トラウマ  (2003.8.31)

 トラウマという言葉が市民権を得るようになったのは、そう昔のことではないでしょう。せいぜいここ十年以内かと思います。
 とたんにトラウマ探しも盛んになったように感じる。本当にトラウマが、その人の精神的なネックになっている場合も多いだろうけど、強引にトラウマを見つけて、それの責任にしようとしているケースもあると思う。おまけに、トラウマを抱えているという、悲劇の主人公になりきっているのだって多い。

 で、ご多分に漏れず、自分はどうなのか考えてみたことがあった。結果、な~んも無いようだ。それなりの小さな心の傷や背負ったモノは、誰でもあるもの。そんなモノをいちいちトラウマとは考えないだろうし、自分もその程度。

 以前、椎名誠氏のエッセイを読んでいたら、その中にトラウマ探しの話があった。トラウマを背負っているというのが、何となくかっこいい気がするので、自分(椎名氏)もトラウマがないのか探してみたという。
 「どこを探してもトラウマはまったくなかった。ウマシカはいっぱいいるのだが。」と^^。

 そういえば、初めて「トラウマ」という言葉を聞いたのは、世間様と同じ10年くらい前だと思う。そのときは「虎+馬」だと思っていた。動物占いじゃないけど、虎と馬に象徴させた症状だと思っていたのだ。
 自分は精神科の専門ではないので、滅多なことは言うモノではないと思うが、過去の記憶というのは、現在に作られるという面もあると思っている。
 前にも書いたけど、経験した事実はひとつでも、それを解釈する仕方はその時々で違うからである。だから、つらい記憶が安らぐ記憶に変化することもあるし、もちろんその逆もある。今、その時の状況をどう感じて解釈するかで、つらかった記憶が解消するというケースも、少なからずあるとは思っている。いったん通り過ぎてしまった過去がネックになり、今現在ではどうにも手出しができないのなら、やり直しという事は不可能にもなってしまう。

 過去を造るのも、未来を造るのも「現在」であると思うのだ。それは、感情を与えられた代償でもあり、武器でもあるような気もする。

大学の一般教養  (2003.9.2)

 大学の一般教養。あれの意義というのがさっぱりわからない。必須単位が多いから、一応自分も大学では選択して単位を取ったのだけど。
 ほかの大学のことは全く知らないのだけど、うちの大学、と言っても工学部は、あまり選択の幅はなかった。ほとんどの一般教養が必須単位科目だったのだ。英語、体育はもちろん、体育講義、ドイツ語、英作文、科学史、応用数学、、などなど。なんで大学に入ってまで、しかも理数系なのに体育講義なんか必要なんだ?外国語は英語とドイツ語のみで、どちらも必須。ほとんど趣味サークルに近いような英会話という科目もあった。これは卒論以外の単位を取って暇だった4年の時に顔を出したけど、あまり有効な授業だとは思えずに途中でやめた。
 経験者はわかると思いますが、英語とか体育講義は、一度落とすと癖になるんですよね。卒論をやりながら、4年で体育講義の単位を取りに行っている輩もいたし。

 話はもどって、いったい何のための一般教養かさっぱりわからなかった。授業内容自体が無意味に近いということはもちろん、どういう意義なのかもわからない。専門学校ではないから、総合的な知識を身につけてもらうと言うことか?自分のところの場合、順調にいけば最初の2年ですべての一般教養を終えることはできる。でも、はっきり言って大きな時間の無駄だったとしか思えない。どう考えても、形の上で単位をそろえるためのモノでしかない。

 自分が専門で学ぼうとしていることに関して、足りないと思う部分を選択して勉強するための一般教養ならそれはよくわかる。形式でしかないから、単位を与える基準もまったく筋が通っているとは思えなかったし。なぜ落とされたのか?と言うことではなく、なんであれで単位がとれるんだ?と言うことですね。応用数学、線形代数などの、理数系らしい一般教養もあった。でも、自分が学んでいた建築学科では、かすりもしないような内容だった。あえて意義らしいものを見つけるとすると、講師に職場を与えるためとしか思えなかったな。

 そのような無駄な大きな時間を浪費して、卒論はと言うと一年間しかない。3年の後半からゼミを選び、4年から卒論に取り組んだのだが、本来なら数年は選んだゼミでの基礎研究などを積んで論文をしたためるべきモノであろう。それが、訳がわからずに資料集めと論文をまとめるテクニックに没頭する。学生側の意識の問題も確かにあるが、大学側のそれら一連のやらせ方もとんちんかんであると言えますねえ。卒業した後、何を卒論に書いたのか覚えてないとか、よくわからないと言う人が多いのは、無理はないと思うのだ。何より、学校外の世界へ出たことがなく、世間を知らない教授が多いというのは、、、、

あたり前と言えば・・・  (2003.9.4)

 駅のアナウンスで、
「危険ですから黄色い線の内側までお下がりくださ~い」とか、車内アナウンスで
「傘のお忘れ物にご注意ください」なんて言うのは、過保護の部類にはいるモノで、よく、日本人の民意の幼稚さを物語るのに使われますね。
 ま、あれはあれで意味はわかるのだ。

 でも、メシ屋に入ると
 「空いてる席にお願いします」と言われることがある。
 当たり前だろ?
 日本語としては「座っている方がいる席に座られても困りますので、空いている席に座ってください」と言っているようなもんだ。
 また、大阪にいた頃、阪急電車で通勤していたのだが、最寄りの駅のラッシュ時の尻押しバイトは、乗車しようとするたびに、
 「前のかたに続きまして、車内なかほどまでお進みくださ~い」と毎日繰り返していた。
 毎日毎日このセリフを聞いていて、言っている本人はもう麻痺しているんだろうな、と思っていた。
 これなどは、
 「歩くときは、左右の足を交互に前に出して、体の正面の方向にお進みください」と言っているに等しいんじゃないか?
 それに、その通りにやると、先頭のやつがドアの隅のコーナーを陣取ったら、後に続くやつはドアの周りにたまることになるぞ。
 ま、「前のかたに続いて」というのは、我先に追い越すなよ、と言っているんだろうけど。

エレベーター  (2003.9.6)

 エレベーターが「インテリジェント・エレベーター」になってからかなりたつと思う。要するに、考えて動くエレベーターですね。概してエレベーターは、数基並んでても、みんな上なら上に行ったっきりになっちゃたりすることが多いから、そういうことの無いように、状況に応じてまんべんなく乗れるようにする、みたいにするためだろう。

 でも、相変わらず下で待っていれば、それより上の階から上がりになってたり、上に行ったっきりで、一向に降りてこないというケースに遭遇してばかりなのはなぜだ?一番イライラするケースは、一階に居て上に上がりたいのに、全部たった今上がったばかりという状態ですね。

 不思議なもので、階数表示がされていて、今どこにいるのかがわかるよりも、上下のランプしかなくて、どこにいるのかわからないで待っている方が、それほどイライラしないで待てる気がする。と言うか、その方が待ち時間が少なく感じるのだ。

 最初に、最近のエレベーターは自分で考える、と書いたのだが、たとえば地下2階で上行きを待っていて、数台あるエレベーターのうち一番近くの1階にいるやつは微動だにせず、3階にあるやつが自分のところにやってくる。1階にいるやつの方が近いだろ!と思うのだが、そいつは一番乗り降りが多い1階で待機して、3階のやつを向かわせた方がいい、などの判断をしているようだ。また、各階で待っている人の待ち時間を考慮して、後先回しに動いたりもする。
 エレベーターの待ち時間の不満を解消する手段に、エレベーターの前に鏡を置いた会社がある。待っている間に鏡をのぞき込んで、身なりを整えたりして、待ち時間の不満が解消された。

 一つ疑問があるのだが、エレベーターガールのあの発声法。思い切り鼻の先で発声しているような声を出す。まぁ、あの中で通りやすく聞き取りやすい発声法なのかもしれない。それはそれでいいのだが、やめてほしいこともある。
 最近は乗っていないのでどうだかわからないが、新宿駅ビル小田急デパートのエレベーター。夜になると、エレベーターガールからエレベーターボーイに代わっていた。その男たちがあの発声をするのだ。大きな体でボタンにしなだれかかるように寄りかかり、鼻先声で「○○階、JR、小田急線、地下鉄ご利用の方、この階でございまぁス(うふっ)」と言うのはやめてほしい。まぁ、うふっとは言わないが。

読書感想文  (2003.9.8)

 小学校の頃、読書感想文というのがとても苦手だった。何を書いていいのかがさっぱりわからなかった。感想という概念を、まともに把握していなかったのだと思う。だから、授業で感想文を書けと言われても、何をどう書けばいいのかがわからなかった。書いても、まるであらすじ解説みたいになってしまう。「感想」という概念をちゃんと教えてもらったことがなかったのだろう。

 最近、古い荷物の整理をしていたら、小学校の頃の「読書感想文」の冊子が出てきた。自分が3~4年生の頃に書いたものである。字体からすると、小学校低学年だけど^^;;;。
 B5版1ページにつき、3作品について書く欄がある。その中からいくつか書き出してみます。

 「お話し宇宙めぐり(福島正実)」
 みらいになったら月や、星に人間をおくる客入りのロケットを作ると、書いてあった。でも、ほんとにできるかな、と思った。

 「みらいの世界」
 みら(未来)の世界の本を読んでこう書いてあった。
 人間のほねをブリキでかこんだり、心ぞうをポンプにするそうだ。だけどうそだと思った。

 「たのしい図工・5年生」
 本を見ていちばんよかったのは、らっかさんとモーターボートだった。さいしょに本を見て作ったらっかさんはうまくできたけどモーターボートは形だけよくて、あとは電地(電池)とモーターが重かったのでしずんだ。くやしいと思った。

 「理科ずかん(西野成俊)」
 山のかざんのことおんせんのことがあった。ぼくははじめてわかんなかったことがわかった。(謎;;;)

 「理科の実験と観察」
 ぼくは、けんびきょうを作ろうと思ったけど、ざいりょうの中のレンズを四枚とかいてあったのがうちにはなかった。ざんねんだ。

 ;;;;;;;;;;;;;;;;こ、このころからアホさ加減が;;;;;;;;;;;;

I love you.  (2003.9.10)

 英語圏の映画やドラマには、必ずと言っていいほど「I love you.」という言い回しが出ますね。これは恋人や夫婦以外でも、親子、兄弟でもこのセリフが使われる。日本語の吹き替えの時は、当然「愛してるよ」と訳されているが、あれ、違うんじゃないか?といつも思っていた。英語の専門家ではないし、しゃべれるわけでもないから勝手な事を書きますが、Love=”愛”という置き換えは、単純すぎるというか底が浅いというか。

 日本語では”愛”だけど、英語のLoveはもっと意味の範囲が広いんじゃないかと感じるんです。肉親同士の電話で、最後に「I love you.」と言うのも、「愛してるよ」の直訳では日本語ではかなり不自然ですが、あれが「じゃぁ、元気で」とか「気をつけて」ならば自然に聞こえる。そういう感じなのではないか?とずっと思っていたのです。要するに「I love you.」には、単純に「愛してるよ」ではなく、そのようないろいろな相手に対する思いを含んだフレーズなのではないか?と思っていたのです。勝手な解釈だけど、この辺はどうなんだろ?
 Loveと愛・恋などのニュアンスについては、友人の通訳師もネットで書いていましたが。

 以前の雑記帳にも書いた「いらっしゃいませ、こんにちは~」という日本語として不自然な店員の挨拶。もう至る所で蔓延していますが、この間、店で言われた時に、ふと「I love you.」と同じような英語との関連が頭をよぎった。もしかすると、英語での「Hello」の直訳なのか?と。
 アメリカなどでは店に入ると店員も客も「Hello」と言うらしい。だから、日本人が黙って店に入ってくるのは、向こうから見たら違和感があるというのだ。この場合の店員側の「Hello」はもちろん「いらっしゃいませ」の意味だろう。もしここで、日本語で「こんにちは」と吹き替えると、ちょっと不自然な感じがしないだろうか?
 「いらっしゃいませ、こんにちは~」も、その英語の「Hello」のつもりなのか?と思ったけど、ここまで書いてきて、それは深読みだろうと思った。やっぱり単に親近感を出そうという浅はかな知恵なんでしょうね。

 ところで、昔ながらの個人対個人のふれあいが残っているような町では、お店に入った時、お互いに挨拶しても自然だろう。たとえそれが初めてはいるお店であっても。でも、その場合はお客側が「こんにちは~」と入っていくのであって、お店の方は「はい、いらっしゃい」が自然でしょうね。
 やっぱり、迎える側のお店が顔見知りでもないのに「こんにちは~」は不自然だという結論にしておきます。^^;; なおかつ、その上に「いらっしゃいませ」をくっつけるな。
 もひとつ、前にも何度も書いたけど、古本の大チェーン店になったブックオフ。意味もなく四六時中「いらっしゃいませ!こんにちは~~!!」と叫び散らすな。
 うるさいだけなんだよ。

エレベーターが?  (2003.9.12)

 最近は表側がシースルーで、表の景色を見ながら利用できるエレベーターも珍しくなくなりましたね。

 そんなエレベーターを、ビルの表から見ていた親子。
 お母さんがひと言
 「エレベーターが右往左往してるよ。」

 そ、そいつはてぇへんだ!;;;;;;

後始末は誰が?  (2003.9.14)

 最近ますます問題になっている、駅前の放置自転車。我が町でもどんどん増えてきて、駅周辺では定年などでリタイアした方たちが、ボランティアで見張ったりしています。駐輪を禁止するのではなく、駐輪できる場所を増やしたりとか、また誰でも自由に利用できる自転車を町に用意するなどの対策もなされてますね。

 でも、どんな有効な解決策が出されても、結局は対処療法でしかないでしょう。今さら言うことでもないけど、こういう類の問題の根本は「自分さえよければ」の気持ちに他ならないと思うからです。
 都市化による、精神的な荒れもありますが、何よりお互いを知らなすぎると言うことだと思います。自分がまき散らした行為によって迷惑するのは誰か?その尻ぬぐいをするのは誰なのか?具体的なそのような相手を知らなくても、必ずそのような相手が存在するという実感が無いのではないか?だから、一時的に有効な対策がとられたとしても、また新たな問題が発生するのは間違いはないと思う。

 かなり話はそれますが、仕事でも同じ事でしょう。会社勤めをしていて、新人に教えていた頃のこと。通常の教育だと、もっともらしい心構えや、利益率を考えた仕事をするように言ったりするのでしょう。でも、社会に出たばかりの人間に、そんな実感のない事を言ってもあまり意味はないと思っていたので、営業さんの事を考えるように言いました。そもそも前述のような教育は、机上のスローガンでしかないと思うし。
 自分のやった仕事を持っていくのは営業さんなので、その営業さんのことを考えろと言ったのです。慣れていないのだから、仕事をとちったりするのは当たり前。でも、とちったら直してきちんとしたモノにすればいいのであって、仮にいい加減なモノを出した場合、それを持って行った営業さんはどうなるのか?逆に、いいものを渡した場合、その営業さんはどれだけ気持ちよくお客さんのところへ持って行けるかと。
 この方が具体的で身近で実感もあり、また仕事の楽しさもあると思ってそのように言ったのですが、でも本来の仕事とはそういうモノですよねえ。身近な周りに対する配慮がつながっていくモノだと。(よく、大きな事ばかりを掲げる人もいますが、そういうのに限って身近なところはいい加減にやっていたりする。身近なところからつなげていかなければ、大きな事にもつながっていかないのに。環境問題を論じている割には、毎日の自分の出すゴミに関しては無頓着だったり。)

 仕事に限らず、日常だってそういうモノだと思う。「他人に役立つために~~」というきれい事を言っているわけではなくて、自分のためでいいのだ。ただ、自分のためにやったことで、もしも誰かに迷惑が及ぶような場合、それを見ないふりしても、それでいい気分を保ち続けることができるのか?ということです。
 神経が麻痺していなければ、イヤな気分の方が強いはずで、それならばそのようなことはやらない、と言う方が自分にとっては気分はいい。だから、そのより気分のいい状態を選べばいいのでしょう。ま、繰り返しになるけど、神経が麻痺していなければですが。

予定通りなんて・・・  (2003.9.16)

 以前、新聞の投稿欄に、イギリスでの生活の長い日本人の投稿があった。その人は、日本に帰ってきたときの、日本のリズムの異様さを語っていた。
 イギリスでは、電車などの公共交通機関が、数分以上遅れたりするのは当たり前である。と、いうより、日本以外では当たり前なのでしょう。
 日本では、完璧に時間通りに電車がやってきて発車するのが当たり前である。その上に都市部では運行本数がとても多い。自分の住む最寄り駅に止まる井の頭線などは、朝のラッシュ時は一時間に32本(!!)くらい運行している。
 先の投稿者が異常だと感じたのは、その正確さもさることながら、それほど正確で本数の多い交通機関を利用する人たちが、駅で走る、ということなのだった。それを読んでみて、なるほどと思った。

 正確にやってくるのだから、それに合わせて行動すれば走る必要もないし、仮に間に合わなくても、すぐにやってくる次の車両を待てばいいことなのだ。ローカル線のように一時間に数本もないような電車ではないのだ。おもしろいことに、そのような本数が少ないところより、多いところの方が人はよく走る。

 海外ではどうだか知らないが、日本では、電車の運行が遅れると「遅延証明書」なるモノを駅でくれる。自分の落ち度ではなく、電車の運行が遅れたせいで遅刻したんだからね!あたいは悪くない!という証明書ですね。あれの存在を知ったのは、電車通学をするようになった高校の時だったと思うが、ものすごく違和感を覚えていた。いや、今でもおかしいと思っている。
 なにしろ、たかが3分程度遅れたくらいでも、みんな争って証明書をもらっているのだ。3分程度で遅延証明を発行する方も方だが、もらう方もよくわからない。自分が通勤や通学で乗っていた電車が遅れて、降りた駅で遅延証明書を発行していたことはあるが、証明書をもらったことは未だかつて無い。たかが5分遅れたくらいで遅刻するような行動はしてこなかったからである。遅刻しないようにしているというのは、間際であわてるのがイヤだから、ということなのですが。
 と言うことは、争って証明書をもらっている人たちは、その数分が命取りになるようなぎりぎりの時間で行動をしていると言うことなのでしょう。
 あ、別にそのことを非難しているわけではないのだ。逆に見ると、それくらいぎりぎりで行動をしても、滑り込みセーフで間に合うくらいあらゆるモノが正確に時間通り予定通りに動いていると言うことでしょう。(遅延証明書に関しては、そのときに提出しないで、自分の落ち度で遅刻したときに使うという方法も聞いたけど、可能なのか?)

 これって、普通は日本が世界に誇る点として語られたりする事なのだけど、自分としては気持ち悪いくらいに奇妙な事だと思っているのだ。まるで、生まれてから死ぬまで、予定通りに事が運ぶというのが基本になっているみたいな社会で。だから、ちょっと歯車が狂った程度で、人はパニックになったり悩んでしまうのではないのか?要するに免疫が不足しているというか。
 物事は、最初の予定通りに進まないのが当たり前だし、自分もいつ死んでしまうかわからない、というきわめて自然な状態を想定していない。そのように割り切っていれば、とても精神的にも余裕は生まれると思うのだが。現代の日本が、まるで綱渡りをさせられているような、緊張感を持たされているというのも、そのあたりの要因もあるような気がして。

 テレビで養老孟司氏が、今の日本では子供が(精神的に)成長しなくなっている、と語っていた。子供は大人が与えるレールの上を進むことを強いられ、自分の考えで自分の責任で生きるということをさせてもらえない。あらゆる面での想像力や創造力が育たないのだ。
 確かに日本は豊かになって、生きる手段も豊富になっている。それは各人の選択肢がたくさんあると言うことで、本当に豊かな社会というのは、選択肢が豊富な社会のことなのだろう。ところがおもしろいことに、今の日本は、そのたくさんある選択肢を、自由に選択するという事が容認されていない。まともな学校を出て、まともな就職をするという選択肢しか、一般には容認されていないでしょう。つまり、本当の意味では全く豊かではないと言うことか?

 夢や目標に進んでいくという事と、物事が予定通りに働くということは、似ているようで全く違う。後者が通常の前提になっている社会というのは、息苦しさを覚えるのだ。交通機関が数分遅れても誰も問題にしないような田舎へ行ったり、アジアへ行ったりすると、とても心が安まるのは、普段とは違う場所や自然の中でリフレッシュできるということのほかに、予定通りに行かないのが当たり前、という中に置かれているという部分もあるような気がする。

空港が好き!   (2003.9.18)

 子供の頃、空港と航空の違いにとまどっていたのを覚えている。音も似てるし。JALが「にほんこうくう」なのか「にほんくうこう」なのか、こんがらがってしまうこともしばしばだった。

 って、こんな事を書くつもりじゃなかった。前に書いたのですが、飛行機や空港が大好きなんです。飛行機は見るのも乗るのも大好き。そして、空港の雰囲気も大好きです。搭乗手続きや、各種お知らせをアナウンスするときの「♪ピンポンパンポ~ン」という柔らかいチャイムもいい!なんか旅立ちの雰囲気というのか、そういうのがいいんだと思う。でも、これが誰かを見送って、自分はそのまま帰るというのだと、ちょっと寂しい。経験はないけど、それが夜でなおかつ最終便だったら、かなり寂しいと思うなぁ。

 空港の送迎デッキから、発着便を眺めているのも大好きです。ただ、この近くだと羽田空港ということになるのだけど、新しくなってからは、滑走路とデッキの距離がかなりあり、以前のような臨場感に乏しい。以前の羽田のような、使い込まれた、雑然とごみごみとした感じも嫌いではなかったし。食堂の料理はもちょっと何とかならないのか?とは思ったけど。
 大阪にいた頃も、東京出張などにわざわざ自腹を切って飛行機に乗っていた。大阪伊丹空港では、職員用の食堂があり、一般も利用できる。知らないとわかりにくい場所なので、それほど一般人の利用は多くないが、料理はそこそこで、安くて、空港職員やスチュワーデス、パイロットなども利用していたので、その雰囲気も好きだった。

 さて、空港好きが高じて、大学4年になる前の春休みに羽田空港でバイトをした。全日空系列の貨物運搬関係のバイト。空港利用者はモノレールの羽田空港駅で降りるのだが、バイト先は羽田整備上で降りる。飛行機の貨物の積み卸しがその仕事内容なのだが、一般利用客の荷物ではなく、段ボールや梱包された貨物である。コンテナの積み卸しもあった。空港ではコンテナを芋虫のようにつないで引っ張っている車両やトラックが行き来しているが、あれがそうなのです。
 バイト時間は、自分が入っていたのは16時から翌8時まで。ただし23時から5時までは仮眠室での仮眠。8時に上がると、その日はバイトは無く、次の日の16時に入るという繰り返し。1ヶ月間だけやったのですが、16回入りました。20年前で、バイト代は一日11,700円。1ヶ月やって20万弱だったと思う。
 ヒジョーーーーーに寝付きの悪い自分は、この仮眠室で眠れたという記憶はない。ほぼ毎回徹夜に近い状態だった。同じように眠れなくて、「今日は徹夜だから調子いいよ」と焦点の合わない眼で言っている男もいた。^^

 バイト仲間に、チビだけど一番年上で、ほかのバイトの悪口ばかり言っている内田という男がいたのだが、それが唯一の難点だった。年上と言うことで皆一目置いているため、誰も言い返さないのでいい気になっている馬鹿野郎でした。
 その他は楽しかったですねえ。自分は、ああいう肉体労働が合っているとつくづく思った。基本的に頭脳労働派ではないと思っているし。
 ただ、ああいうバイトをするとわかるのだけど、天地無用や割れ物のシールが貼られているからといって、必ず慎重に扱われるかというと、それは保証の限りではないと言うことですねえ。忙しいときだと、とにかく短時間でえいやっ!でやってしまうし。社員が仕事に誇りを持ってやっていたとしても、一時的に来ているバイトが適当に仕事をこなしている事が多い、というのは容易に想像がつくし。

 通常のジェット機は、機体の下半分が貨物室のため、そこにベルトコンベアを設置したり、昇降機を使って荷物を上げ下げするのですが、今ではすべて引退した日本が世界に誇ったYS-11というプロペラ機は、客席の前後に貨物室がある。そこへ取りに行くときに、スチュワーデスさんや、機内清掃の方と挨拶したりするのもとても好きだった。
 何より良かったのは、早朝。春休みと言っても、まだ2月だったりしたので、早朝は超寒い!しかも、空港だ。風がめちゃめちゃ強く吹き抜ける。一応「ドカジャン」は着ているのだが、めちゃ寒い。その寒さを忘れるのは、地上から見た試験飛行。
 早朝、点検なのか練習のためなのかわからないが、ジャンボなどを使って、離発着を繰り返している。着陸したと思ったら、スピードを緩めずそのまますぐにまた離陸する。タッチ&ゴーってやつですな。そして、大きな円弧を描いて帰ってきたらまた繰り返す。まだ始発便もなく、人も少ない空港の地上に立って、そういう光景を見るのは、一種神秘的でもあった。あの巨体がなめらかに飛んでいくというのはやっぱり壮観だ。もしかしたら、滑走路の状態を見るためでもあったのかも。

 巨体と言えば、ジャンボにはさらに巨大化構想があった。ジャンボ、正式名ボーイング747は二階席があり、二階席だけでも60席以上ある。二階席をさらに長くした機体もあるのだが、総二階にする計画もあったのだった。そして機体自体も長くして、千人乗りを開発しようとしていた。それをやめたのは、確か日航123便の御巣鷹山墜落事故がきっかけだったと思う。

 機体の巨大化計画は、その後の経済的な効率も含めて見送られているようだが、なんとトンネル型の飛行機の企画もある。空ではなく、地下に飛行機用のトンネルを掘って、その中を飛ばすというのだ。飛行機なのだから、もちろんトンネルの中を宙を浮いて飛ぶ。決して線路の上を走るわけではない。だいたいそれじゃ、ただの地下鉄ぢゃん。
 どれほど巨大なトンネルを掘るのか?と思ったら、飛行機より一回り大きいだけだと。なんとすでに、誤差わずか数ミリで飛ばす技術があるのだそうだ。その割には簡単に落ちるな、と思ったけど、天候などによる気流の変化を受けないのなら、それは可能かもしれない。狭い空間を飛ぶことによる、空気圧などの問題は深刻だろうけど。
 決してキワモノ系の雑誌や本で読んだわけではなく、まじめな記事だったけど、それで世界中に航空トンネル網を張り巡らすという話だったと思う。う~ん、本当に問題なく実現可能なのか?

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