怒りの時間差  (2003.12.7)

 7~8年前に気づいたことだけど、自分は怒りを感じるタイミングがずれているような。怒りを感じる原因があって、他の人だったらすぐに怒りを感じるのに比べて、ワンテンポも2テンポも遅れている気がする。時には、怒りの原因に気づかないことも。^^;;; 腹は立つには立つけど、その時は感情が先に立って、怒る言葉が思いつかなかったりもする。
 怒る原因からも時間が経ち、怒る相手も目の前からいなくなって、何がどう腹が立ったのかがすっきり整理できて、その時なら明確に文句を言えたりする。まさに手遅れ。腹が立つことをされたときに、一応腹が立っても、なんで腹が立ったのかすぐに頭の整理がつかなかったりとかも・・・。

 こんなこともある。以前、関東のとある画廊で個展をやっていた。観光コースの途中にあり、店も併設され、旅行雑誌の「るるぶ」にも載っている画廊だった。従って、観光客を中心に人は良く入ってくる。
 ただ、問題はその画廊のオーナーだった。展示会中、お客が入ってきて絵を観ようとすると、そのオーナーはお客に歩み寄り「どの絵が好きですか?いや、買う買わないは関係なく」とか「今度、こういう展示会があるんですよ」と、見ている最中の客にチラシを見せたりする。
 一緒にいた友人が、「あいつ、妨害してんのか?」と腹を立てていた。ところがその時、自分は気づいていなかったのだ。そのオーナーがそのような行動をとっているのは見ているのだが、それが自分にとって妨害にも値する行為だと気づいていなかった。
 もちろん、自分が彼の立場だったら、そんな失礼なことはしない。普通に考えて、おかしな行動だというのははっきりわかる。でも、自分がそうされていたその時には、その事に無頓着だった。友人に言われて初めて「あ、なるほど」と、オーナーの言動のおかしさに気づいたのだった。

 このように、第三者としてみたら明らかに腹立たしい行為を、自分がされていて気づかないときがある。心が広いのではなく、その時に限って無頓着なのだ。ちなみに、そのオーナーの画廊では、向こう3年間個展をやる約束だったが、そのような言動以外でも、お金に汚い、そもそも(こういう表現は嫌いなのだが)アートをまるでわかっていなくて、ただの客寄せイベントとしか認識していないなどもあって、次の年からはキャンセルした。

 先日お昼に、中華食堂でチャーハンを食べた。下手なバイトが作っているのか、とても塩辛かった。明らかに塩の入れすぎだ。食べながら腹が立って、帰りに「バイトが作ってるの?塩入れすぎだよ!」とでも言おうと考えて食べていた。とても最後まで食べられないくらい塩が多いし、そもそも量も多すぎるので、残して席を立った。
 お金を払いながら、「塩辛すぎたんだけど」と言った。「え!?申し訳ありません」とは言っていたモノの、そのまま店を出た。
 しばらくしてから、食べてる途中で「辛くて食えない」と下げさせれば良かったのだし、最後に払わないと宣言することだって出来た。はっきり言って、払ってもらえなくてもしょうがない出来たっだし。
 まぁ、この時のことは、怒りの後の行動が的を得てなかっただけで、一応怒りのポイントは押さえていたでしょう。(?)

ゲームの影響など  (2003.12.11)

 リアルな戦闘風景や残虐なシーンの多いコンピューターゲーム。あれらが、子供にどれくらい影響するかという議論は数々されてきましたね。心配するほどのことはない、という心理学者もどきの人の意見もあった。

 以前、ボーリングをしに行ったとき、同行した中国人が待ち時間にゲームに熱中していた。次々に飛び出してくる恐竜みたいな敵を撃ち殺していくものだった。その、ゲームに興じている様子を見てゾッとしたのだ。彼は、純粋にゲームとして敵を撃ち殺すことに熱中している。弾が当たると、その生物は血を吹き出して絶命する。ゲームに勝つために、彼はそのシーンに快感を感じていることは間違いがなかった。
 普段から、こういうゲームに慣れている者にとっては、特にどうということのない事だと思う。でも、自分はゲームは全くやらない。もともとほとんどやらない上に、最後にやったのが何年前なのかさえ覚えていない。おそらく「ゼビウス」というのを、大阪にいた頃にバッティングセンターのロビーでやって以来だと思うから、そうとう前だ。^^;
 そんな者から見ると、そういう相手を殺すことで快感を感じてゲームに熱中している姿というのは、とても恐ろしく感じるのだ。その姿が恐ろしいのではなく、そういうことに神経が麻痺している姿が。そう考えると、ゲームが子供に与える影響が無いわけはないし、子供に限らず大人にだっていい影響なんてあるわけは無い。
 また、問題だと思うのは、悪影響があるかないかは決着してないとしても、決していい影響は無いのは分かりきっているということ。ゲーム脳の問題に至ってはハッキリと警告されている。それでも、絶対に生産をやめることは無いでしょうね。なぜなら、ゲームが売れて経済が上向きになることは良いことだとされているから。
 もういまや、経済のためなら何をやってもいいという社会である。カード偽造やヤミ金融などは、生まれるべくして生まれた犯罪だと言ったら言いすぎだろうか?ディーゼル排気の問題でも、規制される側は、それでは食べていけない、と反論する。もちろん、それを責めることは出来ない。事実、単に規制されても、本当に生活に困ってしまうから。それまで、経済のためなら人の心身を犠牲にするのはしょうがない、と進んできた社会の末路か?

 ぼちぼち、不景気のどん底から回復の兆しが見えてきた、・・・とは聞く。企業の業績が改善されたりしたことがその大きな要因のようだが、そのほとんどは、末端の社員の犠牲の上でのことでしょう。(まぁ、株価が上がったりするのは、アメリカの株価に連動しているというのが大きいにせよ)
 要するに、個人が幸せになれるかどうかではなく、「会社」がどうなるかであり、いつまでたっても雇用される者は、会社のためのものでしかない。 いつになったら、社会のために会社がある。という風になれるんでしょうね。組織が表面上、安定さえすればそれでOKなのか?そんな安っぽい社会でしかないのか?

 以前から細々と思って言ってきたことだけど、「経済のための社会」という仕組みをどうにかして欲しい。政治家が公約などで展望を述べるとき、そういう社会を築くために、まず景気を再生して、その上で徐々に変えていく、と明確な哲学を持って言うのならまだ納得は出来るのだけど。どうにも政治屋さんばかりだしねえ・・・・。

ラーメンについての一考察  (2003.12.15)

 ラーメン狂ではないけど、人並みにラーメンは好きです。夏はまず食べませんけどねえ。夏に汗をかきながら食べるのがいい!と言う人もいるけど、汗をかきながら食べるのは、季節を問わず嫌いなのだ。従って、ラーメンはほとんど秋から春にかけてしか食べないかも。

 ラーメンの中でも、なぜか塩ラーメンが一番好きです。最初に食べた塩ラーメンというのは、おそらく「サッポロ一番」の塩ラーメンだと思う。だから、どうしても味の基準はあの辺りにあるような気がする。いや、あれが旨い塩ラーメンの基準と言うことではないのですが。
 ラーメン屋さんは数々あれど、塩ラーメンを出す店というのは意外に少ない。その少ない中で、旨い塩ラーメンを出す店というのはこれまた少ない。
 先日、小田急線のとある駅近くの店で塩ラーメンを食べた。昔ながらのラーメンといううたい文句で、なぜかとんこつベース。塩ラーメンもとんこつベース。どうも、釈然としなかった。ラーメンとしては、まぁうまい(「旨い」という漢字を使うほどではない)。でも、塩ラーメンを食べている感じでは全くない。どう見てもただのとんこつラーメンだ。とんこつが本場の所では、あれが塩ラーメンの基本なのか?

 書きながら気になったのだけど、昔ながらのラーメンって、いったい何が基本になっているのだろうか?インスタントでもお店のラーメンでも、昔懐かしい味とうたっているラーメンが、すべて同じというわけではもちろん無い。まぁ共通しているのは、やや細麺でシナチクが入って、うっすら脂が浮かんで薄い醤油味、と言うところか?
 自分にとっての昔ながらのラーメンは、小学校の頃、地元のおそば屋さんからしょっちゅう出前を頼んでいたラーメンだった。ラーメン屋ではなく「そば屋」のラーメンである。なるととシナチクが入って、麺がやや太めで、脂もやや多め。専門のラーメン屋さんでは、まず出さない味だと思うけど、あの味をいつも味わっていたので、それが自分にとっての懐かしいラーメンの味となっている。
 残念ながら、そのそば屋さんは今はない。一品だけの出前はやらないので、ラーメンを食べたいときは、冷めても良いもりそばなんかを一緒に頼んでいた。考えてみたら、その店では出前ばかりで、店に行って食べたことは数回しかないはず。
 出前と言うことは、いつものびかかったラーメンを食べていたわけで、それが自分のラーメンのトラウマ・・・いや、懐かしい味になっているのだった。だから、なるとが入っているというのは、自分にとってはポイントが高い。

 今、ラーメン屋は力の入った店が多く、近所にも「ガチンコ」系のラーメン屋とか、なんか妙に力んで勝負している店が多い。確かにうまい。でも、好きでよく食べに行っているところは、食券を買って食べるような安い店が多いかなぁ。
 好きな店は、渋谷ハチ公交番近くの「ハイカラ食堂」と新宿西口にある「日高屋」。どちらもメチャ安い。普通のラーメン屋と同じ量で350円以内なのだ。昔の学食並み。で、安いから食べに行っているわけではない。どちらもうまい。うまいのに安いのです。安いけどうまい、と言うのとは全然違う。うまいのに安いのです。
 ま、それほど上等な味覚をしているわけでもないし、基本的に食事は、ほどほどにうまく食べられればいい、と思っている程度の人間なのですが。それらの店と、力の入った店の何が違うかというと、なんとなく日本の正しいラーメンを食べている、という感じがするのだ。そして、店側が力んでいないからなのか、こちらもリラックスして食べられるような気がする。なんていうのか、、、ここのラーメンは、どういうところがこだわっていて、とか、そんなよけいなことを意識せずに、ただ目の前のラーメンを食べられるというか。スープの味も、力んでいる店ほど複雑ではないので、淡々とラーメンを食べられる。

 そうそう、最後に一言。前にも書いたけど、最近の新しくできるラーメン屋は、なぜかおしなべてBGMがシックなジャズなのだ。なんでだろう?~~♪ いや、ジャズは好きなのだけど。雰囲気を落ち着かせるためなのかも知れないけど、ハッキリ言ってラーメン屋でジャズが流れていると、逆に落ち着かないし、旨くない!

宗教と哲学  (2003.12.17)

 宗教って、結構好きなんです。ただし、信仰の対象としてではないのですが。古来から、どういう宗教がどういう風に成立して発展していったのか?とか、現在どのような宗教がどのように広まって、どういう教えを説いているのか。などなど、そういう面での興味は尽きません。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教が、ひとつながりに発展していった兄弟宗教だと知ったときは、とてもおもしろかし、いまだに泥沼になる、その兄弟宗教同士の対立の不信感の強さも知ったり。

 そして、なんでもありの日本は、つくづく神道の国だとも感じたのでした。日本に生まれ育った者は、ほぼ全員が神道の信者だと言ってもいいのではないか。信者という表現は適切ではないかも知れないので、神道の思想が生活に根付いているというか。井沢元彦氏が本で述べていたことだけど、穢れ(けがれ)や言霊の思想が根強くあるのは、明らかに神道の影響だし。神道や仏教は、宗教と言うよりも哲学に近いのではないか?とも思ったりしますが。
 宗教という言葉の意味が気になって調べたことがあるのだけど、要するに「生きることの根本の教え」という意味なのですね。「宗」=「生きることの根本」という意味があります。そうすると、普段「宗教」というものを敬遠する人が多いけど、本当は大事なものであるという事がわかります。何かを信仰するべきだ、という意味ではなく、自身の哲学として。

 自分の友人・知人には色々な宗教の人がいます。仏教、キリスト教関係はもちろん、モルモン教、イスラム教…などなど。よほど排他的な思想で、自分の宗教を押しつけようとする人でなければ、何も問題はありません。もちろん個人的には、好きな宗教、嫌いな宗教というのはある。でも、自分がそうなのであって、相手が信ずるのは何の支障もない。
 最近思うのは、日本では公共の教育機関で宗教を教えるのは禁じられているか、避けているけど、もっと教えてもいいのではないか?ということ。むしろ教えるべきかと。
 それぞれの拝む対象は置いといても、教えそのものは、とても大事なモノがあちこちにちりばめられているでしょう。そういうモノのエッセンスでもいいから、教えるべきではないかと思う。その大事な共通部分は、宗教と言うより哲学と呼んで、人が生きる指針にできる部分がたくさんあると思うのだ。現代人、特に無宗教を自負する日本人が、これだけ生き方を見失っているのは、哲学を持っていないという事でもあるのではないか?哲学というと、高校の倫理社会でやった程度で、あくまで暗記科目でしかなかった。今思えば、もっと深く考えるべきモノはたくさんあったと思うのだ。もちろん、妙な存在や根拠のない奇跡を事実としてお教えてしまう事はあってはならないですが。

 素人の意見だけど、本来は宗教=自分の哲学、と言ってもいいのではないだろうか。既製の宗教の神などを信じなくとも、その「教え」などが有効であれば、それは大いに認めて日常に生かしてもいいと思うのに。
 まれに、個人の信仰を茶化す人もいる。これは、断じて慎むべき事だと思っている。個人の信仰している宗教を茶化すというのは、その人の生き方を茶化しているのと同じ事である。
 批判はいい。批判するというのは、一応その対象を認めて、その上で納得のいかない部分を追求していることで、正しい認識の仕方だろうし。自分には相容れなくても、ちゃんと相手の信仰を尊重していることになるからである。

 ただ、、批判をおそれずに言えば、現在存在するような形での宗教はない方がよいとは思っている。立場を明確にすれば、自分は全くの無神論者です。科学万能の時代に神も何もないだろう、という意味やおごりを持っているということではなく、主に一神教、つまり同じ神を崇めるユダヤ・キリスト教・イスラム教が説くような神の存在はあるわけがないと思っている。日本語としての「神」=「God」ではないが、一般的日本人がいう「神」は、そのような創造主を意味していないし、万能の人格心をイメージしているわけでも無いでしょう。おそらく日本人が言う場合のほとんどは、自分自身におごることなく、畏敬の念を表現しているのかと。
 ここ千数百年の間に人類が起こした、そして今も続いている不幸の多くは、一神教がなかったら、そして宗教というモノがなかったら起こっていなかったのではないか?と思ったり。

マニュアル医療  (2003.12.21)

 先日昼前に小田急線に乗っていた。入り口のコーナー部分に寄っかかっていたら、もう一方のコーナーに女性が寄りかかって立っていた。一緒だったのは、カップルではない知人らしい男性。女性はなにやら医者に通っているらしく、医者の話をしている。
「その先生、全然はなし聞かないの。」
「それはダメだから、治しましょうとか、、治るもんだと思ってるのよね。あたしがこういう人間だというのを見てないの。」
「こうだったらこう治す、みたいな、、マニュアルでしかないのよねえ。」

 聞くとは無しに聞いていると、精神的な部分で医者に通っていたらしく、医者の方は彼女を1人の個性を持った人間ではなく、健康ではない患者としてしか見ていないようだ。彼女が被害妄想でそう思っていたとしても、そう思わせてしまっている医者はどうしたものか。
 話の前提は全く見えないので、つじつまが合ってないかも知れないが、身体の問題もあって、入院していたようだ。
 「~~~で、手術すれば良かったですねぇ。なんて言うから、もうあたし切れちゃって!」
どうも、やっぱりその医者は、彼女を健康ではない「肉体」、としか見ていないようだ。1人の人間としては見ていないというか。
 「今の先生は、すごく話を聞いてくれるの。すごくほめてくれるし。今日は掃除しました、って言ったら、『あぁ、それはいいですねえ。少しずつやっていきましょう』って、、なんかすごく安心できるの。だからそこの病院、待ち時間が長くて^^。そんな風にみんなの話をじっくり聞いてくれるから。でも、行けば安心するし。」

 かなり内容は誤解しているだろうけど、医者のあるべき姿とあってはいけない姿の両方を感じた。本来、医者の最大の仕事は、患者が治るのを助ける役目なのだと思う。どんなに優れた技術を持った医者でも、患者が治ろうとする力があってこそだと思うし、「私が治してあげるのだ」なんておごっている医者が、今は多いのを感じていた。

 最近は全く通わないが、近所の医者は話を聞いていない。まぁ、一応こちらが訴える症状は聞く。でも、何故か看護婦を通してなのだ。診察室に通されると、脇のベッドに腰を掛けるようになっている。医師との距離は2m強といったところ。その中間点くらいの横に看護婦が立っている。医師が質問をして、こちらが答えると、それを看護婦が医師に伝えている。別に耳が遠いわけではないのはわかっている。なのになぜか看護婦からの又聞きに聞き入っている。「なんだ?この医者は。聞こえているはずなのに、なんでお前もいちいち通訳するんだ?」と「????」である。なんか全体に看護婦達も高飛車な印象なのは、こちらの被害妄想か?

 以前、友人が受けているカウンセリングに立ち会ったことがある。普通は、友人と精神科医が二人だけで話すのである。
 医者はこちらにも質問した。
「お友達はどういう人だという風に感じてます?」の様なことを聞いてきたので。
「結構、浮き沈みが激しいですね。」と答えた。
「ふ~ん・・・なるほど、浮き沈みが、」とメモをした。明らかに短所を述べたと取ったようだ。しかし、こちらは短所を言ったわけではなかった。単にそういう所が見受けられる、という友人の特徴を言っただけで、それが短所だと思ったことはないし、治した方が良いと思ったこともない。全く否定的な意味は込めていないつもりだった。問題があるとすれば、「どういう意味で言ったのか?」と、その医者が聞かなかったことか?
 心理学というのは心理学者の数だけあって、心理症状は人間の数だけ存在する、と言った識者がいた。電車の中での女性の話から、自分の経験で思い当たる事をいろいろ思い出したのだけど、どうもやはり、パターンで医療が行われている気がしてならない。
 本来、分析や研究、それを活かすためにパターンに分けたはずなのに、逆にそのパターンに人間をはめようとしている。言い古されてきたけど、1人1人をちゃんと診ていない医者が多いのだと思う。風邪をひいて診療を受けに行ったときでも、風邪をひいた経過や細かい症状を何も聞かず、身体の様子だけ見て終わり、薬を処方する医者が少なくない。「お前、何も話聞かないで正しい診療ができるのかよ!?」と憤ってしまう。

 こんな話も聞いたことがある。産婦人科での友人の知人の話である。産婦人科医は男性だった。産科での手術の時、患者であるその知人の女性はしきりに痛みを訴えていた。でも医者は「痛いはずはない」と言って、親身に訴えを聞かなかった。医学的には、女性が痛みを訴えている部分は痛覚がないため、痛みを感じるはずはなかったからだ。そして、男性である医者には、自分にない器官の痛みなど想像もできなかった。手術中に、女性と医者のそんなやりとりが続き、どうしても痛い女性は「あたしが痛いって言ってるのに、なんであんたに痛くないってわかるの!!!!」とキレた。医者はキッパリと「教科書にそう書いてあった」と言ったという。小話でも何でもない実話である。

クリスマスおめでとう?  (2003.12.25)

 まぁ、例によってクリスマスになりました。本来はイエスさんのための日なのに、世界一エッチなイベントの日にしてしまった日本人の罪は重い、と言ってた人がいたなぁ^^;。

 7~8年前だったと思うけど、カトリック信者だった友人に誘われて、教会のクリスマスに連れて行ってもらったことがある。信者でない人がカトリック教会のイベントにいるのは、あまり好ましくないのか?信者のフリをしていてくれと言っていた。信者でないどころか、聖書の記述はまったく信じていないし。

 それまではクリスマスの挨拶と言えば「メリークリスマス」しか聞いたことがなかった。それがその時は、会う人会う人がみんな「クリスマスおめでとう!」と言ってくれる。
 最初何のことか分からなくて、思わず「ありがとう」と言いそうになったぞ。^^;
(あえて説明すると、「メリークリスマス」=「キリストの誕生日、おめでとう」ですな)

星を眺めて  (2003.12.28)

 本格的な冬に近づき、星がきれいに見える季節になってきました。最近はとんと見上げなくなったけど、星を見るのが大好きです。望遠鏡とかを使ってみるのではなく、ただ空を仰いで見上げるのです。
 ま、星に限らず雲を見たりするのも好きなので、空を見上げるのが好きなのですが。空を見上げるのが嫌いという人って、そんなにいないでしょうね。

 東京で生まれ育ってきたので、星空なんかほとんど見えません。チラホラと見えるくらい。それでも冬になると、少ない星が一段と輝きを増してくる。何の気なしに、夜、空を見上げたときに、少ない星が主張しているのに気づいたときは、やはり寒さを忘れて、見入ってしまいますねえ。満天の星が見える土地に行って、あふれる星空を見るのもいいけれど、ほとんど星なんか見えないところで、その少ない星が輝いているのを見るのも、とてもいいもんだと思います。

 小さい頃、瞬(またた)いている星と瞬かない星があるのが、ちょっと不思議だった。父親は「自分で光っている星は瞬かないで、太陽の光を受けている星が瞬いている」の様に言っていました(逆だったかも知れない)。もちろん、これはとんでもない間違いで、いくら父親が大正生まれだったからと言って、当時の科学で、そんな風に考えられていたなんて事はない。ただ、これは現実に父親から聞いた事なのかどうかは闇の中なのです。記憶は常に書き換えられているし、自分の場合、ものすごくリアルな夢をよく見るので、後になって、現実のことだったか夢の中のことだったか曖昧なことがあるので。ましてや小さな子供の頃のこと・・・。
 ちなみに、星が瞬くのは、地球の上空の大気が揺れていることに起因しています。上空の風が強いと、せわしなく瞬きます。なので大気圏外に出ると、星は瞬きません。正確に説明すると大変なので、まぁ、そんなところです。

 星を眺めていると、誰でも経験するように、日常の小さな事で煩っているのがばかばかしくなったりする。小さな地球の中で生きていることを実感したりするけど、逆にその重みも感じる。
 今まであまり意識したことはなかったけど、これを書きながら改めて思ったのは、そうやって星を眺めているときは、日常の「時間」と言うモノを忘れているのですね。都市部に住んでいるか郊外に住んでいるか、はたまたもっと田舎に住んでいるかで、生活のリズムが違うので、当然「時間」の流れの感じ方は違うはず。改めて「秒」まで考えて生きている事の意味を考えてしまう。腕時計を着けるのをやめる、という生活を試したことはあるけど、結局どこにでも時計はあるので、探す分の手間が違うだけだった気がする。
 アジアを旅して実感したのだけど、生活する場の問題なのですね。日本もアジアだけど、アジアに出ると、基本的に時間感覚はおおざっぱだ。というより、日本がきっちりしすぎているのだと思うが。そんなアジアにいると、そんなおおざっぱな時間で何の不満も感じないし、居心地の良さも感じるようになる。誠意のない時間感覚のルーズさは許せないが、何でもかんでも時間きっちりで、最大限の効率を追い求める生き方の世でいいのだろうか?もちろんいいわけはないのは、みんなわかってはいるのですけどねえ。・・・・

一番いい人  (2003.12.30)

一番いい人    詩:坂村真民

何も知らない人が 一番いい
知っても忘れてしまった人が 一番いい

禅の話もいらぬ
念佛の話もいらぬ
ただお茶を飲みながら
鳥の声を聞いたり
行く雲を仰いだり
花の話などをして
帰ってゆく人が 一番いい

別れたあとがさわやかで
過ぎた時間が
少しも惜しくない人が 一番いい

年越しと言えば…  (2004.1.1)

 紅白歌合戦というものを見なくなって、もう何年だろう?そのころ絶頂のピンクレディーが紅白の裏番組に出ていたから、20年はとうに過ぎているでしょう。
 今回、平成15年の大晦日は、民放は格闘技一色。制作者はバカなのか?と思ってしまった。格闘技を放映するのは良い。選択肢として、そういうのがあるのはとても良い。でもなんで、どこもかしこも………。もちろん全民放が、というわけではないけど。視聴率操作で、製作の仕方を問われたのは何だったんだろう?まぁ、事件が最近だったから、あれから年末の番組の方針変更というのは、できなかったのは致し方ないとしても。
 テレビのハード面が急激に進歩しているのに、作っている側の脳みそがあの程度では…。ますます、ハード面と内容の低レベルさが、反比例していく気がしてならない。いや、間違いなくそうなるでしょうが。

 自分も人並みに、何となく大晦日の儀式として紅白を見て、その後は「ゆく年くる年」を見るというパターンでした。それが、紅白を見なくなったのは、裏番組でコント55号が「紅白をぶっとばせ!」をやったときからだった。それまで民放は、見るからに紅白に対抗するのは、ハナからあきらめている番組ばかりでしたね。でもその時は、本気で紅白に対抗してやろうという雰囲気があって、喜んでみていた。
 そのコント55号の裏番組は2年間だけだったと思う。でも、その後は各局とも本気で、少しでも紅白を食ってやろうという番組が増えた気がする。

 こう書くと、紅白を批判しているみたいだけど、単に自分があまり進んで観る気がしないだけで、ああいう大晦日の儀式のような番組は嫌いではない。もし、紅白を見て大晦日を過ごすのが大好きな人達と一緒だったら、特に違和感なく進んで観ていると思う。

 大晦日の過ごし方というと、10数年前、中国内蒙古自治区へ行ったメンバーと、元旦ツアーを企画してから大きく変わった。東京近辺から出発できる者は、大晦日の夜に夜行で東京を出発して、設定した旅先に集合し2泊ほどするというもの。その万年幹事は自分でした^^;。
 最初の2年は生駒。その次は永平寺、と初詣をかねられる場所を設定していた。その後はツアーはやらなかったけど、それ依頼、年越しを家でするというのは考えられなくなっていた。今年はどこで年を越すか?というのが問題だったりした。どこの宿でも、年越しはそれぞれの宿に強力な常連がいるからである。選択を誤ると、とてもなじめない、居場所のない年越しになってしまう。

 印刷製版職人をしていたときは、割合自由に長期休暇を設定できたので、大晦日前に出発して、1月半ばまで北海道をさまよっていたこともある。さまようといっても、ほとんど宿を中心にブラブラしたり、へこへこと列車に揺られていたようなもんですが。
 そんな中で、雪に埋もれた、釧路の先の弟子屈(てしかが)町は、なんか妙に好きな場所でした。

 そんな年越し旅も、1998年末に父親が永眠してからは、また家で過ごすことにした。それでも、特にそれ以前のように、年越しらしいテレビを観るわけでもなく、なんだかごく普通の一日の日越し、に過ぎないような感じがするなぁ・・・。
 普段、それほど長時間テレビは観ないのだけど、年末年始はよけいに観ないですね。やたらに時間が長いだけの、わざわざ観るに値しないモノが多すぎて、かえって観るモノがないというか……。
 子供の頃は、年始に2日連続で放映された、故・高橋けいぞう氏司会の「オールスターかくし芸大会」がとても楽しみだったんだけどなぁ……。今はもう、NHKくらいでしかやらなくなったけど、新年の零時をまたいで、各地の寺院を中継している様子は、今でも好きですが。

 大晦日の朝は、どこもかしこも市場中継という感じでしたねえ。ああいう市場中継で、レポーターが調子に乗って値切ってるのって、なんか浅はかだし、当人だったら腹が立たないかなぁ?と思う。テレビで全国中継された日にゃ、いい顔しないわけにいかないし、脅迫みたいなもんでしょう。


P.S.
年明け前には、「良いお年を」と挨拶しますが、子供の頃、意味をちゃんとわかってなかった。良いお年をお迎えください、ではなく、残り少ない年を有意義にお過ごしください、という意味だと思っていた。

人生の責任   (2004.1.5)

 今まで40年強生きてきて、当然いくつもの分岐点があった。まぁ、幸いなことに「苦労」というほどのことはしていないのだけど。一般的に自分の世代くらいで、最初に自分で道を選択するのは、高校受験の時ではないだろうか。その次は進学か社会へ出るか。

 自分の場合、附属高校から大学へ行き、何となく就職して退職、就職、退職、フリー、などの道を経てきたのですが、その分岐点ごとに自分の思惑通りでなかった場合もいくつかあります。
 二度目の就職の時、希望していた職種に就けなくて、偶然行き当たった職種の会社へ入り、その仕事が、無茶苦茶自分に向いていて、あっという間に手に職を付けて、職人になって独立してしまったのでした。
 その仕事は5年ほどで辞めたのですが、自分の能力をフルに出した感じの仕事だった。技術を身につけて、1人で仕事をこなすことの意義や意識を濃密に学んだ時期です。
 もちろん「1人で」というのは、あくまで形式上自分1人の事業形態になっている、という意味ですが。

 その独立するときも、他の職種へ移るという分岐点があった。その他にもいろいろと細かい分岐点は、誰でも数え切れないほどありますね。

 自分はおめでたい性格なので、分岐点で思惑通りに行かなかったモノは、結果的にすべてそれで良かったと思っています。
 恵まれたことに、「現在」が自分にとって一番いい状態である、と実感できることが多いので、「その時に」思惑通りにいかなかったおかげだった、と思えるからですが。

 すべては、そういう風になるために意味があったことなのだ、とする思想もありますが、自分は全くそういう風には考えません。
 起こっている出来事には意味などはなく、意味は後から自分でどう付けるか?の問題だと思うのです。
 別に、そういう風に考えようとしているのではなく、自然にそう思っています。
それに、出来事にはすべて意味がある、と考えるより、意味を付けるのは自分だ、と考える方が、自分の人生にしっかり責任を持って生きられるとも思うのですが…。
 みんながみんなそうだとは言わないけど、起こることには意味がある、と考えるのは、起こったことによって自分が取った行動には責任がない、と簡単に逃げられもするでしょう。まぁ、そうやって言い逃れをする人を何人も見てきたのですが…。

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