偏頭痛のハナシ  (2002.7.18)

 母親の体質を受け継いだのか偏頭痛もちです。最近はそれでもそれほど悩まされることはないのだけど、常用していた「ノーシン」を週に7、8袋(粉末)も飲んだこともあった。一日に3袋飲んだことも。
 大概は首の付け根がこってきて、それが登ってくる感じや、目が疲れる眼性疲労によるものが多い。でも、ひどいときには脳を刃物で刺されたような激痛が走ることが今までに数度あった。それって普通、脳腫瘍とか脳梗塞とかのやばいもんでは???

 中学二年の夏に初めて貧血を起こし、それ以来偏頭痛が起こるようになった。そのころは一番成長が激しかったころで、ひざの関節もきしんで激痛で歩けないこともしばしば。1ヶ月でジーンズがはけなくなったり(太ったわけではなく)、日に日に身長が伸びていく感じだった。
 ひどい頭痛が起きたのは今までに二度。最初は、薬師丸ひろ子の「Wの悲劇」がベストテンに入っていたころ。やけに具体的やんけ?と思われるでしょうが、理由がある。
 テレビで「ザ・ベストテン」を見ていたとき、その激痛頭痛が起きたのだ。頭痛なんてものではない。刃物で脳みそを刺されたような激痛で、のたうちまわった。と言いたいところだけど、のたうちまわれない。ちょっとでも頭を動かすと脳がゆれて、脳を覆っている頭蓋骨にあたって激痛が走るのだ。医学的にはそれはおかしいのかもしれない。脳自身には痛覚はないらしいから。でも、何と言われようと、そのように痛かったのだ。
 だから、痛くてのたうちまわりたくても、必死で体を固めて固定していなければならんかった。そうやってのけぞっている目の先で、ブラウン管の中の薬師丸ひろ子が「Wの悲劇」を歌いだした。聞きほれてしまったのです。もともととても魅力的な声の持ち主だけど、その曲もとても綺麗で。
 で、そうして聞いているうちに、いつのまにか痛みは治まっていた。

 二度目はそれから数年後、入浴中のことだった。「きたきた、、」と言う感じで、痛みがひどくなり、前回よりもひどい痛みだった。「もう、、殺してクレー」と言う感じだった。その痛みが頂点に達し、我慢の限界にきたとき、”フーっ”と波が引くごとくに痛みが消えていった。痛みの痕跡をぼんやりと頭に残して痛みは薄らいだ。この二つの状況は、極度の激痛で脳内モルヒネが大量に分泌されたという感じか。
 それ以来、そのようなひどい痛みは経験していないが、首をちがえやすくなで肩なのも関係あるのか、よく頭痛薬のお世話にはなる。

 コンピューターの仕事で大阪にいたころ、あんまり頭痛が頻繁なので、病院で調べてもらったことがある。頭に電極当てて脳波を調べたりしました。
 「脳波には問題はありませんね。脳波に異常が出たらちょっとやばいし」と先生。問診の結果。通常の偏頭痛で、頭に近い筋肉の緊張や目の疲れによるもので「緊張性頭痛」とか言うものらしい。痛くなったら市販の頭痛薬を飲めばいい、ということでした。というか、それしかないと。
 その日は、大学病院で検査をしてから出社した。会社に入るなり事務の女の子からは「どやった?やっぱりアホやて?」だの、同僚からは「メモリー不足やろ?」「バグちゃうか?」だの、ありがたいいたわりの言葉をいただいたのでした。

血液型が変わった!?  (2002.7.18)

 プロフィールにも書いたのだけど、血液型が変わった。AからOに変わった。22の時のことだった。
 大学を卒業してなんとなく就職したコンピューター関係の会社で、新入社員向けの健康診断があった。(ほんとに何の考えもなく、なんとなく入社したんです)
 4、5月の研修期間中の健康診断でそれは発覚した。注射器一本分の血液を採取して、沈殿とかいろいろな検査をしたようです。このときにたった注射器一本の血液採取で貧血を起こしたのだった。血圧はちょっと低いほうとはいえ、よっぽどタイミングでも悪かったと見える。

 その日だったか後日だったかに血液検査の結果が出て、血液型が「O型」と書いてある。
 「??、母子手帳にはA型と書いてあったぞ?」と、すぐに結果表を渡してくれたおばさんに告げた。
 「まあ、いいですけど」と帰ろうとすると、「ちょ、ちょっと、よくはないわよ。もう一回調べましょう。」と、言うわけで再検査したが、その場でやっぱりO型であると出た。

 我が家は父・母・姉と全員A型。まあ、Oでもおかしかないんですが。その後、母子手帳と実際の血液型が違っているケースは時たま見られると聞いた。大学までは血液型性格占いで言うと、完璧なAでした。入社後もAだと見られていた。そして、実はO型だったという結果を持って皆に言うと「そういえば、O型みたいな・・」と。なんじゃそりゃ?
 めでたく関西支店配属となり、関西支店のおもちゃと呼ばれていた小生は、「AからOに変わったアホや」というありがたい肩書きをまたいただいたのでした。なにしろ、面白そうなネタは自分から吹聴して喜んでおりましたからねえ。

しかしこれには後日談が有り、何度も母子手帳に書かれた「A型」というのを見たことがあるのに、ある時に見たらどこにもそんな記述は無かった。それ以来血液型が書かれた箇所が見つからない。今一度見てみたら、中に数カ所梅ヶ丘保健所のスタンプが有りその中に「梅保・A」というのがある。それを子どもの頃に血液型と思い込んでたのかも。

夢か現実か  (2002.7.18)

 そういえば、ここ数ヶ月はそうでもないけど、非常によく夢を見る。一晩に3つ4つは当たり前。
 と言っても、誰でもそれくらいは見ているもので、覚えているかどうかなのである。そんなにたくさん覚えているのは、眠りが浅いからだろうと言う自覚はある。しかも、自分の場合は非常にリアル。
 面白いことに、大体の場合は「声」は聞こえないし、匂いがするわけでもない。特に触感があるわけでもないけど、映像的にはこの現実と変わらないくらいにリアル。
 声が聞こえないというのは、リアルな現実でのように、音声として聞こえているのとは違う、ということであって、夢の中ではその世界での声による音声コミュニケーションはとれている。
 でも時には、相手の声がはっきりと聞こえるし、触感もある。においを感じたという記憶はない。手紙やノートの文字がはっきりと筆跡まで見えるときもある。

 今までに見たもっともリアルなもので覚えているのは、地元の夢。地元の下北沢にはバスが通っている「茶沢通り」があります。夢ではなく起きている時に歩いていったのですが、その道を曲がって小道を入ったところに銀行のCD機のボックスがあったのを記憶していた。そこへお金を下ろしに行ったのです。
 ところが、「このあたり」というところへ行っても、そんなものはない。あるような気配もない。そんなところに設置もしないだろう。 そう、夢で見た記憶に従ってそこへ行こうとしていた。映像自体がもっとリアルであるとか、そういうのははいて捨てるほどあるが、その夢はあまりに日常の現実感にあふれていたのだ。その他でも、日常の場面があまりにリアルに出てくるので、あとになって現実のことだったのか、夢だったのか記憶があいまいになることもある。

 小学校のころはよく悪夢を見た。怖い夢ではなく気分が悪くなったり実際に体調を壊す夢。というよりは、そういう状態になりつつあるから見たのだろうけど。
 巨木が目の前に立ちはだかり、非常な圧迫感を覚える夢とか、大海か広大な砂漠の中に上空から落っことした一粒の何かを必ず見つけ出さなければいけない夢とか。あるときからは一切そのような夢も見なくなり、今では基本的にいやな夢を見ることはまずない。
 まあ、あせる夢は今でも見る。約束の時間にもうわずかなのに、なぜか大阪にいて、約束まで10数分で絶対に遅れることは許されないとか。パジャマや下着のまま表に出てしまっていて、帰れない状態のところで気づいたとか。

 夢判断というのも巷にあふれているが、あれは基本的に信じていはいない。
 たとえば「魚は○○の象徴である」と言われても、一般人が見る魚の夢と、漁師や魚屋さんが見る夢を同列で論じられるだろうか?「統計的に魚は○○の象徴となる傾向がある」というのなら納得できる。統計学は馬鹿にはできない。
 ただし、あくまでそういう傾向を示す人が多い、というだけで、個人にそのまま当てはめて良いわけはないと思うのだ。判断は最終的には本人にしかできないはずで、夢判断をする人は、夢を見た本人の話を詳しく聞き、その人のバックボーンや性格などを総合的に見て、「あなたにとって魚は○○の象徴であるようです」と判断の手引きをするのが正しいのではないかと。
 この辺の話は、素人の考えを述べたのですが、その方面の専門家のご指摘があれば教えてくださいませ。

満天の星  (2002.7.18)

 初めて北海道へ行ったのは1985年の9月。目的は星を見るためでした。
 当時少年マガジン誌上で「あいつとララバイ」というバイク漫画が連載されていました。その中に多分北海道でのツーリングの場面であろう、360度を満天の星に囲まれて走る夜のシーンがあった。

 それを見て「よし、満天の星を見に行こう」と三泊四日の予定で遅ればせの夏休みか、ただの有給かの休みを取ったのだった。たった三泊で希望通りの場面が見られると思い込んでいるのもおめでたいが、どこをどういう風に行くかというのも行き当たりばったりだったのだ。
 ルートは空路釧路に渡って、そこでレンタカーを借り、なんとなく知床まで行き、再び帰ってくるものだった。途中のルートはまったくの行き当たりばったり。夕方近くになったら近くの民宿を探すというもの。

 最後の夜、釧路の海岸近くで車中野宿することにした。それまで望む星は見えなかったし、だいたい夜は宿に入って寝てしまったし。

 11時ころではなかっただろうか。見上げると、そこには満天の星があった。満天なんてものではなかった。星と星の隙間も見えないほどのものすごい星空だった。プラネタリウムよりもすごかった。思わず手を空に差し伸べた。「ザクッ」という感じで星をかき集められそうな錯覚に陥ったのだ。

 これまで何度か満天の星を見たが、これ以上のものはいまだにお目にかかっていない。第二位は、那覇から石垣に向かう船の中。夕方に那覇を出て、真夜中に前の宿から一緒だった数人とデッキへ出たときの星空。第三位はモンゴル。草原の中でのキャンプ中に見たものだ。

 でも、やっぱり釧路で見たものは群を抜いている。あまりに見事だし、冷静になって考えると星が見えすぎなので、記憶が脚色されている可能性も高いが・・・。

夢の子供  (2002.7.20)

10年ほど前に印象的な夢を見ました。
その夢には子供が登場しました。
その夢を見た当時、詩の形に残したものです。

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その子供は宙に浮いていました

紫色のもやが辺り一帯にたちこめていました
子供の顔はもやがかかっていて見えません
男の子か女の子か判然としません
四歳か五歳、あるいは六歳だったかもしれません
何故そんな事がわかるのかわかりませんが、わかるのです
僕には子供はいません
でも、その子供は自分の子供でした
自分の命とその子供の命のつながりを感じたからです
その子供にもしもの事があるとき、自分の命を代わりに
ささげる事に何の躊躇もない感じでした
かわいいとか、そういうレベルの感情ではありません
子供を持つ親の気持ちというものはこういうものなのでしょうか

その子供はいつまでも紫色のもやの中をただよっていました

何年か前にこんな夢を見ました
しばらく子を持つ親の感情について考えました
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メダカと「シーモンキー」  (2002.7.22)

 TBS系列の「はなまるマーケット」で「メダカ」をやっていた。あれはなんとグッピーの仲間だそうだ。数年前に日本の野生のメダカの絶滅の危機が叫ばれていたが、 最近はどうしたのだろうと思っていた。
 近くの「北沢川緑道」には人工小川が流れていて、そこにもメダカがいる。もちろん放流されたもので、 綺麗なオレンジ色なので間違いなく養殖ものですね。この小川は浄化水を循環させているので、 大雨で水流が増えすぎると止まると言う(笑)。

 さて、メダカと言えば、 小学校四年ころに初めて飼った。近所の下北沢南口商店街のペットショップで 三匹20円也で買ったものだった。今は一匹50円くらいだそうだ。希少価値の割には安い気がするが、養殖は簡単なのでしょうね。
 三匹で買ってきて、それまで金魚も飼っていたので、 あまっていた水槽(プラスティック)で飼い始めた。餌は当時コマーシャルで売り出していた「ビタシュリンプ」。それを指ですり潰してまいてやると、 チョンチョンつついて食べてかわいいものなんです。

 次の春だったか季節は大して関係ないんだったか、 まったく忘れてしまったのだが、卵を生み出した。そのままにしていると、水槽に産み付けた卵をくわえたりなんかしているではないか。こいつ、食っちゃうのか?ということで、 小さい水槽を用意して、卵の産み付けられた水草を移したのだった。
 これまた孵化期間は忘れたが、 毎日見ていると卵の中では眼ができて、胴体ができて、 中でくるくると動き出す。

 ある朝、小さな水槽の水面で大きな袋を抱えた幼魚がちまちまと動いているではないか!最初は10匹程度だったのが、次々に孵化する。何しろ天敵は皆無なのだから、みんな元気に育ちます。
 ある程度大きくなったら親のいた水槽に全員引越しです。それを繰り返し、次の年には100匹近くにはなっていたでしょう。メダカの繁殖力と飼い方の容易さには驚いた。

 それも徐々に数が減り、数年後には最後の一匹に。一匹で最期を迎えるのも忍びないので、 インスタントコーヒーの瓶を洗って、その中に水とともに入れ、小田急線の登戸にいって多摩川に放流したのだった。メダカは振り返りもせずに泳いでいった。

 メダカを飼っていたころ、おもちゃ屋で「シーモンキー」と言う生き物が流行っていた。えびの仲間の幼魚かプランクトンの親分かなんかだと思うのだが、 直訳すると「海のサル」。もちろん商品名。
 ビンの表の絵が頭が王冠型をした、人間に似た格好の生き物。「オー、こんなものが生まれてくるのか?」と馬鹿なことを思った。
 まず水にあるものを溶かすと薄い緑色の液体ができる。これが海水と同じにするものだったのだと思う。そして、シーモンキーの卵を水に入れて思い切りかき回す。水が澄んでくると、チカチカと震えながら泳いでいるものがいる。体調1ミリくらいのものが大量に泳いでいるのだ!これは感激した。手品を見ているようだった。

 

 このシーモンキーは一年もしないうちに1~2センチになる。体の両側の体毛のようなものを前からうしろに揺らして泳ぐ。結局何の生物だったのかわからなかったが、 10年ほど前にも上野のおもちゃ屋さんの店頭で売られていた。さすがにまた買おうとは思わなかったが。
 誰か同じくシーモンキーを飼った事のある人いたら お知らせくださいませ。

発車しま~す  (2002.7.24)

 京王井の頭線、吉祥寺行きがターミナルの渋谷駅から発車しようとしていた。
「一番線から吉祥寺行き、まもなく発車しまーす。ご利用の方お急ぎください。」
とホームのアナウンス。
 走ってなんとか乗り込むと、走り出してからの車内アナウンス、
「駆け込み乗車は大変危険ですので、おやめください。」
なめとんか!?

(これは十年以上も前の話。今は乗る前に「無理はおやめくださ~い」と言います。)

子供は半熟か?  (2002.7.25)

 灰谷健次郎氏の小説に「太陽の子」というのがあります。そこに登場する子供は小学生でありながら、 深い思慮を持ち、大人顔負けの精神活動を見せる。そのことに異を唱えた評論家が多かったと言う。

“子供がそんなにものを深く考えているはずがない。”
“あまりに心遣いがありすぎて子供らしくない”などなど。

 はっきり言ってそういう事を言う大人は、自分の子供の頃をすっかり忘れているか、その人自身が何も考えない人間だったかだろう。子供は本当にそんなにものを深く考えていないだろうか?
 自分の子供の頃を振り返ってもそんなことはない。子供は子供でものを深く見て考えている。
 ただ、人間がものを考えると言うのは、通常母国語で考えるのであり、まだそのボキャブラリーも貧困な頃の子供は、 その深い精神性を伝えるすべもなく、表現が浅くなってしまうというのはある。

 自分の場合、奇妙なことを考えていたことがある。小学校3~4年生ころだったと思う。”今自分が見ている世界(目の前の世の中)は本当に真実なのか?”と。
 断っておくが、今から書くような言葉で考えていたわけではない。今書くと「おいおい、ずいぶん哲学的な子供だったんだなあ」と、言われるだろうが、そのときのボキャブラリーの範囲で考えていたのだ。

 例えば、今目の前にAさんがいるとする。Aさんとはにこやかに会話をしていたとする。それが自分から見た世界だ。ところが、それは本当に本当のことなのか?Aさんから見た世界では、自分と口論しているとしたら?そして第三者が近くにいた場合、その人から見た二人は口もきかずに黙って向かい合っているということはないのか?本当に自分が見ている、感じている世界を真実と思っていいのだろうか?と、考えたことがある。
 もし、前述のように三者三様の世界を見ていたとすると、 誰が(何者が)真実であると決めるのだろうか?と。こう思ったらちょっと奇妙な感覚にとらわれました。

 よく子供がテレビやゲームなんかに熱中していると、後ろで話している大人が「どうせ、熱中してて(こっちのことは)わからないわよ」なんて言ったりしますよね。本当に気づいていないでしょうか?自分も同じようなケースで、何をしていたか忘れましたが、うしろで大人がそう言っているので、仕方なく気づかないフリをしてました。

 確かに子供は大人社会で生きるすべを習得はしていません。でもそういう「すべ」というのは、たいていは世渡りテクニックでしょう。大人が都合よく生きていくためのルールを身につけていない子供は、半人前とみなしていないでしょうか。

 いまから8年前、行きつけの雑貨屋の女性オーナーに「良一君は子供好きなんでしょう?」と聞かれた。そのとき、奇妙な疑問を感じた。それ以前なら、「うん、まあ」とか「そうでもないかな」と、世間一般並の返答をしていました。でもそのときは簡単に答えられなかった。子供好きかそうでないかなんて、なんでそんな簡単に決められるの?と。好きな子供もいれば、嫌いな子供もいる。子供はみんな天使だなんて思ってないし、いやな子供だってたくさんいる。要するに大人とおんなじなわけで、なんで子供だけ「子供好き」とくくれるのか?「大人好き」なんて言葉は存在しないのに。
 これは、要するに「こども」と“ひとくくり”にしておいたほうが都合がいいんですね。「こども」は未完成な人間だから、完成した「おとな」とは別に“ひとくくり”にしたほうが何かと都合がいい。ある種、サラリーマン族が「主婦」と“ひとくくり”にしてしまうのと根底は同じかもしれない。自分自身、サラリーマン時代は「主婦」というくくり方をしていた。その後、絵を主婦相手に教えることが多くなり、簡単に「主婦」なんてくくれない。「主婦」という言い方自体抵抗を感じるようにもなった。そして、今度は「背広族」とひとくくりに見るようになった。自分もスーツ着てたんだけど。(万年会社訪問といわれてました。)

 話がまとまりそうもないなあ。。そもそも、こうやって「こども」という分け方をして話を展開しているのも。。

冷房公害  (2002.8.2)

 今朝の新聞朝刊の投書欄にも出ていたが、自分も以前から不満に思っていたことがある。あの「きちがいじみた冷房」だ。
 夏は冬以上に着るものに気を使う。暑いのだから、シャツ一枚で十分なのだが、どこへ行っても異常な冷房の利かせ方をしている。店に入ったり電車に乗っていて、だんだん寒くなってくる、というのではない。入った瞬間に寒いのだ。だから、時間がたてばたつほどにつらくなる。ときどき、「クーラーがお嫌いなんですね」と言われるが、 冗談じゃぁない。度が過ぎてるのだ。
 自分の部屋だって、あまりに暑ければクーラーくらいかける。最初の数分、急激に冷やしたいために強くしたりもする。でも、そのあとはどんなに下げたって28度だ。別に健康に気を使っているわけじゃない。それ以上下げると、寒くなってくるからだ。

 もちろん以前からこのことは感じていたが、ここ数年はさらにひどい気がする。さらに温度を低くしているわけではないのだろうが、 おそらく天井から吹き付けるタイプが普及したからではないか。電車など、ある程度混んでいると逃げ場が無く上半身を冷凍にされる。それで体調を崩すこともあり、医者も「あの風が吹き付けるやつが一番いけない」と言っていた。
 またそんな中へスーツ族が汗を拭き拭き、 つらそうに顔をあおぎながら“上着を脱がない”姿をみると「お前はアホか?」と言いたくなってしまう。
 一生懸命働いて、アホな日本の建前社会の中で、 仕方なく夏でも上着を着なければならないのは気の毒だが、 別にお得意さんの前ではないのだから、暑かったら上着くらい脱いだらどうなんでしょうかねえ。
 店側も、お客さんへのサービスのつもりで猛烈に利かせているのかはわからないが、 自分のように憤慨していて、そういう場所はつらくて敬遠してしまう、 という人も多いのは知っておいた方がいい。
 小田急線は私鉄の中でも、弱冷房車の設置が遅れていた部類だと思うが、 時々弱冷房車が無いこともあった。東急東横線は自分が知る中では極度に冷房がキツく、 以前渋谷から急行で一駅の中目黒であまりにつらくて降りてしまった。あまり着る物にはこだわらない方なのだが、 ここ数年は、夏に羽織れるシャツを探すのが一苦労だ。なんとかしてくれ!!

大島島民の大脱出作戦  (2002.8.3)

 NHKの「プロジェクトX」が好きでよく見ている。あの番組もネタが尽きてきたのか、最近は再放送やリメイクが多いな。先日映画化されたVHSの開発物語など、あの番組からの発展も多い。
 自分が一番好きなのは、「大島1万3千人の大脱出」だ(タイトル違うかも)。伊豆大島・三原山の噴火で全島1万3千人が一人残らず脱出した時の話。まあ、あくまで一般住人全員と言うことであって、一部、東京電力の職員や自衛隊員などは残ったが。あれは、わずか一晩で全島住民が脱出している。しかもパニックもなしに。

 当時、東京で仕事のために駐在していたヨーロッパの商社マンが、そのことにひどく驚いたと言う。欧米だったらパニック、強奪、我先の脱出の争いで大変だったろうと。それが大島の場合急な脱出にもかかわらずパニックどころか「自分さえ」という人間が皆無だった。
 その商社マンが、夜のニュースで脱出する話を聞いて床に入り、 翌朝ニュースを見ると「一人残らず整然と」脱出した、と報道されたのでかなり驚いて舌を巻いたのだそうだ。わずか一晩で1万3千人もの住人が脱出すると言うだけでも驚きなのに。

 「プロジェクトX」をみると、そのときのことがよくわかる。大島では、男子は成人すると各ブロックの消防隊員になるのが決まりだそうだ。だから、どの地区にはどのお年寄りがいて、あそこにはあれだけでは人手が足りない、とかそういうことがすべてわかっている。
 脱出のために住人を命がけで運んだバスの運転手さんも、島ではどこかで必ず顔を合わせたりしている人が多い。そんな人を残して自分だけ逃げるなんてできない、という。
 夜の脱出のため、万が一電気が止まるとパニックになる。そのために数人の東京電力職員が残らなければならなかったが、 自分の仕事への誇りと、皆が無事に脱出するために文字通り死を覚悟で電気を守っている。
 すべての持ち場の人間が真のプロフェッショナル魂で、 家族同然の住民たちが無事に脱出できるように命をかけていた。

 司会のクボジュンも涙にくれてましたねえ。「プロジェクトX」はビデオにもなっているが、こういういい話は抜けている。大体が経済の成功物語に関係するものばかりだ。今の日本やねえ。
 最初に大島の話を見たときに、とても感動した。NHKに勤める友人にビデオになっていないのか、特別に分けてもらえないのかと、聞いたがダメだった。
 今年、再放送があったためにようやく録画できた。もっと、こういう話もちゃんとビデオ化しなよNHKさんよ。

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