ポイントは?  (2003.9.20)

 PC関係のモノを買うとき、よく○ックカメラを利用していた。最近はどこでもポイントカードを発行していて、清算金の10%程度がポイントとしてついて、次回以降に使えますね。で、ご多分に漏れず、ポイントカードを使っている。このカードを利用するときに、最近とても不愉快な思いをすることが多くなった。1年くらい前から、ある傾向が見られるようになったのだ。

 以前なら、精算時にカードを出すと、
 「ポイントはどうされますか?」とか
 「ポイントはお使いですか?お貯めですか?」と、丁寧に聞いてきた。ところが最近は、
 「ポイントはお貯めですか?」とだけ聞いてくることがほとんど。ひどいときは
 「ポイントはお貯めでよろしいですね。」と言ってくる。特定の店舗だけでこのような傾向があるわけではなく、どの店舗へ行ってもそのように言ってくるということは、そのように言えと教育しているからに他ならない。どう考えても、なるべくポイントは使わせないようにしろ、と教育しているとしか思えない。

 一番ひどかったケースは、新宿東口店で、書籍売り場の女が何も言わずに精算を終わらせようとした。「(ポイント)使いますよ」と言うと、あからさまに不服そうな顔をして「早く言えよ!」という雰囲気だった。

 ○ックに限らず、ただでさえ、店員のPCに関する知識の半端さには辟易としていたのだが、どこを利用しても大した違いはないので、愛用する店を考え直そうと真剣に思ってしまう。毎回レジで不愉快な思いをしてまで利用する意味もないし。ポイントを使わせたくないのなら、いっそ廃止してくれた方がまだ気持ちがいい。

高校生の就職  (2003.9.22)

 ただでさえ就職難の昨今、高卒の求人は2人に1人という、相変わらずの厳しさだそうだ。その事についてのニュースの特集を見ていて、大いに疑問を持った。
 確かに求人の少なさも問題なのだが、それ以上に問題なのは就職する側ではないのか?特集を見ていたら、親や教師は、就職する本人である子供に、いかにやる気を出させるかに気をもんでいる。
 就職したいけど、就職先が見つからないというのとはかなり違う。何をやりたいのかがはっきりわからないから、会社を選べと言われても良くわからないし、就職活動にも身が入らない。
 親や教師は何とかして就職させたい。一応子供の将来を考えているという事になっている大人と、自分で考える生き方を学ばせてもらえなかった子供のギャップを感じてしまった。

 採用する側も高卒を敬遠しがちなのは、すぐにやめてしまう人があまりに多いから、と言うことがあるらしい。就職相談に来ている親のやり方も、それまで就職のために勉強させて、その次はとりあえず安定してるというイメージのある「就職」をさせて、今まで学校に任せていたことを今度は会社に任せようとしているんじゃないのか?という感じがした。
 いつまで経っても、子供を独立した人間として、自分の考えで生きていくと言うことをさせないようにしている気がしてならなかった。ちょっと偏見を持った見方をしているのはわかってはいたのだけど、大いに違うんじゃないの?と思いながら見てしまった。それに、なんだかんだ言いながら、本当の意味での「不況で余裕がない」と言うのとは全く違うという印象だった。

 話は変わりますが、今の日本、あまりにも多くの人間が大学に行きすぎると思う。勉強したいことがあって大学に行く、と言うのが本来であろう。そのなれの果てが、現代の日本の大学の有様である。特に勉強したいというモノがなければ、アルバイトでも何でも、社会へ出てしまう方がいいと思っている。

 人のことは言えなくて、自分もそうして大学を出た口なのだけど、わざわざ大学へ行った意義は何か?と言うと非常に答えづらい。自分だけに限らず、あのような卒論が認められるというのも全くわからない。一応、論文らしくはなっている。でも、内容などは無いに等しいし、それは卒論を書くほぼ全員が納得することだと思う。受理する教授側もわかっていて合格点を与えるのだし。いや、そうじゃない、全課程を学んだ成果として意義のある卒論である、と言い切るのなら、その教授の頭を疑う。(もちろん一般論で言っているのではありませんよ。)

 昔の日本がそうであったように、今でも世界には、限られたごく一部のモノだけが大学へ進学するという社会の方が多い。ある意味では、その方が健全だと思うのだが。もちろんその多くは、進学する経済的余裕がないなどの前提があるのだが、じゃぁ現代の日本は、本当に学びに大学へ行きたくて、その経済的余裕もあるから進学する、という話になっているのか?というと・・・

酒の飲み方  (2003.9.24)

 ここんところ飲み会というモノには、とんと参加しておりませぬが、結構好きだったりする。ただ、あまり大勢の飲み会とか、毎週のように催されたりするのは苦手かもしれない。お酒は強いとも弱いとも言えないかなぁ。ま、弱くはないと思う。お酒自体はそれほど好きと言うことはありませんが。

 大阪で仕事をしていた頃、しょっ中同じチームの連中と飲みに行っていました。メンバー的にとても良かった。
 コンピューターのシステム開発の仕事だったので、1つのプロジェクトが一年以上かかるのはざらで、そのときのプロジェクトのチームで行くことがほとんどだった。そのころ自分は新卒入社の1~2年目で、プロジェクトリーダーはたいてい課長代理か主査なので、40歳未満。チームの年長者でも50前だったと思います。一番若いのだと19くらいもいたかなぁ。
 メンバーの半分以上は外注さんだったけど、もう社員とか子会社とか外注とかは一切関係なかった。酒の席でも普段の仕事でも、あくまで常識的な礼儀の中での人間関係があるだけ。どのチームが構成されたときでも、とても和気あいあいとしていた。

 飲みに行くときでも、飲み方などは関係ない。各人が各人のペースで楽しんでいればいいのだ。ウーロン茶を飲んでいようが水だろうが、そんなのはその人の自由であった。お酒を強要するモノもいなかったし、先輩や年長などの立場を利用するモノも皆無。
 大学のコンパなどでは、意味のない一気飲みの強制や、先輩後輩の押しつけによる飲み方などもあり、アルコールをたくさん飲むことに意義がある、という事が多かったが、さすがに社会人の大人になると、違うもんだと思っていた。ところが、そういうのが普通なのだと思っていたら、全然違うのだと知って驚いた。その会社を辞め、バイトしたり東京に戻って再就職したりすると、実につまらない飲み方を強要される場というのが多いことを改めて認識した。進められたお酒を飲むことを強要する上司や先輩。飲み会に参加することを暗に強要する雰囲気。接待でもないのに、くだらないおべっかが必要な酒宴。・・・・・・

 もちろん、こういう場が多いのを知らなかったわけはない。ただ、自分が参加する場では、滅多にないことだったのだ。その点は現在に至るまでそうなので、とても幸いだと思っている。ただ参加・不参加や途中退席に関しては、気遣うことは多かった。とてもバカバカしいことだと思うのだけど。

 前述の大阪での仕事仲間では、参加することに気を遣うことも必要はなく、用事があったり気が進まなかったら参加しなければいいだけのこと。途中で抜けたくなったら、帰ればいいだけのこと。みんながそれぞれの人間性やキャラを認めて尊重しているので、口数少なく飲んでいる人はその人なりに、馬鹿なやつは馬鹿なりに、それでも酔っていてもお互いを気遣って楽しくやっていた。

 時代はどんどん変わって、今はそんな馬鹿なケースは減っているのだろうと思ったら、とんでもないことだった。上司が高圧的に部下に酒を強要したりはどこでもあるようだし、意外だったのは若い連中。いつも楽しく集まって飲んでいるのかと思ったら、参加できないときは仲間はずれのようで不安になると言う。だから、みんなが集まるときは行かなきゃと言う強迫観念のケースもあるようだ。

 25歳くらいの時だったと思うが、小学校のクラス会の時のこと。同級生の男がビールをついでくれようとした。もうあまり欲しくなかったので、「あ、俺はもういいよ」と言った。「あ、お前、酒の飲み方知らないな。出世しねえぞ。」と、斜めに見下げる目で言われた。元からあまり好きなやつではなかったのだけど、「こいつ、いっそうつまらない大人になったなぁ」と思ったのだった。

さよ~なら~♪  (2003.9.26)

 お店での「いらっしゃいませ!こんにちは~!」が不自然でうざったいというのは、今までに何度も書いてきました。
 不自然に感じている人は多いというのに、その勢いはとどまるところを知らず、○トールコーヒーでも言い始めた。2階3階や地下があるところだと、店員が片づけやテーブルを拭きながら連呼している。

 ドトー○って意外にも閉店が早い。前に銀座で7時15分くらい前に入ろうとしたら7時閉店だった。7時閉店であるというのを了解して入ったのだが、店員はあっちこっちの窓や机を拭いたり、使ってないテーブルのイスをあげたりしていた。
 「7時で閉まるんだからね!あたいら7時までしかバイト代出ないんだから、ちゃんと帰ってよね!」と、無言で訴えられているようだった。
 そのうちに、閉店時間が近くなると「ありがとうございました~!さよ~なら~!」と連呼するようになるんじゃないか?^^;;

確率  (2003.9.28)

 十勝沖地震。被災者の方にはお見舞い申し上げます。その時刻、もちろん寝ていたのですが、何となくゆるゆると揺れているなぁと感じて起きた。ゆ~っくり揺れている感じで、これは大きいのがくるのか?と思ったけど、そのうちに収まった。でも、震源地では大きかったのですねえ。東京でも揺れたくらいだから。

 その後、「この後、マグニチュード○、震度○以上の余震の怒る確率は○○%」という予想が出された。あれ、どういう風に解釈するのだろう?と疑問に思った。雨の確率とは計算や解釈の仕方が同じなのかどうかもわからないし。そもそも、雨の確率の解釈もよくわからないけど^^;。

 雨の確率だったら、「1mm以上の降水確率は20%」と言われたら、確率は低いし、降ってもたいしたこたぁないだろう、と思ってしまう。ま、豪雨の予報ではないから、目論見が外れて降られてもそれほどの被害でもないから、軽く見ている。
 地震の場合はどうなのか?「震度6以上の確率20%」と言われたら、どういう確率なのだろう?起こるとしたら6以上であって、小さな地震は起こらないということなのか?。それで、大地震が来る確率が20%と言った場合は、少しは安心できる確率なのかどうか?
 該当地域にしたら、確率は小さくても、来た場合は相当な被害が予想されるから、「来るか来ないか」のどちらか、すなわち確率的には50%、気持ち的には90%のつもりでいないといけないような。う~ん、その辺の解釈の仕方というのをとても疑問に思ったのだった。

 それにしても、あのあたりの大地震は、30年以内に発生する確率が高いと言われてたんですよね。ただでさえ発生するかどうかもわからない事態なのに、その適用期間が数十年単位なのだから、気の遠くなる確率だなぁ、と常々思っていた。

 地震国なので、あれだけの被害で収まったのだと思うけど、海外から見たら、地震の数値を見て仰天したのでしょうねえ。それで、なんでそんなに被害が少ないんだ?と。 地震国で生まれ育っている我々は、そういうのも普通の自然の営みの一部なのだと受け入れているのかなぁ?単なる慣れ、というのとは違うと思うが。

OSあれこれ  (2003.9.30)

2003年に書かれたモノなので、相当内容が古いです^^;;

 今現在、自分のパソコンではWindows98SEを使っています。一時期Meに換えたこともありますが、自分の環境ではフリーズが激しく使い物にならなかったので、98に戻した。戻してからは、ほとんどフリーズも起きないし、快適に使えてはいる。ただ、やはりマイ○○ソフトのやり方や、無用なOSの肥大化に矛盾を感じていたので、パソコン始めた当初から、もっとまともに使えるOSを探してあれこれやってみていた。

 PCを始めたのは4年前で、ハードにもOSにも詳しいとは言い難いのに、始めて半年でリナックス(Vine Linux)を、パーティーション切ってインストールしてみるという無茶もやりました。当時はまだ、素人がデスクトップ用途に扱えるような代物ではなく、プリンターの設定すらかなり勉強しないと設定できなかった。テキストプリントなら問題ないけど、自分のように画像をきれいにプリントしたいとなると、ドライバーはほとんど無いので、苦労して設定してもろくなプリントは出来なかった。確かに優れたOSであるのはわかるけど、四六時中Linuxを勉強していないと扱えないのでは意味がないので、やめたのでした。

 その後は、NHKの「プロジェクトX」で有名にもなった、国産OSのトロンを98と併用して使っています。トロンのパソコン仕様はBTRONと言って、「超漢字」という「もっと考えろよな」というネーミングで市販されている。
 古今東西の漢字はおろか、世界中の文字を扱うことができて、通常のファイルシステム自体がハイパーリンクになっている。(インターネットのページのように、ページ内に他のファイルへのリンクが貼れる)文系の用途で、アイディアを熟成させたい使い方をしたい人や、パソコンで扱えない漢字や文字を利用したいという人には、これ以上のOSは無いでしょう。おまけにダントツで安定していて軽い。4年ほど使って、システム自体の問題で、フリーズしたりコケたりという事は一度もないし。
 ただ問題は、マイナーすぎて誰でも扱えるような、実用的なアプリがほとんど無い。
 使えない漢字はほとんど存在しないのに、漢字変換エンジンがひどすぎるのもちょっと・・・。おまけにネット環境もあまり良くはなく、自分にとって致命傷なのは画像処理が出来ない。ウイルスとは無縁なのでメールには安心だし、データ形式がすべて統一されていて、将来的に変わってしまう心配もないので、住所や出納帳管理などには便利に使っている。
 適切な用途で導入すれば、これ以上のOSは無いとは思う。自動車のエンジンや携帯電話を制御しているのもOSですが、そういうモノも含めて世界中のコンピューターで一番信頼されて使われているのはトロンなんです。

 さて、最近になって、LindowsというOSが話題になってきた。
 リナックスなのだが、限りなくウインドウズの操作感に近い仕様にして、ウインドウズ使用者や初心者が問題なく扱えるというふれこみだった。だからLinux+WindowsでLindows。
 もちろん名称がややこしいと言うことでマイクロソフトが訴訟を起こしたが、マイクロソフトは敗訴。かえってそのことでLindowsを有名にしてしまったようだ。本場アメリカでは好反響で、先日、日本語版も大々的に販売された、ということらしい・・・。
 プリインストールPCも激安で販売されているようだ。有料なのだけど、是非使ってみたいと思っていたところ、雑誌に評価版が添付された。評価版というのがどういう意味なのか、どこにも書かれていないのでわからないのだけど、機能を限定した無期限の体験版という感じか?で、中古で買ったサブの実験用ノートに入れてみた。感想は、、、、出費しない体験版でしかもサブのPCで良かった、、、というところか? 起動は恐ろしく遅く、ウインドウズ以上の高スペックを要求し、年間9800円でダウンロードし放題というソフトの多くはフリーソフト・・・、しかも日本語版が少ない。
 リンドウズを買った人の書き込みがあちこちにあって、その内容に驚いた。販売されて短期間にこれほどクレームのついたOSも無いんじゃないのだろうか?2ちゃんねるや日本の販売元のエッジを始め、あちこちの掲示板での酷評は・・・。どうやら、まともに使えない上に、販売前に約束していた内容がほとんどなされていないようである。
 日本語版というにも、あまりにもおこがましい。
 販売元のエッジ社(現・ライブドア)のユーザーフォーラムをのぞいてみたが、これほどのクレームが自社サイトに書き込まれ、それを無視している社の姿勢も不気味と言うか、すごい・・・。販売開始2日間で嵐のようなクレームの書き込みがあり、直後に書き込み不能にしているようだ。自分は買わなかったので、高みの見物で書き込みを読めるけど、Linux自体の評判も落とすのではないかと心配になってしまう。
 期待大で、大々的に評価しているPC雑誌の、その後の記事を期待したいところ。

 で、久しぶりにリナックスを試してみた。約3年ぶりだけど、その間に格段に使いやすく環境が整っているので驚いた。Lindowsを試した後なので、よりその完成度が新鮮に思えた。あれほど苦労したプリンター設定も、プリンターメーカーがドライバーを提供するようになったので問題はほとんど無くなったし。
 個展が終わったら、どれか1つのリナックスを選んで、ウインドウズと併用してどの程度移行が出来るモノなのか試してみようと思っている。ま、ウインアプリに頼っている部分が多いので、完全移行は無理だと思うけどなぁ。あくまで併用で。

画像処理を多用するなら、何故マックじゃないんだ?と言われそうですが、まったくPCの事はわからなかったので、普及してて割安な方を選んでしまったのですねぇ。最初はIBMアプティバの10万円PCとA3用スキャナとプリンターというとんでもない組み合わせで買ったし。通常の普及版スキャナはA4なので、A3はいきなり業務用みたいな感じで、パソコンよりも高かったのだった。

 なんだかんだ言って凝り性なので、普通の人があまりやらないことをやりたがるという困った性分で、まだまだいろいろなOSを実験しそうな気配濃厚です ^^;;;。

会話のキャッチボール  (2003.10.2)

 言葉として発する単語は、正確に客観的に定義づけられているのは、科学技術関係くらいではないのだろうか?普段我々が会話で使う単語の定義は、一応決められてはいるものの、それは慣習的に曖昧に定義されているのであって、人それぞれが自分なりの定義で、会話に盛り込んでいるのは間違いないだろう。

 ある言葉をずっと普通に使っていたけど、完璧にその意味を間違って使っていたと気づくことは、誰でも経験がある事でしょう。何で今まで気づかなかったのか?と言うより、なんでそれで相手に伝わっていたのか?まぁ、たいていの場合そういうモノは、大した比重を占める単語でなかったりはするけど。発音を間違って覚えていたというのも結構ある。たとえば、たぶん高校くらいまで「雰囲気」は「ふいんき」だと思っていた。自分だけかと思ったら、「ふいんき」と思っていた人は多いようだ。

 以前、養老孟司氏が出演していた番組で、大学生と議論している場面があった。女学生は「会話で自分が発言する時、使う言葉は事前に完全に定義されているべきだ」と言っていた。そうでないと、相手に何を伝えるのか?という行為が完結しないと。
 それに対して養老氏は、そんなことは必要ないと言う。定義が曖昧であっても、相手との会話の中で定義がはっきりしていけばいいのだと。それが会話というモノだと。言われてみればごく当たり前のことなんですよねえ。

 その学生の考え方は、現代の若者の傾向を良く表しているという。それは結局、すべてが自分中心でしか物事を見ていないことの現れだと。自分で完結していることが必要だと思っていて、相手とのコミュニケーションで完成したり成り立つという発想が、欠如しているというのだった。
 良く、会話をキャッチボールにたとえるが、その学生のやり方では会話というモノにはならない。自分の考えを発言するだけで、相手からのボールを受け取る気持ちはないからだ。

 この雑記帳も、何となく始めて見たものの、いつの間にかかなりの量になってきた。なるべく単純な文章で、よけいな表現を省いているつもりだけど、やはり言葉を選ぶのは難しい。アップするまでに何度か読み返すけど、自分が言いたいことが伝わるのか?そのためにこの言葉や文章表現でいいのか?を考えるときりがない。
 主題として書いたのとは、違う部分で反響をもらったりすることがあるので、そのときはやはり難しいと再認識する。そういうとき、自分が普段の会話や文章で、表現していたやり方の特徴に気づいたりする。

 相手に何かを伝えたいとき、手紙やメールの方が便利でやりやすい時もあるけど、電話や対面したりして、直接会話で伝えたいときもありますね。リアルタイムで会話が出来ると、話しながら、内容を正確に修正できる。メールや手紙だと、返事で確認するまでは、正確に伝わったかどうかがわからない。返事がないときは、相手が了解したのか、怒って返事をくれないのかもわからない。書きながら、その言葉の選択や表現では、誤解も与えるかも知れないからと、説明を二重三重に繰り返して、くどくなり、かえってわからなくなったりすることもあるし。そんなとき、キャッチボールとしての会話の良さを認識したりする。

シルバーシート  (2003.10.4)

 日本で電車やバスに、シルバーシートなるモノが登場したのは、たぶん自分が小学生の頃だったと思う。わざわざそういうモノを設けないと席を譲らないなんて、なんて幼稚な事をしなくちゃらならならないんだろう?こんなのは日本だけだろう、と思ったら、ちゃんと欧米にもあるらしい。それに、見た目で席を譲った方が良いとわかる場合でなくて、どうしても席に座りたい状態の人もいるだろうから、そういうシートがあっても良いのだろう。
 問題は、健康に何の支障もない人でも堂々と座っていることだと思う。ある人はイギリスで、すいている車内だからどこでも良いだろうとシルバーシートに座ったら、近くにいたご婦人に、傘で膝を叩かれたという。必要としている人が座る場所なのだから、問題のない者は決して座ってはいけないと怒られたのだ。

 日本人の席を譲るマナーはどうなのかと考えると、意外に若い人の方が譲るのを見かける。茶髪、ボディピアスの人でも、必要とあらば積極的に譲る光景をよく見る。その反面、ばりばりにビジネスマンしてそうな人は、気づかないふりをしていることが多い。
 おもしろいことに、シルバーシートで席を譲るという光景を見たことはほとんど無い。考えたらそれもそうで、譲るつもりなど無いからシルバーシートに座って、最初から寝てるか、本を読んだりして、譲るべき人がシルバーシートのところへ来るかどうかなんて気にかけていないのだ。

 譲られる方のマナーも良く言われることだ。譲られて憤慨する高齢者も良くいるらしい。だから、せっかく善意で譲ったのに、譲った側も浮かばれない。名前は忘れたが、何とか言う小説家は、かなり高齢になってもいつもダンディな身なりをし、席を譲られたときは、帽子を取って頭を下げて気持ちよく譲られたという。

 自分はシルバーシートには決して座らないようにしているが、普通の席に座っていても、譲るべきかどうかの判断に迷うこともしばしばある。妊婦や、乳児を抱いている人だったら即譲るが、先日は、妊婦なのか太っているのかの判断がつかない人が前に立った。着ているものがマタニティーにも見えるし、そういうデザインの服にも見える。
 かつてある集まりで、知人の知人を紹介されたとき、マタニティを着た妊婦だと思っていたら、ぜんぜんそうではなく、そういうデザインの服を着たちょっと肥えた人だったのだった。。そのときは、その場に居合わせたほとんどの人が、彼女を妊婦だと思ったらしい。で、その自分の前に立った人に「何ヶ月ですか?」と聞くわけにもいかないし、確認するすべはないのだ。

 先日、小田急線の車内、70は軽く超えているだろう老夫婦に、高校生くらいの男子が席を譲った。その瞬間、おじいさんが声を荒げた。
 「いいから座ってろ!よけいな気をまわすな!」
 そばで立っているおばあさんは、背中を曲げ、しんどそうに手すりにつかまっているというのに。自分がいらなきゃ、せめておばあさんを座らせてあげても良いのに。
 そういうポリシーなのか、施しを受けるのがイヤなのかは知らないが、こういう人も困ったもんだと思った。何か特別な信条とか座らない理由があるのなら、善意を示した人には感謝とともに、それを説明する義務はあると思うのだ。


(友人からのメールより) (2003.10.7)
 電車の座席の話、あれ、こっちは田舎やからかな?そんなにひどいシーンは見られへんなぁ。^^ おいらの意見としては・・・
 「お座りになりますか?」とか「お手伝いすることはありますか?」とか、相手の人に選んでもらうようにしてもらうと、いいのかなぁ?と思っています。
 車いすの人を見かけたら、押してあげないといけないわけではないし、お年寄りでも、健康のために立って乗る主義の人もいるのだし、聞いてみたら、どうかな?と。
 小学校の先生あたりは、道徳を教えてるせいか(!?問題発言)、「正しいことをすべき」という意識が強いみたいです。おいらの周りの人だけかも?
 「障害のある人を見かけたら、ええことをしてあげないといけない」とか「お年寄りには、座席を譲らないといけない」とかいうことではないと思いますが、難しい問題なのかな・・・。

ブッチャー  (2003.10.6)

 ブッチャーの自伝を読んだ。おそらく日本でもっとも有名な悪役レスラーの、アブドーラ・ザ・ブッチャーである。インドか中近東の出身かと思っていたら、意外にもカナダ人だった。両親はインド系とアフリカ系だが。もう70に手が届くが、未だに元気にリングに上がっている。といっても、プロレスラーならそれほど驚く年齢でもない。
 プロレスラーが驚異的に高齢までリングに上がっているのは、健康管理の意味もあるらしい。尋常でないトレーニングで肉体を作り上げた結果、心臓が肥大化するので、引退してもトレーニングは欠かせないし、ふつうのリズムの生活に戻れずにカムバックする選手も多いという。戻れないというより、体が持たないのですね。

 多くの悪役レスラーがそうであるように、ブッチャーも普段はとても紳士だ。あくまでビジネスとして悪役を演じており、プロモーターや観客が何を自分に望んでいるのかをよく理解している。これも有名な悪役であるインドの狂虎タイガー・ジェット・シンも、素顔はとても穏やかな紳士だ。いや、別に二人に面識があるわけではないけど^^;;。

そのブッチャーの自伝「ブッチャー ~幸福な流血~」の最後に書かれている言葉。

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 私が日本の地を踏んですでに30年以上、日本の町並みも住む人の心もだいぶ変わった。東京は近代的なビルばかりになったが、ホームレスの人たちもとても増えたようだ。昔は飲食街にいると、難癖つけたり、喧嘩を売ってくる男たちが多かったが、いまはだれもが紳士だ。いや、紳士というより、日本人同士の関係は昔に比べてとてもドライになったと感じる。
 特に若者は他人にだけでなく、自分の両親に対しても無関心になっているのが気に掛かる。私は日本に来日した際、よく老人ホームを慰問していたので、それを痛感させられた。日本の若者にメッセージを贈らせてもらえるのなら、「もっと両親を大切にしなさい」と伝えたい。「きょうだい、そして周囲にいる人たちを愛しなさい」と。
 だれが自分のオムツを替えて、ここまで育ててくれたかを忘れてはならない。今度は両親がオムツを必要とするかもしれないが、そのときはあなたがオムツを取り替えて、外にも連れていってあげなさい。そういう気持ちを持ち続けていかなければ、自分が老いたときにだれも面倒を見てくれなくなるすべてのことは巡り巡って自分に還ってくる。それを忘れてはいけない。
 いまの日本の子供たちは与えられすぎている。与えられるのが当然だと思って、感謝の気持ちを忘れている。突き詰めればそれは親の責任でもあるのだが……。
 (中略)
 最後は私の人生を支えた言葉で結びたい。
 人は善良だから長生きできるとは限らない。犯罪者であっても長生きする者はいくらでもいる。過信しないことだ。人間はいいことも悪いことも受け止めながら生きていくしかないのだ。神を恨むことなく、毎日を一生懸命生きなさい。

長生きウインドウズ?   (2003.10.8)

 パソコンにとっては、コピーというのがトップクラスの重労働らしい。だから、コピーの最中はよけいなことはしないに限るとか。コピーと言っても、  クリップボードへのコピーのことだと思うが。

 昨日、かなり大きなサイズの画像をまとめて外部メディアにコピーしていた。1個50M平均の画像を、150個以上まとめてコピーする奴も奴だけど、やはりかなり時間はかかった。コピー先はDVD-RAM。しかもかなり古いドライブなので、読み書きが遅い。

 Macやリナックスではどうなのかは知らないけど、ウインドウズだと、時間のかかるコピーなどは「残り時間○○分」と表示されますね。ご存じのように、あの数値はほとんど当てにならない。せいぜい数分程度のものなら、まぁ目安にはなるけど、大きなファイルをいくつも一度にやると、最初1分と出ていて、それが55秒、50秒と減っていったかと思うと、次の瞬間いきなり8分とか15分とかに変わったりする。
 そのまま見ていると、15分からいきなり3分、55秒、、と減っていって、また6分とか言い出す。「また始まったよバカヤロ」と思いながら眺めているだけである。

 さて今回も、バカでかい画像をそんなに大量にコピーすると、当然時間表示も大きい。 同じ程度のコピーをしたときにかなりかかったので、それなりの心構えでいると「残り3分」などととぼけている。なに?と思って見ていると、もうほとんど目盛りが終わりに近づいた次の瞬間、「残り5901513分」とほざいてきた。
 590万分である。それが10万分単位で右往左往する。これだけ表示する桁数をとってあるマイクロソフトもマイクロソフトだ。ところがそれで驚いていてはいられない。10万分台まで落ちたと思ったら、今度は「残り71582354分」となった。さっきより一桁多い。
 さっきの590万分は、細かい数字は適当に書いたけど、今回の7158万分はちゃんとメモをとったのだ。(ひま人か?;;;) 7158万分と言えば、136年である。ウインドウズがそんなに息の長いOSだとは知らなんだ。・・・
 心配なのは、136年後にコピーが終わるまでに、途中で電源が落ちたりして、ディスククラッシュなんて事態に陥らないか?と言うことだが。・・・

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