健常者と障害者  (2002.7.20)

 「障害者」という用語もどうかとは思いますが、一応普通に認知されている言葉を使います。(注:この文章は2002年に書かれている)
以前勤めていた印刷製版の会社に聾唖(ろうあ)の男性Tさんがいました。当時40過ぎの方でしたが、生まれつき耳が聞こえなかったそうです。学校は聾唖学校を出たとか。
 さて、その時の会社では自分の仕事場であるレタッチ(製版技術のこと)は二階と三階にありました。たまにその両フロア-でメンバーの入れ替えをやっていたらしく(ただの気分転換?)、僕が中途入社してから一年以内に入れ替えがありました。
 社内にはTさんのために会社側が選んで手話を覚えてもらった人がいました。ところが何を思ったのか、その入れ替えの時には別フロア-に分けました。はっきり言いますが、何か考えがあってそうしたわけではないと言い切れます。あっ、誤解のないように言っておきますが、とても人間関係のいい会社でした。
 そこで、僕は手話を覚えることにしました。「同情」の気持ちからです。

 手話は思っていたよりは案外簡単に覚えられるものです。そりゃ自由自在に普通にしゃべる速さで、となるのは熟練が要りますが。
 本を買ってきて、2、3日でTさんとは「かたこと」の手話で会話も出来ました。手話と言うのは、ある程度共通化、国際化もされてますが、もちろん英語と日本語ではだいぶ違う。面白いのは、その上に日本国内でも「方言」がある。方言という言い方は適切ではないかもしれませんが。
 聾唖の人たちやボランティアなどでサークルがあります。サークルによってある分野に特化した手話を作って使ったり、ひとつの表現にいくつもの手話があるのですが、サークルや地域によってその使われ方に特徴なんかがあります。

 昼休みなんかに手話の練習もかねて、Tさんとよく手話会話をしました。ある程度ノッてくると、普通に口で話しているのと変わらなくなります。わからない表現はボディランゲージでも良いし、手話に不慣れな人は、手話を使いながら唇もしゃべっているのと同じように動かして欲しいと言うことでした。それによって(読唇で)ある程度推測がつくと。Tさんのことを良く知るようになると、それ以前は聞いて良いのかどうか?と思うようなことも平気で聞きます。
「耳が聞こえないのはわかるけど、どうしてしゃべる方もだめなの?」とか。
彼は、小さい頃に思い切り舌を噛んでしまう事故を起こし、それで発音をするための舌の機能がだめになったというとでした。
 しかし耳が聞こえない分、他の感覚が鋭い。仕事場には大きなスピーカーがあって音楽を流していたのだが、その音がピアノなのかドラムなのか、という楽器の違いも肌で感じる振動でわかるようだった。
 そうやっていろいろわかってくると、何が障害で何がそうではなくて、どちらが障害者でどちらがそうではなくてという境があいまいになる。
 こちらは耳が聞こえても、彼のように鋭敏な肌とかの感覚は持っていない。目が不自由とか、他の器官が不自由な人についてもある程度同じ事が言える。
 長く目が不自由でその生活に慣れている人が、幸運にも視力を取り戻した時、しばらくは階段などの危険なところでは、目をつぶって行動したりするそうだ。目に頼るという慣れない事をするよりも安全なのだと。ある少女は視力を取り戻した後、母親に「危ない場所では目を閉じなさい」と言われていた。

 Tさんとの交流になれた頃、ふと「同情」の意味を悟った。先ほど、「同情」から手話を覚えようとしたと書いたが、この場合の「同情」は「かわいそうに思う」という意味だった。でも、字面を見ると、決してそうではない。同じ情け、つまり同じ立場に立つ、という字である。
 案の定、辞書を引くと、相手と同じ心情になる、とか同じ立場を理解する、のように書いてある。自分ではそれまで「相手をかわいそうに思うこと」という意味だと思っていたのだ。まあ、たまにそのような意味を書いてある辞書も無いではない。
 かわいそうに思う、というのは、ある意味で相手を見下している要素も含んでいる。こちらはそんなこと無いのに、先方は○○だから、かわいそうだ。 と、言うように。

 Tさんとかかわり始めた時は、確かにそういう要素はあったのだ。ボランティアと言うのはあまり好きではないが、不自由している分、Tさんを助けてあげようと言う、一見好意だが、こちらが優位な立場にいる、という精神的な土台があったのは否定できない。
 でも、かかわっているうちに、そういうものは吹っ飛び、というかTさんを障害者とは見れなくなっていた。あくまで耳が不自由なだけであって、「障害者」という枠組みではないのだ。
 だから、それ以前だったらためらったであろう言葉や質問も平気で発することが出来た。 前にラジオで永六輔氏が、電車で隣に座った片腕の無い初老の人に、「腕、どうしちゃったんですか?」と聞いたという話をしていた。氏は素直な疑問だから聞いたのだが、自然にそういうことを聞けるようになるのに、長い時間(人生)がかかった、と言っていた。
 その時は頭でその事が”わかった”。Tさんとの交流で今度は感情の部分で”納得”が出来た。

 それから5年後、今度は目の不自由な友人が出来た。僅かには見えるのである。(弱視というんですか?)この時は最初から自然に接することが出来た。不自由な人にやさしく、とか、そういう人の扱いに慣れた、とかいうのではない。当たり前の日常の常識(心遣い)で充分なのだ。
 時には、「○○ちゃん、都合のいいときだけ障害者のフリするんだもん。」なんてことも言ったりした。
 同じ頃知り合った片足を引きずっている女の子がいた。幼少の頃のポリオのためだと言う。一緒に歩いていると、時々道行く人はその足を見る。
 「やっぱり、ああいう風に見られるのって気になる?」と半ば好奇心まじりの質問をした。
 「うん、でもあたしだって、そういう人がいたら見るもん、しょうがないね。」と言っていた。
 「見えてるのに気づかないフリしているのがわかるよりもいい」とも。

 「同情」の本当の意味は決してかわいそうに思う、という意味ではないが、最初の動機はそれで良いと思っている。そのような人がいる、ということを知るのが大事なのである。それからかかわってお互いに学べばよいのだ。だからどういうつもりであれ、きっかけがもてればいいのだ。と思う。

 

大阪について  (2002.7.20)

 最近めっきり当たり前になった信号待ちの残り時間表示。あれ、発祥の地は大阪の中心地梅田の横断歩道だそうです。大阪は、歩く人のテンポが日本一早く、ネオンサインの点滅も一番速いとか。
 で、信号待ちの残り時間表示ですが、結局あと何秒かが分かるので余計に渡る人の見切り発車が多くなったらしい。
 とにかくせわしない印象はありますね。でも、筆者は以前やっていた仕事の関係もあって3年ほど大阪に住んでいましたが、とても暮らしやすい地でした。
 何よりも人間関係がとてもやりやすかった。東京生まれ東京育ちなのだけど、東京の人間は本心が分かりにくい。その点、大阪は分かりやすい。怒っているのか、喜んでいるのか、面と向かっていれば東京に住む者よりも分かりやすい。(京都はまた違うのだろう)
 東京では、表面では微笑んでいるけど、本当はどうなんだろう、というのが非常に分かりにくい。 しゃべっている言葉はいったん建前の表現に置き換えてあり、それを受け取る側は状況から本意を読み取って翻訳せねばならない、という感じを強く受けた。
 また、自分の気持ちを自分の言葉で話すのに、大阪弁はとても扱いやすい。標準語に比べ、感情をストレートに表現しやすい。擬音がとても多いというのもその一因だろう。

 その時勤めていた会社は、毎年本社から新人が一人ずつ送られてきたのだが、自分の翌年も東京出身者だった。すっかり関西弁になじんでいた自分は、東京言葉を聞いて、「なんや、コイツ」とマジで思ったものだった。

 大阪の都市で暮らすと梅田や難波の中心地の地下街がとても発達していると感じる。東京にも地下街はあるが、構造も単純で地下通路の中に店舗が並んでいるだけという印象だ。その点大阪の地下街は、アップダウンが豊富で地下街の中にいろいろな街がある。半面、地上には緑が少ない。意外に思われるかもしれないが東京には緑が多い。皇居を始めとする大きな公園が多く、単純に緑地面積ということで言えば、東京には緑が多いのだ。ただ、そのほとんどは作られた人工緑地である。あの明治神宮公園でさえ、人工的に作られた森なのだ。

 

猫の集会  (2002.7.20)

 ご存じだろうか。都会の猫は夜、集会を開くのだ。集会といっても円卓を囲んだり、猫社会の構造改革を議論しているわけでも縄張りを荒らしたやつの証人喚問を要求しているわけでもない(と思う)。地域の猫たちが、夜な夜な路地裏や空き地・公園に集まってきては顔合わせをしているのだ。
 そう、顔合わせが目的らしいのだ。まあ、集会は夜だけではなく、日中にも開かれていたりもする。猫は元来単独行動型である。
 でも、都会では猫も人口密度が高く縄張りが接近したり重なってしまう。普段は、おしっこなどの匂いつけや爪研ぎ後を残して存在をアピールし、無用な接触を避けている。だがそれだけで、お互いに顔を知らないというのも不都合があるのだろう。うっかり出会ってしまったときに、見慣れないやつが侵入してきたと勘違いして争うことのないように、集会という場でお互いの顔を確認しているようなのだ。猫は人間と同じように相手の顔を見て個体の違いを識別できる。

 自分も一度、近くの比較的大きな公園で、30匹程の猫がつかず離れずにお互いの顔が見える程度の10メートルくらいの輪になっているのを目撃したことがある。2~3匹のチームや一匹狼(猫でもそう言うんだろうか?)もいた。

 この様な集会は、密集地に住むという特殊状況下でスムースに生きていくために生まれた、都会の猫社会特有のシステムだと言われている。はっきりいっていまだに謎ではあるが。

 猫はいくつかの広さの緩やかな生活領域をもっている。基本は、自分の普段のねぐら(飼い猫ならば家)を中心とする絶対的なテリトリーで、通常他の猫の侵入は許されない。そしてその外側に直径100メートルほどの共通の行動圏(ハンティングエリア)がある。ハンティングエリアは地域の猫の共有地であり、集会はこの共通の行動圏内で開催される。このハンティングエリアに集会では見掛けない猫が入り込んでいると争いになる。さらにハンティングエリアの外側に、おもに繁殖期にオス・メスがおとずれるイレギュラーなエリアがある。
 猫社会において、ハンティングエリア内では年齢に関係なく集会での最古参が最上位の猫だ。使用人、、いや、飼い主の引っ越しで連れてこられた新入猫はそこでは一番の下っぱになる。したがってある地域で幹部クラスの猫であっても、よんどころない事情で新しい地域に参加した場合は、また下の地位からやり直しになる。かなりな広範囲を生活圏としている猫の場合、一つの地区では長老で、もう一方の地区では下っぱである、というヤツもいるらしい。もちろん、絶対的テリトリー内ではそのテリトリーの持ち主の猫が絶対上位であり、例え地域のボスでも入り込んでしまったときには大きな顔をしてはいけない。
 ちなみにゴミ集積所などをあさる場合、上位下位関係なく先にやってきた者に優先権があり、上位猫であっても順番を待たねばならぬのだ。

 猫にも猫社会のしがらみがあるのだ。でも、猫は猫間関係で神経が参ることは絶対にないらしい。対人関係では神経をやられることもある。あまり集会を欠席するのも立場が悪くなるかもしれないので、夜出たがっている猫サンは出して上げてください。ナンパ目的の外出ばかりではないのです。

 

空き地  (2002.7.20)

 「空き地」という日本語をご存じですね。広辞苑によると、「あきち【明地・空地】 使用していない、または建物の建っていない地所。」と、あります。

解剖学者の養老孟司氏は自著「脳と自然と日本」の中で、”都市というのはその中に自然の存在を許さないもののことだ”、書いている。
 意識はしていないだろうが、自然のものは極力排除してしまう。確かに東京の中で、一見自然に見えるものを見てみてもそのほとんどがよくできた人工自然である。
 建物が撤去された跡地を見てみると、そこには放っておくと、すぐに雑草が生えてくる。なにも手を加えなくても、どんどん草は増えて背を高くしていく。そのまま数千年放っておけば森となる。唯一と言っていいかどうか、都市の中に存在するそういう自然状態を、我々はこともあろうに「空き地」と呼んでいる。要するに、建物も建っているわけではなく、農地でもなく、公園でもない。なんら、人間の経済的あるいは物理的な役に立っていない土地は、そこに自然があっても、単なる「空き地」に分類されてしまうのである。

*雑草・・・経済的・生産的に役に立たない草類を「先進国」ではひとくくりに雑草と呼んでいるらしい。

 

過去形の謎  (2002.7.20)

 街なかで休みたい時とかによく「ドトールコーヒー」なんかに入ります。最近とても気になるのだけど、バイトの店員の言葉づかい。言葉づかいが失礼と言うのではありません。

 「ご注文は?」
 「カフェ・ラテのS」
 「店内でお召し上がりでよろしかったですか?」
 「は?はい。」(五百円を出すとする)
 「五百円からでよろしかったですか?」

 「~~かったですか?」って、お前は前にも応対してくれたことがあるのか!?若い子達がこのようなおかしな過去形文章を使うのは前からわかっていたが、ああいうきちんとした場で使うのは異様だし、  責任者クラスの人がそばにいつもいるのに、そのままにしているのもなあ・・・。

 もちろん、この例はドトールコーヒーに限ったことではありません。若いバイトのいる店でよく見られる光景です。たまたま、ドトールで時間をつぶすことが多いもんで・・。


◎この文章を掲載後、何人かの方から情報をいただきましたので掲載いたします。

まりんさん (2002.8.12)
 ところで雑記帳にあった「過去形の謎」あれ、今の若い子に多いんですか。北海道に行った時、あの言い回しは頻繁に聞かれました。あとでどこかのBBSでその話題を振ったら、北海道ではよく使う言い方だということでした。しかし・・・やっぱり変だよね。

Ryoichi (2002.8.12)
 確かに北海道では、始まりのところでも過去形をつかうの聞いたことありますね。「こんにちわ、ジョニーです」(なんでジョニーだ?)と最初に挨拶するケースで、「こんにちわ、ジョニーでした。」と。

I.Yさん (2002.8.13)
 「過去形で話す人々」、ですが、その人は”なごやん”ではないでしょうか?
名古屋弁では過去形は”謙譲語”になります。英語の”Would you・・・?”みたいなもんで、過去形は相手に譲ってる、そんなとこです。
 ファミレスで”チョコパフェ一つでよろしかったですね?”と聞かれます。お店で何個か買うと”以上でよろしかったですか?”と言われます。あと、シャイ(都会人からは“排他的”ととられるよう)ななごやんの新規需要家なんかに行くと、おやじさまが”なんだった?”(何かご用でしょうか?)と、のたまう・・・。
 とってもとってもシャイな人たちが、2つの都会(東京%大阪)に挟まれて、影響を受けながら独自の謙遜スタイルを作った、その現れではないか、と。

玄武さん (2002.8.14)
 北海道西側の方で、朝一番の挨拶が「おはようございました」
 ま~起きたのは今より前だけどね~と思ってしまった。 店の従業員の場合は、現在の確認ではなく、状態の確認といった距離を置いた心理なのかもしれませんネ

ちなっきさん (2002.8.16)
 『**でよろしかったでしょうか?』って初めて名古屋で聞いたので私も名古屋弁かとおもってました。友達曰く違うらしいのですが・・・

 

右と左  (2002.7.10)

 辞書って、結構面白いものなんです。辞書で言葉を説明する時に、詳しいことは忘れましたが、 他の単語による言い換えはルール違反だと聞いたことがあります。極端な例で、実際にそう書いてある辞書はありませんが“「右」=左の逆”みたいに。

 ところが、実際に手元にある辞書で“右、左”などを引いてみてください。おいおい、と言いたくなる記述がなされていると思います。例えば手元にある新潮国語辞典《現代語・古語》では“「右」=東に向かって南にあたる方向”と記述されています。広辞苑でも同じでした。“食事の時にお箸とおわんを持つと、通常お箸を持つ側”とか“ノミと玄翁(金づち)で作業をする時に、玄翁を持つ方”なんていう、本当においおい、という説明のされている辞書もあります。LONGMAN英英辞典(要するに英語圏の国語辞書)には “体の心臓がある側と反対の側”のように書かれています。

 気づいたと思いますが、東西南北で記述しているのは地球上でだけしか意味が通りません。身体を例に出しているものも、右利きが前提になっています。心臓が右側にある人もいるから、説明になっていません。

 このように、普遍性のある説明を加えるのが非常に困難なものが多い。ちなみに英語の右はright。これは「正しい」という単語と同じですね。インドでは左手が不浄といわれたり、頭が鈍いのを左巻き、というのと同じ発想です。右や左と言う単語を普遍的な表現で説明するとしたら、 物理学の素粒子のスピンの方向の説明でも使うしかないかもしれません。

 右や左、と同じように、「上、下」それに色の説明も難しいですね。“赤=りんごの色”と説明されていた辞書もありましたよ。血の色である、と説明されていたケースもあるけど、 万人が同じ赤ではないだろうし、ガメラの血は緑じゃなかったっけ?このように辞書で、ある単語がどのように説明されているか、というのを読むのも面白いものです。

 そうそう、前に金田一春彦先生編纂の国語辞典で“「恋愛」=お互いに好意的な感情を持った男女がいつも一緒にいたいと思い、ときに合体したいという欲求をもつような精神状態”のように書かれていました。おいおい金田一先生、、^^;。

 

ある浮浪者のおじさん  (2002.7.14)

 もう、十年も前のことだろうか。とある平日の午後、新宿駅から各駅停車にて下っていた時のこと。
 南新宿からホームレスのおじさんが乗ってきた。当時はホームレスと言うより浮浪者という言葉が一般的だったような。また、そのおじさんも「浮浪者」という感じだった。
 歳はおそらく50代。思わず見惚れてしまったのだ。穏やかな微笑み、やさしい目。漂う豊かな心に吹き抜ける涼しい風。その時はもちろん、今現在でもこのおじさん以上の人は見たことがない。ガラガラの電車の通路をヨチヨチ歩いていく子供を見る温かい目。

 もしかしたらそのおじさんは「イッちゃってた」のかもしれない。でもその時感じた素直な感覚は「こんな豊かな心の人間になりたい」だった。もちろん、見かけ以上にその人のことはわからなかったのだが。

 精神世界やその方面の輩に多い“我こそ悟った”という者達とは全く違う。そのような人たちは「現世欲を超越してマス」という事を強調するが、はっきり言って俗っぽくない人は苦手です。有名なあの人もその人も(支障があるので名前略)あまりに表情がさわやか過ぎて、俗っぽさがなく、自分から見るとかえって胡散臭い。ウソをついているわけではないのはわかるが、本物ではない感じというか。俗な世間の感覚を否定するのがそんなに偉いと思っているのか?

 そのホームレスのおじさんは、超越と言う感じではなく、しっかりと俗の世界で楽しく生きている感じでした。もし、浮浪者してなかったらどういうところにいるだろうかとふと考えてみる。
 俳優の故・宇野重吉氏が俳人か住職役をやり、縁側でお茶をすすりながら「ホウホウ、、」と話を聞いてくれているような感じ。かえってわかりにくいか。。

*宇野重吉・・・俳優、かつて「ルビーの指輪」で大ヒットを飛ばした寺尾聡の父

 

「あなたにとって”○○”とは?」  (2002.7.17)

 またテレビで、半端なタレントレポーターがその質問を発した。

「あなたにとって、”○○”とは何ですか?」

 他人事ながら、あのような質問は腹が立つ。インタビュアーがインタビューの手を抜いて、相手に綺麗にまとめてもらおうというのが見え見えだからだ。

 NHK教育テレビで(東京では)土曜夜10時30分から放映されている「美と出会う」が好きでよく見ているのだが、作家にインタビューしたり一緒に思い思いの場所をめぐる番組で、相手役は山根アナ。彼女もたまにそういう質問をする。しかし、山根さんの場合はまったくそういう手抜きのなせる技ではない。取材する作家に対する最低条件の礼儀としての調査は十分された上で、自身の好奇心を交えた質問をする。その上で、自然な流れとして「○○さんにとって”××”とは?」と聞いているのだ。半端なレポーターがおざなりな質問をして、ワンパターンでそのような質問をしているのとは違う。
 ほとんどの半端なインタビュアーは、やっつけ仕事で今回はその当人を質問なり取材なりをしたので、当然下調べも半端だろうし相手に対する理解も浅い。それで「あなたにとって ”○○”とは?」と質問しておけば、綺麗な答えを返してくれてうまくまとめてくれるだろうという意識があるはずなのだ。インタビュアーとしてプロではないのだ。

 前回のW杯フランス大会に先立って、中田英寿選手が共同会見で「中田さんにとってワールドカップとは何ですか?」と質問されていた。中田はあしらうように「世界選手権じゃないですか?」と答えた。わが意を得たり!心の中で拍手拍手だった。よく言った!自分も「いとうさんにとって”絵”とは何ですか?」なんて聞かれたら(そんなこと聞かれる身分ではないから、そんな心配もないが・・)「絵は絵ですけど?」と答えるしかない。あしらう気がなくても。それしか言い様がないもん。
 子供新聞記者という企画で、インタビューにくる小学生だって、彼らなりに一所懸命下調べはしてのぞんでいるだろう。仮にも普段からテレビに出てインタビューをしているものは「プロ」なのだから、安易な質問が相手に対して失礼なことでもあるという意識は持っていてもらいたいと思うのだ。

 

ワタクシの危機管理能力  (2002.7.17)

 「危機管理能力」というと聞こえはいいんですが、もっとはっきり言うと「面倒な事態から回避(逃避)する本能」と言いましょうか・・。

 ある集まりがあったとします。特に何かを察知しているわけではないのだけど、なんとなく「そろそろ帰りたいなぁ」と思って帰ると、そのあとが大変だったとかいうことが多いんです。
 それから、行きつけだったけど、行く気がしなくなって行かなくなった店や場所が、その後つぶれたり無くなったり。
 まあ、見方を変えれば何のことはない、帰りたくなったとか、行く気がしなくなったというのは、そこがじきにそのようになるという雰囲気を、もうその時点で発しているということでもありますね。それを感じ取っているだけで。勤めた会社や業界も自分が入ったときが一番いいときで、辞めたあとが急にガクンと傾いたりということがほとんど。とくにその業界のことを調べて入ったわけではないので悪運が強いの一言。

 新卒でコンピューターの会社に入り、寝耳に水の大阪配属になったとき、行った年がバース・掛布・岡田の三大砲での怒涛のタイガース優勝。そして東京に帰る年が最下位と、これは関係ないか?

 以前ある先生にいろいろお世話になっていた頃、先生の関係の食事会に参加したとき、宴の途中で「そろそろ帰ろ」とボソッと言ったのだった。僕が危機逃避能力に長けていることを知っている先生は真顔になって
 「な、なんで?」と不安になっておられました。
 後日先生から聞いたところでは、案の定そのあと参加者の一部で修羅場になってしまったということでした。

 シャーリー・マクレーンの本が話題になったころ、一応精神世界にも興味をもっていたのですが、あの世界では「この世のすべてに意味があって、すべてが自分にとっての学びである」のです。だからその方面の方々は、人間関係でもなんでも障壁があったら自分にとって学びであり、克服しなければいけないと思っておられます。
 ご苦労なことだなあ、というのが正直な感想です。仮に百歩譲ってすべてに意味があって学びのためだとしたら、なぜそういう障壁は克服しなければならない事であると言う意味だと決め付けているのか?もしかしたら「そういうときは、とっとと逃げなさい。何でもかんでも抱え込んでたら大変よ。臨機応変に逃げることを学ぶのが今回の意味よ。」ということかもしれないじゃない?と思ってしまうのだった。

 ちなみに、学びであるとか、意味がある、ということを否定しているのではなく、自分はそれについて否定する材料も肯定する材料も持ち合わせていないと言うことです。

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