友人のO君のこと  (2002.8.5)

 高校は法政二高へ入り、そのまま法政大学へ進んだ。受験雑誌には、法政大学は“知名度のわりに入試はやさしく・・”と書かれていたらしいが、おそらくそのとおりだろう。
 大学への進学では卒業試験も推薦試験も無い。高校も第一志望にしていた法政二高が最も簡単だった。もっとも、自分が受験した時よりもその後の甲子園に出たあとは、はるかに倍率が上がったらしいが。そもそも、高望みはしていなくて、受かるところしか受けなかった。
 高校三年の年明けなどは、推薦待ちで授業は出ても出なくてもいい状態で、休みもありかなり暇だった。それでこの時期に車の免許を取りに行った者が多かった。(自分もこの時にとった)

 高校三年の物理の選択授業で、初めてO君を見た。なにしろ、一学年だけで850人、18クラス、三年間クラス替えなしである。ほとんどの同級は話もしたことの無い連中だった。
 正確には何度かO君の顔を見かけたことはあった。そうそう、これを言うと驚かれるが、法政二高では授業時間が大学と同じ90分だった(今は知らない)。だから平日は午前に二時限、午後一時限の三教科。体育で必須だった柔道なんか90分もやるのだ。自分の苦手な日本史を90分も受けさせられた苦痛を考えてほしい(別に考えんでもいいですが)。大学みたいに、フケたり抜け出したりできないのだ。

 大学への推薦はそれ程難しいものではなかった。一年生の成績(十段階の絶対評価)を1.75倍、二年を2.25倍、三年の成績を6倍にして合計し、トータル100点に換算する。一番点数が必要なのは、法政というくらいなので、法学部。これは80点以上が必要と言われた。自分の進んだ建築学科は理工系でも高い方で70~75点、といわれていた。なんで「言われていた」なのかと言うと、あくまで建前だからだ。実際は理工系は人気がそれ程高くなく、60以下でもどんどん推薦で来ていた。工学部が人気が高くないのは、ハードで遊べないとみんなが思っていたからだ。その程度のもんなのだ。
 現に法政女子から推薦で建築に来ていた子は、仮にも工学部に進んできたのに「ピタゴラスのてーりってなーに?」なんておっしゃってましたしねえ。
 推薦希望を決める前に、大学の見学会があったのだが、工学部は片田舎にあり夕方遅くまでみんな授業に出ている。雰囲気が暗い。遊んで過ごす楽しいキャンパスライフなんてそこには無かった。見学したのが午後の遅い時間で、天気も悪かった。。。
 それで、工学部志望で見学に来ていた同期のほとんどは文系希望に変えた。その程度のもんなのだ。だいたい、推薦希望の用紙に書く進学先は、 例えば第一志望・電子工学、第二志望・国文学、第三志望・経済学部、、なんてムチャクチャでもOKで、現にみんなそんな感じだ。自分は他に行きたいところが無かったし、建築が大丈夫そうなので、第一志望以外は書かなかった。

 自分の成績は二年までのトータルで70弱。これでは建築へはやや足りない。それで、三年のときに奇跡の成績を上げた。われながら自分の集中力には驚いた。三年の成績は一学期の総合9.0をはじめ、結局三年間のトータルを80にまであげたのだ。
 んで実際に建築に来て見たら、60前後の推薦組がごろごろいたのだ・・・。トほほ。ちなみに落第点の39以下でなければ、二部でもいけた。

 同じ建築にはO君も来ていた。でもそれ程親しかったわけではなく、三年後期から参加したゼミで一緒になってから親しくなった。ゼミは「都市計画ゼミ」。研究棟の隅っこに小さい部屋を共同で借りているありさまの部屋だった。なにしろ、担当の先生は講師(本職は国連の都市計画顧問)で、そのまた弟子がいるだけ。
 四年になって正式にゼミ生となったのは、自分とO君を含め8人。卒論は4人、二人、二人の三組でそれぞれ書くことになった。数年前から、藤沢市の委託研究の形で卒論が書かれていたのだ。自分たちは4人で「藤沢市の中心市街地の再開発」というテーマで、小田急線の長後駅近辺の再開発をテーマにしていた。4人のうちにО君もいた。
 就職氷河期などどこの話?というバブル前の時代で、就職活動ものんびりしたもので、夏頃にボチボチみな会社訪問に出て行った。三年の夏ではない。四年の夏だ。この辺の詳しいことは(別に詳しかないが)「コンピューターのお仕事」の「入社」の辺りに書いている。いいかげんで、結局何を書いたのか覚えていない卒論も無事通り、コンピューター関係の会社に入社。母校からはО君と二人である。

 卒業後は特に連絡をとっていたわけでもなく、翌年かその次の年のゼミ会でО君とは会った。同じ会社だろう?と言われそうだが、研修期間中はもちろん毎日顔を見たが、122人の同期がいるし、その後の配属がО君は本社、自分は関西支店だった。
 そのゼミ会の前にО君は大学時代の後輩と結婚していた。ゼミの先生に仲人をしてもらっていた。そのゼミ会でО君と話したとき、「やけに(人間が)丸くなった、というか、悟ったような雰囲気だなあ」と不思議に思ったものだった。

 やがて自分はその会社も辞め、そのゼミ会から6年位が経ったときに久しぶりにゼミ会の知らせが来た。当時のゼミ生にお知らせをかねて電話連絡をした。О君のところへも電話をした。出たのは奥さんだった。「伊藤ですけど、○○君いますか?」。
 「・・は?、、え・・と・・。あの、どういう関係の・・方でしょうか・・・?」
 「?? あの、大学のゼミで一緒だったものですけど、ゼミ会のことで・・」
 「(納得したように)あの、○○は、6年前に亡くなりましたけど・・・」
 「はっ!!?? えっ、そうなんですか!?」
 「ええ、海の事故で(海水浴らしい)」

 その後、何人かの同期のゼミ生に連絡したが、何人かは知っていた。当時の会社の社報で知らなかったという事は自分が辞めた後のことだったのだ。

 電話で聞くまではО君は自分の中では生きていることになっていた。それが、聞いた瞬間に6年の時間を超えて、彼は亡くなっているのだ。ショックもあったが、、かなり不思議な感覚だった。
 相当不思議な感覚で、ボーっとしたまま、テレビのスイッチを入れると、NHK特集「チベット死者の書」がちょうど始まった。このタイミングと偶然もすごかった。また、ナレーションの大滝秀治がぴったりで。。
 なんかしみじみと特集に見入ってしまった。

安物買いの…  (2002.8.5)

 100円ショップがもてはやされてデフレの心配、というより実際デフレだが、あの激安のもたらしたいい面も出てきたのではないかと思っている。
 当初はあまりにも安すぎるため、まともな商品が売れなくなり、買う方にしても「ちょっと、これ安すぎないか?」と言う心配もあった。いくらなんでも材料費だって出ないだろうなんて物も。
 100円ショップと言えば、ダイソーが最大手だが、全国千店以上あり、仕入れを何百万単位で行えるので、一括で安く仕入れられる、と言うのが理由だと聞いてきた。
 それだけで、あそこまで安くなるものか?とも思ったが、最近他の理由もあると知った。一般の人には見過ごされるが、値札付けの人件費が要らない、というのは大きいらしい。なにしろ、すべて100円。値札などいらないし、清算も簡単だ。よほどのことが無い限り、レジは暗算だ。製品管理も、すべて同じ値段だから割合単純だろう。この辺りの人件費のかからなさはかなり大きいらしい。そういえば、100円ショップがそれ程定着していない頃は、あまりに安いので、「これいくらですか?」と聞く客が多かったという。

 渋谷や町田へ行くと、デパート並の規模の100円ショップがある。おいおい、これ100円じゃまずいだろ・・。というものも多い。というか、ほとんどそうだ。でも、実際に買ってみると、やっぱり100円だ、というものが多い。
 周りの人も、最初はあまりの安さに有頂天(?)になっていたが、だんだん冷静になってきて、100円ショップの品でもかまわないものと、ちゃんとした値段でちゃんとした品物を買う、という使い分けが増えてきたように思う。
 例えばタッパー類を100円で安いからと買ってきたことがあるが、何度も冷蔵庫から出し入れしていると、温度による伸縮に耐えられなくなってきたのか、蓋が合わなくなってきたりする。しかも洗う度にヌルヌルする。何か溶けてるんじゃないか?なるほど、やはり安いのは安いなりの理由がある。見た目は同じでも原料は違う。自分も工具などを買うことがあるが、普通千円以上のものが100円だったりするので驚くが、ちゃんと使おうとするとやはりそれなりの部分がある。細かいものでは、合うべき所がずれてたり、仕上げも結構いいかげんだったりする。
 短期で使えればよかったり、それ程の品質にこだわらない用途には100円で、という使い分けになってきたが、そういう人が増えた気がする。
 だんだんと、安いものは安い理由があると浸透してきたのではないか。

 パソコンを使い始めて2年以上になるが、あれも機械やソフトの値段の差が激しい。
 SCSIボードやケーブルなんかの周辺機器を買うとき、パソコン量販店の店員は、高いのはブランド代みたいなもので、廉価のもので大丈夫ですよ、なんて言ってくれる。最初はそうだろうと思っていたが、やっぱり安いものは安い理由があった。まあ、どの程度不具合を気にするかにもよるが、高いものはそれ相応の安定がある。
 SCSIカードなんか、最初は3000円程度の安いものを使っていたが、安定しなくて、しばらくして同じメーカーの違うものに買い換えたが同じ。そして15000円のちゃんとしたメーカーのものに変えたら(といっても中古で7000円くらい)不具合がなくなった。
 もちろんそんな一般論の通じないものもある。マイ○ロソフ○製品なんかそうでしょうね。高いんだけど。。不況で、皆が物を買わなくなって、激安ばかりに飛びついていると言われているが、どうしてしっかり、みんな物を見る目を養っているのではないだろうか?

アドレナリン  (2002.8.5)

 行きつけのジャズ喫茶では毎月一回土曜日にライブがある。毎回一流どころのジャズを中心にしたライブだ。
 19時開演で、21時くらいまで2ステージが通常。その合間や後は、軽食&飲み放題。演奏者もギャラリーも一緒になってワイワイやるのが楽しい。
 その日も盛り上がった演奏の後、軽食をつまみながら、ギャラリーのバイトの女の子とライブの話が弾んだ。
 彼女は演奏に興奮して、

「なんだか、体中にヘモグロビンがみなぎって来るみたいですよね」

 ・・・おいおい、そら赤血球のこっちゃ!

原爆の絵  (2002.8.6)

 8月6日。広島に原爆が投下された日だ。NHKで夜「原爆の絵」の特集をやっていた。
 被爆して、悲惨な光景を見た人たちから募集して全国から集められた絵である。20数年前に2000枚、今回新たに募集されて合計三千枚の絵が集まった。データベース化して後世に残し、世界中から閲覧できるようしようと、原爆資料館が集めた絵だ。

 おそらく人類史上これを上回る地獄絵が描かれたことは無いだろう。どの絵も描いた人の、犠牲になった人を弔いたい、悲劇を繰り返してはいけない、この記憶を風化させてはいけない、という強い思いがあふれている。

 こういう場合に、絵そのものに関して絵画論を語るのは非常に不謹慎だとはわかっているが、あえて書いてみる。どの絵も上述の思いが強く感じられ、絵そのものがどうのこうのなどとは全く感じなかった。それもそのはずだ。描いた人は、絵のうまい下手などの次元では考えてはいず、ひたすら伝えたい、という強い思いだけだからだ。繰り返すが、このような事を論じるのは適当ではないとわかっているが、いかに普段絵を描くということに対して、いろいろな「欲」に縛られているかを改めて感じたのだ。
 自分は絵を描く身としては、技術的にもうまい方ではないと自覚している。そのように(上手いとか下手とか)思うのは、うまく描きたい、見る人にいい絵だと思ってほしいという「欲」があるからだ。あれほど純粋な絵を描いていた「いわさきちひろ」でさえ、死の床で「(治ったら)今度こそ無欲な絵を描きたい」と言っている。

 自分が絵を描くとき、自由に描く場合は、日常のふとした感覚や、空気、においなどを再現したいと思って描いている。かっこつけた言い方を加えるとしたら、その感覚を他の人にも伝えたいと言うところだろうか。お茶らけた絵もよく描くが、その面白いと感じたことを紙に再現したいと描くのだ。モチーフに出会ったときは、ただ、それを描きたいだけである。描く段になって、うまく描くことを考える。そして見る人のことまで考えてしまう。次から次に欲に縛られるのだ。

 今日テレビで見た原爆の絵は、芸術家ともてはやされているどんな巨匠も足元に及ばないと断言したい。
 自分の中での最高の絵は、フランスの古代の壁画「ラスコーの壁画」だ。現代においてもその洗練された線と迫力は他を圧倒する。その壁画にも同じく欲は無い。呪術的な意味もある絵なのかもしれないが、絵に残すことに意味があるのだろう。(いや、描く行為そのものに意味があるとする説もある。少なくとも意味が解明される事は、今後ありえないと思うが。)
 原爆の絵も古代の壁画も、「絵」は「手段」でしかない。ふと、手段が目的化してしまう危険を冒している自分を感じる。

 話は変わるが、初めて沖縄に行ったとき、目的地は石垣島と与那国であった。沖縄本島は経由地だったのだが、一応数日は滞在した。南部に戦争記念館があるのを知って、見ておかなければと思って見に行った。
 それまでにそのような資料館を見た記憶は無いのだが、圧倒されてしまった。資料だけで、悲惨さを強く感じるのだ。「原爆の絵」も絵を見ただけでも、目を覆うほどの悲惨さだ。実際は想像もつかないほどのものだったのだし、「悲惨」という言葉で表現できるものか・・。
 自分は父親から戦争に関する話を聞いたことは無い。父親は中国で鉄道隊だったらしいのだが、それ以上に話を聞いた記憶は無い。語り継ぐ、記憶を風化させないという大事さを痛感する。
 特に被爆という体験をした人たちからは、「報復」などと言う低レベルの発想は出てこないだろう。終わらせるということの大事さを誰よりも知っている人たちだと思う。
 日本はその終わらせることの大事さを世界に発信できる国のはずである。あの馬○な政治家達にはそのことを託すことは無理だが、その政治家をこりもせずに当選させているのも我々なのだよねえ。

怒り心頭のウインドウズ  (2002.8.7)

 ウインドウズが怒り浸透しているわけではない。言うまでも無くウインドウズに対してだ。

 パソコンを使って、特にウインドウズなどと言う半パなOSを使っているとストレスが耐えないが、今日は今まで使っていて一番腹が立った。メモ帳と言うシンプルなソフトを知っているだろう。簡単なテキストを作るのなら、これ以上の軽いソフトは無いだろう。

 これで、雑記帳にアップする文章を打ったりしているのだが、これが落ちた。断っておくが、フォトショップやイラストレーターなどの重い画像処理ソフトがフリーズしたのではない。「メモ帳」だ。しかもOSごと落っこちたのだ。もう、いかなるキーもきかない。結構長い文章を打っていたのだ。お釈迦である。
 画像処理などの重いソフトが落ちたのなら、怒りこそすれ、それなりにあきらめる。「メモ帳」だ!どんなソフトでもバグはつき物だし、何かのタイミングでこけることだってある。しかしOSごと落ちたのだ。

 OSについてそれ程詳しいわけではないが、OSの最も基本的な仕事はメモリ管理だと思う。OSが一緒に落ちると言うのは、それができないと言うことであって、OSとしては最も恥ずかしいことだ。そのOSが二万円もするのだ。ビル・ゲーツ君よ。許されるのか?

 結局、メモ帳に打った文章はお釈迦だ。どうにもならないので、リセットボタンを押す前に、なんとかデジカメで表示されている部分だけでも撮っておいた。まあ、かろうじて判読はできる。でも、それを上回る文章はお釈迦だ。打ち直す気力は無い。どうにかしろ!毎黒粗不吐よ。

 これを打っていてまた落ちたらどーなっても知らんぞ!

国語力の低下  (2002.8.8)

 相変わらず、国語力の低下が問題になっている。小学生だか中学生だかで図書館で本を借りたことの無い者、高校生で「積む」という漢字が書けない者がそれぞれ40数%だそうだ。家にある本が10冊以内(おそらく自分の本)と答えた者が一番多い。読書をしない原因として、おとなが本を読まない、というのもあげられている。ちょっと違うだろ、と思う。

 自分は(勉強以外に自分からすすんでは)本なんて年に10冊も読まなかった。それが、何がきっかけかは忘れたが、大学三年のときにいきなり100冊を読み出した。4年のときは150冊。(卒論以外の単位をとっていたので割合暇だった)今でも半ば活字中毒だ。
 それまで本を読まなかったのは、周りのおとなが読まなかったからとか、そういうことは全く関係ない。確かに読書好きがいると影響は受けるだろう。でも自分の経験からして、本を読まなかった一番の原因は学校教育だ。読書が嫌いになるように仕向けているとしか思えない。

 小学校のときの国語の授業というのはあまり覚えていないが、いやでもそれらしいものを読んで感想を書かなければならなかったり、一ヶ月以上の夏休みの読書計画なんてものを決めなければならなかったり。もちろん書いただけで読んだことなど無いが。本を読むのが好きな人だって、一ヶ月もの読書計画なんて立てる人はまずいないだろう。読書を楽しむ方向にではなく、義務にされているのだ。おまけに読書と呼べるものの本は限定される。

 中学でも文章解釈ならまだしも、文法解析、段落わけ、作者の思いの推測など、読書を楽しむこととは対岸の事ばかりだ。文章や詩の解釈にいたっては、本当に本人はそう思っているのか?ということだらけだし。
 それでも、自分の中学は区立にもかかわらずその辺がおおらかで、自由な解釈を許してくれる先生たちだった。別に、そういう授業での解釈がわるいのではない。正解があるのがおかしい。
 自分は絵を描くが、美術評論に詳しい人が、自分の絵を解釈してくれることがあった。どういう思いで描いたのかとか、いろいろ解釈するが、すべてハ・ズ・レ。たいてい描いているときはたいしたことは考えていない。
 国語の作品解釈では、作家の生い立ちや思想などを踏まえて解釈する。自分の場合、一枚の絵を描くのに、いちいちそれまでの人生を背負って描いたりしない。それまでの人生が集約された結果がその絵であるという事なら、確かにその通りなのだろうけど、そこまで考える必要なんかないだろ。

 詩の解釈でひどいケースがあった。高校入試用の問題集をいくつかやっていて、過去の出題例なんかが載っているが、同じ詩の解釈の問題が複数校から出題され、三択・四択で答えを選ぶのだが、学校によって答えが違っていた。
 本来、正解がひとつと言うのもおかしいのだから、人によって解答が違って良いのだが、正解を決めて点数にするのはいかがなものか?しかも、作家が存命な場合、入試に使うときは試験問題の漏れを防ぐため、事後承諾だそうだ。あとで、作家本人が自分の作品に関しての出題を自分で答えてみても、正解からは遠いとか。「おれは、こんなこと思ってない」などと。

 はっきり覚えている授業で、高校の現代国語がある。ヴェルコールの「沈黙の海」というフランスの抵抗文学を扱った。この短編小説はそのときにもいい作品だという印象があり、社会人になってから読み返した。しかし授業では、その作品の「よさ」を味わうということがない。
 もちろん、あらかじめ通読することが求められるのだが、いきなり文章解釈だ。○○は××に掛かっていて、、とか、この部分が主人公の思想で、、とか、、はては巻末の解説まで分析する。
 こういう授業がひとつの方法として間違っているとは言わない。日本の国語の授業と言うのは、作品のよさを味わうことより、テストのための分析ばかりが目立つ。それで本を読むのが好きになるわけが無い。授業のために読まされるのだから、普段まで読みたくは無いと思っても不思議は無い。

 教科書に収録される作品の選定には賛否両論あるが、優れた作品が多いはずだ。そのような授業の犠牲になって読まれなくなる作品が多い気がする。
 「走れメロス」は中学二年か三年で教科書に載っていた。名作のはずだが、児童文学ではないはずだ。でも、サラリーマンが「走れメロス」の文庫本を読んでいたら好奇の目を向けないだろうか?少なくとも、高校のときに「走れメロス」を休み時間に読んでいた男には好奇の目が向けられた。「お前そんなもん読んでんの?」と。あきらかに、中学生以下のお勉強用の作品扱いなのだ。

 読書離れを食い止めるためか、小学校では読書タイムがあるようで、全員が机に向かって本を自由に読んでいる。それはそれでいいことだが、それが義務感になってしまってはまた逆効果だし。
 そもそも、授業でもっと作品自体のよさを味わう方向にもっていけないものか?椎名誠氏の「岳物語」が好きだが、あの作品も教科書に載ったようだ。あの作品も文法解析、作者の意図、主人公の人生の分析などと言う仕打ちを受けるのだろうか?

柄本明さんのこと  (2002.8.9)

 俳優の柄本明さん。喜劇俳優とお呼びしてもいいのだろうか?確か以前は「東京乾電池」の一員だったと思います。(いまでもそうです;;;)
 昨年辺りから、柄本さんとやたらに遭遇するんです。同じ町内に住んでいるらしく、同じような場所を同じような時間帯にうろうろしているからでしょうが(笑)。まあ「やたらに遭遇」といっても、月に1、2回程度だから、近所の人は「じゃあ、あたいらはどうなんねん?」と言うところでしょうが。隣近所じゃない一般人が、月に1、2回も遭遇したら「やたら」でしょう。

 初めて目撃したのは小田急線の下北沢駅。季節は忘れましたが、下りの電車を待って、下りホームの前の方にいたんです。そしたら後ろの方から柄本さんがガンをつけて歩いてきました。関西で言うところの「メンチきり」ですね。別に僕にガンたれてたわけではなく、考え事をしながら歩いていたんだと思うけど、あの風貌ですからすぐに柄本さんだとわかります。
 ガンをつけられてたわけじゃないとわかってますから印象悪かったわけではありませんよ。それをきっかけに、何度も町ですれ違ったり、喫茶店で目撃したり。

 下北沢駅の北口地下に喫茶のチェーン店「シャノアール」があります。あそこ、結構好きなんです。別にコーヒーがおいしいわけじゃないけど、時間つぶしに最適。
 内装や雰囲気もいまどき垢抜けなくてグッド。ほめてんですよ。老若男女でいつも賑わってますね。こういう場所って貴重でしょ。年齢性別問わず、地元民が誰でも入るって場所はそうは無い。渋谷の「パーラー西村」もコギャルからおばあちゃんまでいろいろ賑わってていいですね。

 その「シャノアール」でよく柄本さんにあいます。いや、あってるわけではなく、目撃してるだけですが。
 ある日は偶然、隣に座っていた。そしてあるときは雨で、入り口でビニールの傘袋を取るのに二人前後して取ってたのが、僕と柄本さん。
 そしてまたあるときは、いつも禁煙席に座るのだけど、あいている隣の席に上着が広がってたので、「そこ、いいですか?」と言うと、柄本さんが「あっ!、すっ、すいません;;;」とあわてて、上着を回収してました。台本を読んでいたようです。
 普段は、とても謙虚で控えめで(だから謙虚だろ?)、物静かないいおじさんですね。と言っても、普段じゃないときは知りませんが。

 なんか、あまりに接近遭遇が多いので、近いうちに顔見知りになるんじゃないか?と思っちゃいました。
 前に、最近見ないなと思ってたら、NHKで俳優なんかが文学を朗読する番組で、柄本さんが「月山」を朗読していた。それがとてもいいんです。内容に声や読み方がぴったりで。
 それで、その本を読みたくなったのだけど、作者がわからない。高い文学全集じゃ困るから、大きな本屋で文庫の目録を見て回ったけど、タイトルで探しても見つからない。何度探してもわからない。それで、今度シャノアールで会ったら、教えてもらおうと思ってました。そうこうするうちに、あのワイドショーでの浮気騒動になり、柄本さんの姿もあまり見なくなった。

そういえば、作者なんてインターネットで探せばわかるだろうに、と思って調べたら、あっさり判明。それでもう一回文庫目録を見たら、あっさり見つかった。タイトルの「月山」でも載ってたのに、何で見つからなかったんだ?で、買いました。

最近柄本さんを見ないな、と思ってたら、今週はじめ、シャノアールでお勘定をしているところを発見。すこし髪が黒くなっているような。
 柄本さん、いま「月山」読ませてもらってます。別に貴方が作者じゃないけど。こういう純文学もよいなぁ。
 柄本さん、そのうちに相互リンクしましょうね。(ぉぃ!)

病院物語(激怒編)  (2002.8.11)

 今までに救急車というものには三回乗らせていただいた。
 最初は一昨年あたりに母親が風邪で微熱があるのに風呂につかって、筋肉が熱でやられて立てなくなったとき。二度目は昨年夏やはり母親が小脳梗塞で倒れたとき。三度目はなんと自分自身。

 絵の教室というのは昨年まではすべて希望者グループ宅への出張でやっていた。なぜかすべて神奈川方面なのだが、その日は鶴見だった。東急東横線・綱島駅で降り、鶴見行きのバスに乗り、亀甲山(かめのこうやま)という風流なバス停で降りる。
 そこまでの道が上り下りでしかもクネクネの道で、船とバスに弱い自分は、いつも帰りに少々酔い気味になる。その日はしばらく前から体調が悪く少々めまいもしていた。それで若干めまいのある中で、朝っぱらからそんなバスに乗ったもんで余計に頭がくらくらしてきた。
 教室は10時頃から3時頃までやるのだが、お昼を食べた頃にはもう限界であった。早めに切り上げて帰ったのだが、バスに乗らなければ帰れないので仕方なく乗ったのはいいが、乗り込んで5分もしないうちにグッタリである。考えたらタクシーに乗れば少しはましだったのだが、少しは大丈夫だろうと考えたのが甘かった。
 駅にバスが着くと同時に立っているのもしんどくて、駅員室で休ませてもらった。といっても、横になるところも無く折りたたみのいすにもたれるだけ。途中吐き気に耐えられず、改札を通って中のトイレにも駆け込んだ。駅員が心配して「救急車を呼ぼうか?」と言うが、まさかそこまではねえ。と、思っていたのだが、一向に改善される様子も無く救急車が呼ばれた。
 一応担架がやってきたが、何とか歩けるので、カラの担架の横を歩くというわけのわからない搬送となった。
 運ばれたのはKK病院。本来なら実名出されても仕方の無い扱いを受けてる。
 午後過ぎの割合暇そうな状態の中で救急医療部に運ばれた。というか運ばれてはいないのだが。歩いていったから。
 40前後くらいの担当医がものすごくかったるそうに応対する。顔には明らかに不満が見える。看護婦(50前後)も同じ。なんだか来たのが悪かったみたいだ。状況からすると「バス酔い」で運ばれたようなものだ。診察台に寝かされて、いくつか簡単な診察をして、薬を飲まされる。「飲んでもすぐに吐いちゃうかも」と弱々しく言うと、看護婦が「飲まなきゃ治らないわよ!」といらつく。診察の間中、看護婦は「一人で帰れるの!?」を繰り返す。どうにも立てもしないのに、帰れるの?もくそもあるか!医者も看護婦も「とっとと帰ってくれよ」という態度があからさまだ。

 そして、血液検査かなんかだったと思うが、医者がいくつかの検査項目を指示。そしてかったるそうに「やれやれ」という感じで医者は退出。「じゃあ、先生の言った検査を・・・、あら、先生(カルテに)書いてないわ。検査はなしね!」何じゃそりゃ?しらふだったら面白いことになったのに。
 そんなこんなで、強引に退出と相成った。処方箋をもらって外部の薬局に行かなければならないのだが、廊下を歩く途中で立っていられなくなって、ソファに横になってしまった。
 しばらくすると、さっきの看護婦が通りかかる。「あらまだいたの?早く帰って寝なさい」。立てもしない人間に良くこれだけのひどい仕打ちが出来るものだ。怒る気力がかけらも無かったのだが、これはかなりひどいケースだろうか?

 最初に書いた母親を救急車で搬送した病院もひどかったものだ。T医大付属病院に担ぎ込まれたのは夜の11時前くらいだろうか?
 まず救急車を要請したら、しばらくして隊員がやってきた。このときは気づかなかったのだが、しばらくしてからまた救急車がやってきた。救急車に乗せて坂道を降りるとそこには消防車が止まっている。なんでも、救急車が出払っていたので先発の隊員は消防車で来たのだった。
 救急車内では、母親に隊員がいろいろ問診をする。「どこが痛いですか?」を最も多く聞くのだが、かねてから腰痛もちの母は「腰が痛い」と繰り返す。
 先にも書いたが救急車を呼んだのは、微熱で風呂につかったために動けなくなったのだ。そんな間抜けな問診が繰り返されたためか、到着した救急部では最初困惑していた。なんと「腰痛患者の搬送だと聞いてましたが・・・」。
 この病院もひどかった。まず、看護婦の交代の時間が重なったようで、何度か新しい看護婦が入る。そのたびに「どうしたんですか?」と聞かれる。あまりにその回数が多いので「聞いてないんですか」とやんわり言うと、「今来たばかりですから!!」と怒る。こちらに怒るなよ!
 一番気になったのが、インターンだ。明らかに経験の浅いインターンが、何人か加わっている。別に医者の修行は必要だし、大学病院ならなおさら勉強のためにそういう者がいたっていい。しかし「放し飼い」だ!テレビの「ER」でもインターンは放し飼いだが、ドラマということを差し置いてもレベルと態度が明らかに違う。なんとなくの勉強でそこにいるという感じだし、医者を目指しているという熱意のかけらもない。そして、一人の馬面(馬鹿面ではなくウマ面)のインターンが、検査のデータをみながら「この検査結果によりますと、○○と言うことが原因とみられますねえ。」という。いくらこちらが素人でも、いきさつからして全くトンチンカンな推察だった。案の定、しばらくして指導教授らしき先生が向こうの方で検査結果をみながら「これがこうだと、こういうことなんだよ」みたいな説明をそのインターンに言っていた。インターンは「はぁはぁ、そうなんですか」と鼻から空気がもれるような返事をしている。「はぁはぁ」って別にいたずら電話ではありませんが。で、それだけだ。全くそのことをこちらに説明し直しには来ない。

 そんなこんなで入院ということになった。
 翌日、病室に行くと看護婦に治療などの様子を聞いた。しかし、昨夜聞いた治療方針とは全く違う。「○○じゃないんですか?」というと、「あれ?」という顔で、ナースステーションにもどり、しばらくして戻ってきた。「すいませんでした。伊藤さんでしたね。おっしゃるとおり○○の治療です。」おいおい・・・。
 そして病室に入ると、夕べの馬面インターンがやってきた。なにやら、いま教科書を読んで暗記してきました、というような病状の知識を並べ立てる。またまた、要領を得ない上に、だからそれがどうしたんだ?という内容である。仕事をしに来た看護婦に「あっちでやらない?(邪魔だからあっちでやりなさいよ!)」とあしらわれる始末。
 しばらくすると、インターンなのかインターン上がりなのかわからないが、かなり若い医者がやってきた。うちの担当だという。いくつかのマニュアルどおりと思われることを並べ立てていた。母親はもちろん「早く帰りたい」と繰り返す。その担当はなんと「帰りたいというのであれば、そのようにいたしますが」と言う。本当に教科書を読んでいるみたいで、僕の後ろの壁に焦点があっているんじゃないか?という目で。
 部屋を出て行ったその医者を呼び止めて、「母親はあんなこと言ってますけど、、」とまさか本当にあんな状態で退院させる気じゃないだろうな?と聞くと。「病院側としては、帰りたいとおっしゃる患者さんを引き止める権利はありませんから。」と棒読みの台詞で回答してくれる。

 結局母親は3日ほどで退院したのだが、あの病院で医療ミスが起きないほうが不思議だと思ったよ。面会時間外でも入れてしまう病院は多いが、誰がどこで何をしても簡単に出来てしまうほどの管理体制という感じだったし。おまけにどう見てもお坊ちゃんインターンの遊び場でしたね。
 繰り返すがインターンがいてもいいのだ。しかしあんな人間的にも技術的にも半端なやつを放し飼いにするな!せめて常に責任者がすぐにフォローできる体制にしておけ!上記二件の病院のひどさについては、読売新聞に実名入りで投書したのだけど、捨てられたかな?

 昨年、母親が小脳梗塞で運ばれるときに、救急車の中で搬送先を探している隊員に「○○医大病院だけはやめてください。ひどい病院だったんですから。」と言ったのだが、受け入れ可能なところに行かなければいけないから、ご希望には添えかねます、ということだった。そうなのか・・。
 幸い、今度はまとも・・というか普通の病院だったから良かったが。でも、三ヶ月の入院中毎日面会に通ったのだが、看護婦の無表情さにはちょっと・・・。大変なのはわかるけど。

 思うに、病院の医療システムの不備や人手不足の重労働での医療ミスなどが言われるが、自分が受けた印象は、特に若い世代の医者やインターンのレベルが低すぎるというものだ。学力そのものも低いのだろうが、「医療」というものを数ある仕事のひとつだと思っているんじゃないか?一般論にしてしまうのは乱暴だし、真剣に医療にかかわっている方に失礼なので、あくまで先の某私大病院に関して言っているのだが。

しかし、救急車から見る夜の街というのもなかなか新鮮ではあった。(オイ!)

一流と二流  (2002.8.13)

 プロスポーツのヒーローインタビューなんかでよく「ファンの皆様のおかげです」と選手が答えます。あれって、一応建前でいっていると思ってたんです、昔は。
 まあ本当にファンに感謝して本心で言っている人もいないではないだろうけど、大方はそういうインタビューで一言ファンへのメッセージを求められたら、そう言わざるを得ないだろうな、と。

 初めて展示会をやったのは1994年秋。本当にひょんなことからでした。知人の知人が会場を紹介してくれて、それまで作品を描きためていたものの、その先どうしたらいいか良くわからなかったところでした。
 会場を紹介されて、もう1~2ヶ月先には展示会でした。最初の頃は以前に内蒙古のツアーで一緒だった友人の作業所の陶芸と合同の展示にしました。埼玉の福祉作業所で知的障害の方達の陶芸作品でした。

 初めての展示会ということもあって、十数年ぶりとか二十年ぶりとかいう友人知人なんかもやってきます。初めての展示会というのは神経がまいります。ペースがわからないというのが大きいですね。人が入れば入るで気を使うし、入らなければやきもきするし、違う方面の知人がまとめてやってきたときの応対に苦労するなんてのは経験者は良くわかるでしょう?毎日たくさんの友人知人がやってくるので、まるで連日ご焼香を受けているみたいでした。

 それからは毎年欠かさず秋の新作展(ファッションみたいだな)をはじめ、年数回の個展をやらせていただいてきています。
 そう、やらせていただいているのです。何度目かの展示会をやり、毎回大勢の友人知人、リピーターの方が来てくれるのに改めて気づき、「ああ、自分は毎回展示会をやらせてもらってるんだ」と気づきました。考えたら、来場してくれる人、支持してくれる人がいなければ全く成り立たないことをやっているわけです。
 このホームページだって、来てくれるたくさんの人のおかげで成り立っているわけです。読んでくれる人がいるからこんな雑文を書いて喜んでいるのですし(そうやそうや、自分で喜んでやってんねん!)。そして支持してくれる人がいるから、毎日のように更新も出来ます。まるで日記のように毎日のごとく、、ほんま我ながらようやるよなぁ。
 展示会もおかげさまで毎回数万人の方においでいただき(、、い、いや二桁多いかな?)、今年ももうすぐ開催することが出来ます。

 そうすると、あのヒーローインタビューでの「ファンの皆様のおかげです」という言葉は、全くの本心で言っているのだと理解できました。一流の選手であればあるほど、本心で言っていると確信できます。極めた人ほど、ファンや関係者を大事にしますね。自分のプレーはその上で成り立っていると実感しているからでしょう。
 もちろん、カッコつけの建前で「皆様のおかげです」と言っている人もいるでしょう。そういう人は技術は一流でもプロとしては二流。
 職人が好きで、自分もそうありたいと思ってますが、本当の職人は、有名な人でもまるで裏方さんのように控えめです。自分はそんな大層な扱いを受けるほど大したことはしちゃぁいないと。あれも本心だと思います。極めれば極めるほど自分の小ささ、まだまだ奥が深いことを悟るからでしょう。
 自分にも経験がありますが、ある分野に入ってちょっとわかった頃が一番大きな顔をします。すごくわかった気になるんです。そして、そこからもう一歩進歩して中が見えてくると、そこには広大な未知の部分があり、自分は何にも分かってなかったと愕然とする。わかったようなことを言っていた自分を先達は黙ってみていてくれたのだとわかる。そうなると、もう大きな顔を出来るほど厚顔無恥ではいられない。新しく入ってきた人にでさえ謙虚になります。偉そうに教えを与えるほど自分は何も知らない。せめて自分が同じ頃に迷ったことへの、ヒントになりそうなことを示せるくらいでしょうか。
 「絵を描きたい貴方へ」はそんな感じのコーナーです。別に謙虚にしているわけではない。本当に自分のやっていることがそんな大層なことではないとわかっているのです。
 でもいい作品が描けたときなんかは、描き終えた瞬間惚れ惚れと作品を眺めながら「俺って、天才かもしんない」なんて思ったりしますけど。^^;

 自分は二流もいいところですが(二流でもないかもしれない・・)そういう周りのおかげでやっていられるということがわかっただけでも、一流になれる可能性を秘めている、と思っていられます。まあ、「生かされて生きている」とまでは悟ってませんが・・。


あえて付け加えるまでもないでしょうが、この場合一流、二流というのは、トップとかの順位のことではなく、プロとしての魂の問題です。

写真写り?  (2002.8.14)

 自分は、普段と写真うつりが違う方だと思ってますが、写真うつりの良し悪しはよく言われることです。
 そんな写真写り談義をしていたとき、ある女性がボソッと一言
 「あたしって、鏡映りわるいのよねえ・・・」

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