57年度)の卒論と、藤沢市役所から入手した資料で積み上げ、これだけの厚さに仕立て上げた卒論が今までにあっただろうか。
都市計画の基礎勉強もままならず、ただ期限に追われてどうにかこうにか卒論を仕上げた4人。波研2-1班4人の落胆と焦りが語りかけてくる問題の書。<定価=5057円> 増刷出来!
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繰り返すが、これは自分用の保存版である。ん~、でもこれで出してみたかった気も^^。
 そういや当時はパソコンのパの字も無い時代。電卓型のポケットコンピューターが少し普及していた程度。今ではワープロやTex(組版ソフト)で仕上げるのだろうが、当時は手書きである。
 ただ、うちのゼミにはなぜか「和文タイプ」なるものがあった。かつては運転免許証の代書屋がよく使っていたやつである。ゼミで和文タイプをけっこう使った記憶があるのだけど、今見てみると図表部分に使っているだけだった。まぁもちろん、あれで文章を打っていた日にゃ、大変なことになりますけどねえ。携帯で文章打つよりも手間がかかるし。

 さてその卒論は、当然藤沢市役所にも提出された。藤沢氏の委託研究をやっていたのは、ほかにも数校あった。ほかの大学のゼミが論文を出したとき、それはおそらく100ページにも満たないものだったのだろう。市役所も内容は関係ないのかろくに読みもしないのか、担当官はそのとき我々の厚さだけは立派な論文を彼らの前に出したそうだ。
「法政はこんなの(こんなに厚いのを)持ってきたよぉ」と。・・・・ ┐('~`;)┌

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