記者会見  (2003.10.18)

 先日、脳梗塞から復帰した西城秀樹の記者会見を、たまたまテレビで見た。話が家族のことに及ぶと、秀樹はこらえきれずに涙ぐみ、言葉が出なかった。その時、例によってフラッシュがバシャバシャ!っと浴びせかけられた。あいかわらず。。。

 本当にああいうケースは、やじ馬のいやらしさ、醜さを感じる。事件の時の記者会見などでも、被害者家族が涙したりしようものなら、同じように容赦ないフラッシュの嵐だ。

 彼らは彼らで仕事でやっていて、普段だったら、そういう事には眉をひそめるのかもしれない。そういうことを容認している社会の問題なのかも知れない。でも、、、とても醜い。

会話はかみ合う?  (2003.7.21)

●日経サイエンス編「養老孟司・学問の格闘」より養老孟司と正高信男の対談

 正高 かみ合うというか、かみ合わないというのは定義がむずかしいですね。会話というのは、後で考えると全然かみ合ってなかったということがよくある。相手がしゃべったら間髪を入れずに「そうですね」とか言ったら、何となくその場では分かった気になるじゃないですか

 養老 コンピューターだって会話らしいやりとりをするようにしておけば、人間は結構だまされる。ことばで通じていると思っているのは、ほとんど誤解ですね。

 正高 親子の会話なんかその典型ですね。考えていることはまるっきり違っている。会話が成り立っているという前提でお互いに話しているだけのことで、逆に言うと、その程度にしゃべられたら、私たちは会話が成立していると思いこんでしまう。
 ちょっと別の話題になるかもしれませんが、子育てだって親はほとんど全部錯覚している。錯覚しているから、子どもはちゃんと錯覚した方向へ成長する。新生児の表情に、いわゆるフィジオロジカル・スマイル(生理的微笑:下記注)と呼ばれるものがあります。一方、もう少し大きくなってからソーシャル・スマイル(社会的微笑:下記注)というのが現れます。
 このフィジオロジカル・スマイルは、実はソーシャル・スマイルとは制御機構が違っていて、胎児の段階から現れている。生まれた後も、眠っているときによく出るんです。笑っているわけでも何でもないのに、大人が見ると笑っているとしか見えない。
 それを何となくかわいいなと思っちゃう。
 じゃあどうしてこういう行動が進化したかというと、赤ん坊は24時間のうち16時間は眠っているから、こうした行動が健康のリズムによって定期的に来るわけです。それに対して「うわぁ、かわいい」と思うと、そっち側に注意がいくから赤ん坊にとっては有利であろうと。


・フィジオロジカル・スマイル(生理的微笑)
外界の刺激とは無関係に新生児に見られる、微笑みのような表情。
退治の段階ですでに行っていると見られる。
 ・ソーシャル・スマイル(社会的微笑)
生後3ヶ月頃に乳児が周囲の他者に向かって発し始める微笑。
人間の顔面様の刺激に対し、無条件で生ずる行動と考えらている。

空を見上げて  (2003.7.24)

 小学校の頃、双眼鏡がとても好きだった。ほかのところにも書いたと思うけど、2階のその上の屋根にあがって遠くを眺めていると、かすかにしか見えなかった建物や風景が、いきなり詳細に目の前に迫ってくる。そのトキメキのような感覚が好きだった。

 双眼鏡でみるのは水平方向だけではなかった。時には真上を見上げた。雲を見ていたのだ。
 子供の頃、空を見上げていた人は多いだろうけど、雲をしげしげと双眼鏡で眺めていた人は、そんなに多くはないかもしれない。雲を双眼鏡、まぁ双眼鏡でなくても望遠鏡でいいのだけど、それで眺めていると、ダイナミックに動く雲に圧倒される。特に雲の端の方を眺めると、生まれては消えていく、とてもダイナミックで雄大な生命を見て取れる。

 もちろん、大人になってからはそんな風に双眼鏡であちこちを眺めるということはない。そういう感動を忘れている、ということもあるけど、状況が許さないですねえ。遠くを眺めれば「ノゾキ」で訴えられるだろうし、真上を見上げてばかりいたら、危ない人にされてしまうかもしれないし^^;;;。
 ニャンとも世知辛い・・・・。

においの記憶  (2003.7.26)

 古い記憶がよみがえるとき、一番リアルに当時の情景を思い出すのは、やはり「におい」のような気がする。視覚的なものに触発されるケースが一番多いような気もするし、聴覚的なものでも思い出すことはある。そしてまれに触覚的なものでも記憶が呼び覚まされることがある。でも「雰囲気」がよみがえってくるのは、断然「におい」のような気がする。

 前にも書いたけど、自分は幼少の頃、インドネシアのジャカルタに住んでいたことがある。そのせいで、当時の「におい」に似たものに対して、とても親しみを覚えるのだ。市場の魚の生臭さや傷みかかったようなにおいは、日本でも今でもたまに遭遇することがあるけど、妙に懐かしさが漂う。
 この季節から夏の終わりにかけては、夕立などで雨がドシャッと降り出したときのホコリを巻き上げるにおい。あれは全く不愉快なものではなく、むしろ小学生頃の夏にタイムスリップしたような感覚を覚える。映像や音で、そのころの情景を思い出したくらいでは、そこまでの感覚はないと思うのだ。

 そういえば、においほどではないけど、味でも体感的な記憶がよみがえる気がする。他の人も同じだと思うけど、視覚や聴覚に関する情報からよりは、もっと心の琴線に触れるような記憶のよみがえり方をする実感がある。そして、当時の感情を反芻するような感覚もあるし。

バッティングセンターにて  (2003.7.28)

 好きで、たまに駒沢オリンピック記念公園近くのバッティングセンターへ行きます。東京、大阪と、数々のバッティングセンターを利用してきた中で、一番打ちやすく設備もよく、良心的で気に入ってます。

 先日は友人と連れだって、久しぶりに行きました。ゲームは一回17球で200円。球数も値段も手頃だと思いますね。店内にある両替機は1万円、5千円でも両替できます。
 あるカップルが両替しようとして、とまどっていた。誰かが取り忘れたおつりが、ドカッと置いたままだったのです。5千円で両替したらしく、小銭は取ったものの、お札の4千円を置きっぱなしにしていた。誰が忘れたんだろう?とそのカップルは、周りの人に聞いてみるが、誰も当事者ではない。管理人のおじさんを呼び出してきて、いったん預け、そのおじさんも周りに聞いたけど、誰も名乗りでない。忘れたまま帰ってしまったのかもしれないと、おじさんは事務所に預かりました。

 しばらくしてツレが、「あの人じゃない?」とバッティングゲージの中で打っている男性を指さした。ツレは両替機の近くに座っていて、たまたま両替機を使った人を覚えていた。
 打ち終わって、汗をしたたらせながら出てきたその男性に「両替のおつり忘れてません?」と聞くと、一瞬キョトンとしていた。ああ、この人じゃないのか?と思ったのだけど、次の瞬間彼の顔色が変わった。「あ、あ、千円札の?!!!!」と、この時初めて思い出したらしい。事務所で預かっていることを教えてあげると、急いで窓口へ。

男 「あ、あの、両替機におつり置き忘れたんですが」
おじさん 「いくらを?」

と、さすがにおじさんは冷静。狂言で忘れたというのは簡単ですからねえ。
 男は、5千円で両替をして、お札の4千円分を置き忘れたことを告げると、おじさんに返してもらっていた。とても恐縮してこちらへお礼を言いにこようとしたが、「いえ、僕じゃなくて、おつりが忘れてあると、みんなで騒いでたんで^^。」と告げると、男はとても安心した顔で会釈をした。

 このバッティングセンターには、平日に来ることが多く、仕事途中や近くの大学生が多い。ちょっと変わった人や変な人も多いのだけど、困る人というのは、そういえば遭遇したことがない。よく考えたら、きわめて健全な利用者が多かった。
 今回も、ネコババしようと思えば誰でもできたし、「私が忘れた」と言えば、簡単に手に入った。でも、みんな一瞬財布を確認したりしたが、誰も名乗りでなかった。そのときにいたのは10人程度だったと思うが、状況的にごまかしにくかったと言うよりは、みんなが正直だったという感じであったろう。まぁ、元々日本人は他人の忘れ物や落とし物に手をつけるという民族ではないけど。

 特にどうこうと言うことでもなく、普通の出来事なのだろうけど、なんかとてもいいな、と余韻の残った出来事だった。良心的な店には、良心的な客が集まるという見本なのかもしれない

お金のための絵  (2003.8.1)

 ドラマというのは、ほとんど見ないのですが、先日ふと思い出したのがある。常盤貴子と豊川悦司の「愛していると言ってくれ」(だったかな?)の中の1シーン。このドラマもまったく見たことはなく、たまたま再放送で夕方やっていたときに5分ほど、なに気に見ただけであった。確かこんなシーンだった。

 豊川悦司は耳の聞こえない画家役。豊川のアトリエで常盤がある絵を感心して観ていた。すると豊川は、
 「それはお金のための絵。だからいい絵じゃない。」
 のようなことを手話で伝えていた。

 それを見た当初は、特にどう思うこともなく流していたが、先日ふとそのシーンを思い出したときに、とても違和感を持った。
 脚本を書いた人は、実際の絵描きに取材して、そういう心理を書いたのか?それとも、おおかたそんなものだろうという事で書いたのか?少なくとも自分は、自分の気の向くままに描いた絵がいい絵で、お金をもらうために描いた絵は、よくない絵だ、とは思っていない。
 お金のため、というのは仕事のためと言うことであり、制約はある。自由に描いたものを買ってもらう場合はそうでもないが、一般にイラストという目的などで描く場合は、制約はある。その絵を用いる目的があるからだが、その制約の中で描いた絵は、自分を殺した絵だ、と言いたかったのだろうか?まぁ、その1シーンしか見ていないので、もっといろいろな事情はあったのかもしれないが。本来なら絶対に描きたくない絵をお金のために描いた、とか。でも、それでも表に出すからには自分なりの良い絵を出すのではないか?

 まったく自由に描こうが、制約の範疇で描こうが、自分の作り出したものである。それに優劣などつけるべきではないと思う。もちろん、そのときどきでの出来不出来はあるが。
 また、いい絵じゃない、と自覚しているものを仕事として納品するのは無責任だし、それが一般の目に触れるのであれば、プライドが許さないはずなのだが。いまいち納得のいかない条件で引き受けたとしても、それは条件の問題であって、描く絵の質に影響するべきものだとは思わないのだ。
 「いい絵じゃない」と言葉を発するのは、自分には制約の中でいいものを作り出す能力がない、と白状していることだし、自分が作り出したものなのだから、言い訳はきかないのだ。

 ひとつ、勘違いの無いように言うと、どのような条件でも同じ労力をかけるということではない。内容や原稿料、規模などで、かける労力というのは当然違う。時間のないものや、安いものだったら、なるべく労力はかけないように仕上げようと言うのは当然である。
 ただ、労力をかけることと、作り出すものの質というのは比例するわけではない。その少ない労力の中で、自分なりのいいものを作り出すかどうかだと思うのだ。

蚊に食われた;;;;  (2003.8.3)

 またまた蚊の元気な季節。昨年の雑記帳にも、蚊との闘いを書いたけど、最近は寝込みを襲われる事は少ないような気もするし、たまに襲われても、耳元に来たときに、カンでわしづかみに捕まえることも多くなった。

 他のBBSでも話題になったけど「蚊にかまれた」「蚊に食われた」などは方言の違いなのだろうか?他にも言い方があるのかな?小さい頃は、庭のバラの刺にひっかかったら「バラにかまれた~;;;」と言ってたなぁ^^;;。

 昔から、蚊に食われてぷっくりドーム状にもりあがると、そこを爪の先で押し当てて十字にしたり田の字にしたりしてた。あまりにかゆいと、網目状にしたりする。小さい頃は、掻いても我慢できないほどのかゆさからと、そのような跡がつくのがおもしろかったからやってたような気がする。
 今もその癖でときどきやっているみたいだけど、そんな事するの自分だけ?;;

都立校の大学合格目標  (2003.8.5)

 今年度から都立高校に「学校経営計画」の作成が義務づけられた。そこで、大学合格者の人数を目標に上げる高校が6割にのぼったという。

 たとえば日比谷高では「東大、東京工大、一橋大、京都大の合格者を計20名以上」、「早慶上智で計100人以上」と掲げている。国立高では「難関国公立大合格者数150人、うち東大合格者20人」などなど。。。。
 もちろん賛否両論があるのだが、「なんでこういう批判はないんだ?」と思ったことがある。

 誰がその高校に入ってくるのかも、ましてや受験者の適正も何もわからないのに、なぜ進学先の目標を立てるという矛盾をおかしいとは思わないのだろうか?学歴神話や、東大神話が崩れてきているのはわかって来ているし、ましてやその神話を公立校があおってどうする!とも思うが、それよりもやはり受験者の人生を他人が決めてかかっていいのか?と言うことである。

 目標達成のためには、「並」の進路が適している者も、強引に一流校へ向けさせるのだろうか?本人とじっくり話し合って煮詰めた末に、最適の進路を見いだせても、それが無名の行き先だったら評価に値しないのだろうか?本来だったら、それこそが最大の評価に値するだろうに。 結局公立校までが、数字で人間をさばいて売る場になりはてるのか?

昨日見た夢  (2003.8.7)

 前にも書きましたが、とてもよく夢を見るしとてもリアル。誰でも一晩に3~4個の夢は見ているけど、それを良く覚えているのは眠りが浅い証拠かも。

 昨日の夢もとてもリアルで、結構おもしろかった。定期テストを受けていたのだけど、それは小学校6年のテストで、なぜかみんな大人。知った顔が何人もいたけど、現在の年齢設定で小学校のテストを受けていた。会ったこともなく、顔も知らないネット仲間もいたようだ。

 科目は国語だったと思う。三菱ユニの鉛筆を使って答案を書いていた。問題は見開き2ページにわたり結構問題は多く、昔のようなガリ版ではなく、ちゃんとした印刷プリント。全部明朝体でしたねえ。^^
 国語の読解は結構難しく、集中して読めなかった気がする。なぜか、途中の問題に数学があったりした。(a+b)の2乗、という展開は単なる暗記の公式なので難なく解答。f  (x)=、の式に直せというのも、ただの等式の問題だったので簡単。しかし、最近の小学校では、以前なら中高でやったことまでやるのかよ?と思いながらだった。

 その辺りの問題はスムーズに解いていたのだけど、時間を見ると残り五分しかない。試験時間は50分と思っていたのだけど、小学校なので35分だったのだ。(根拠はないけど)焦って、簡単に解答が書けそうなところを書いていく、焦っているのだけど、不思議に普通の夢で焦っている感覚とは違い、冷静に焦っていた。
 明け方の夢だったらしく、試験が終わって雑談をしていたか、帰るところで目が覚めた。焦っていたのだけど、なんかとてもおもしろい夢を見た感覚が残った。すぐに文章に残せば、もっと詳しくかけたと思うけど、眠くてかったるかったので、今書いている段階では、結構記憶が飛んでいるし、どう表現していいかわからないところが多い。試験なのに嫌な感覚はなく、むしろ懐かしさを持って受けていた感じがする。他の面々も緊迫した雰囲気もなく、なんとなく余裕を持っていた。

 このような事を書くと夢判断をしたい方もいるでしょうけど、本人との細かいカウンセリングというか、やり取りなしの夢判断は意味がないし、一切信じませんので念のため^^。

怨念?   (2003.8.9)

 霊感が強いという人は山ほどいる。知人・友人にもそういう人はたくさんいる。自分はどちらだかは、わからない。それに、そういう人たちも、本当に霊感があるのかどうかは知らない。

 ずっと前、沖縄・那覇で、何人かで街を散策していた。その中に、比較的霊感が強い、と自称する女性がいた。裏通りのアンティークショップへ入ろうとしたときに、彼女はとてもいやがって、入らなかった。「古いモノは怨念を感じてしまってダメ」だというのだ。笑い飛ばしたくなった。自分は、霊感の強い人が気味悪がって近づかないような所でも、全然平気なほどに鈍感なので、入り口を出たり入ったりとからかっていた。
 笑い飛ばしたくなった、というより、一種の非難をしたくなったのだけど、どう考えてもそれは霊感とは関係がないと思ったからだった。霊感を信じていないとか、バカバカしいという理由ではない。
 明らかに彼女は、「ワタシは霊感が強くて、いろいろな不思議なモノを感じ取ってしまう人間なのだ」、と思いたいだけであり、何か事がうまくいかないときは、そういうモノのせいにしている人間だったようであるからなのだ。
 そもそも、骨董品などの古い品物に怨念がこもっている、と決めつけているのは納得が出来ない。確かに、そのような年代を重ねた古いモノは、一種のおどろおどろしさを感じさせるモノは多い。でも、歳月を経て、今に残っているモノは、その大半が愛されて大事にされてきた品物であり、怨念どころか愛情が込められたモノの方が多いはずだと思うのだ。
 その彼女は、アンティークショップへ入り、ある特定の品物に対して怨念を感じてしまった、というのではない。そういう古い品物すべてが怨念を感じる対象だったのだ。だから、笑い飛ばしたかったのだ。

 自分は霊感が強いのかどうかわからない、というのは、はっきり断定できるような霊的体験が無いからなのだ。正夢を見た、とか、何かが見えた、とか、そういう類のことは全くないことはないのだけど、偶然だったり、錯覚の可能性の方が強い、とかが多く、安易に断定は出来ない。恐ろしくカンが冴えわたる、ということがたまにあるくらいかな。他の所にも書いたのだけど、自分がそういう体験が無いから否定をするということはしないし出来ない。肯定も否定も出来ない。
 ただ、そんなことあるごとに、怨念を感じ取ったり、妙な場を感じ取ってしまう能力があったら、日常生活に非常に支障をきたすだろうから、その点は鈍感で良かったと思っている。^^

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